何度も迷いそうになりながら、それでも僕は、なんとかミツルさんの家に着いた。
あの日、ミツルさんを振り切って飛び出してきたドア。その前に立ってゆっくり深呼吸をすると、僕は緊張で震える指でチャイムを押した。
ーーピンポーン
いないのかな? 物音のしない室内の様子を、ドアの外で伺う。もう一度チャイムを押そうか悩んでいると、ドア越しにずっと会いたかった相手の声を聞いた。
「…誰」
あれ? 短く問われた声は、確かにミツルさんのものだけれど。
「ミツル、さん…? 白、だよ?」
いつもと、違う…? ドア越しに聞こえた声に、ミツルさんらしくない硬さや冷たさを感じた。
体調、悪いのかな。それとも、あんな風に逃げた僕になんか、会いたくなかった? 溢れそうになる不安を抑え込みながら待っていれば、中から鍵を開けられる音。
ーーカチャ
「…来たのか」
開かれたドアの間から覗くミツルさんの姿。久しぶりに会うミツルさんの瞳は、声同様にいつもの優しい穏やかな雰囲気がなくて。
…すこし、こわい? 足が僅かに震えるのを感じながら、必死に言葉を紡いだ。
「…あの、会社、休んでるって聞いた。…大丈夫? 体調、悪い? それとも、僕…」
僕のせい? その一言が繋げなくて。僕はそこまで言って、俯きコンクリートの地面に視線を落とす。
暫くの沈黙の後、目の前のドアが広く開かれたのがわかった。恐る恐る顔を上げると、僕を見るミツルさんの姿。
「…とりあえず入れよ、白クン?」
そう言ってにっこり微笑んだミツルさんの顔は、いつもと変わらない気がする。それなのに、何故か感じる不安をを心の隅へと押しやれば、こくりと頷いて、部屋の中へと入った。
ーーミツルさん、やっぱり変…。
ミツルさんについて部屋の中へと入ったけれど、何も言おうとしない、僕の方を振り向こうともしないミツルさんに、隅へと押しやった不安が、少しずつ大きくなるのを感じた。
「…ねぇ、ミツルさん」
戸惑いながら名前を呼んだ僕に、振り向いたミツルさんはなにも言わずに僕を見る。
「……」
部屋を入る時と同じにっこり微笑んだ表情は、笑っているはずなのに、何故か怖くて。理由のわからない恐怖や不安を必死に抑え込みながら、ミツルさんに話しかける。
「やっぱり、体調悪い…?」
見当違いなことを聞いているのかもしれないなって思ったけれど。僕のせいかどうかは、やっぱり聞けなかったから。
「大丈夫だ」
大丈夫。そう言われても、ミツルさんの様子を見ていると、大丈夫なんて気がしなくて。
「…やっぱり、僕の、せい?」
恐る恐る、聞いた。聞いた声はすごく小さくなって。
それでも小さな声はミツルさんに聞こえていたみたいで。怖くて、それでも返事を待つ僕に、ミツルさんは微笑みながら口を開いた。
「――そうだよ、白クンのせい」
ぼくの、せい。
「っ…」
楽しそうにすら聞こえるような軽い口調で言われたその言葉に、頭をガツンと殴られたみたいな衝撃が走った。
「…白クン、馬鹿なのな。こんなところ、来なきゃ良かったのに」
ミツルさんの口から紡がれる、ミツルさんの言葉だなんて信じたくない言葉。目の前にいるのはミツルさんの筈なのに、ミツルさんだなんて信じられなくて。
「ミツル、さん。僕…」
言われた言葉を信じたくなんかなくて。いつも優しく僕を撫でてくれていた大きな手に、手を伸ばした。だけど、伸ばした手に感じたのは、相手の温かな熱じゃなくて、強い痛みと、痛みから生まれた熱。
「ぃたッ…!?」
突然のことに何が起きたのかわからなかった。わからずに戸惑っているうちに、目の前にいたミツルさんが遠くなったと思えば、ダンッと大きな音が聞こえて、すぐにお尻や肩に痛みを感じる。冷たい目で見降ろすミツルさんを見つめながら、自分が突き飛ばされたことに気付いた。
「お前、なんなの? コイツに優しくされて、そんな嬉しかった?」
見降ろしながら投げられる言葉には、僕の知っているミツルさんの、ほっとするような優しいやわらかさなんて、一つもなくて。
「僕は、っ…!!」
別に、ミツルさんに優しくされたのが嬉しかったから一緒にいたいとか、そういうことじゃない。そう、言おうとしたのに、左肩を思い切り蹴られれば、その痛みに言葉が遮られる。
「自分の思うがままになってくれるコイツといて楽しかった?」
「そん…こと…っ」
そんなことない、違う、そう言いたいのに。肩を踏み躙られる痛みに、僕は悲鳴を上げそうになるのを堪えるのが精一杯で。それでも、必死に違うと否定しようとする僕の言葉を、遮るようにお腹を蹴られれば、僕は痛むお腹を抱え込むように丸くなる。
「…みつ、さっ……ぐッ…」
必死にミツルさんの名前を呼んでも、返事はもらえなくて。ただ、強く蹴られる痛みだけが身体中に増えていく。
どうしてミツルさんがこんなことをするのか、わからなかった。ただ、優しいミツルさんに、こんな暴力を振るわせるようなことを、僕はしてしまったのかもしれない。そう思うと、ただ悲しかった。
「ごめ、なさ…っ」
「黙れよ」
強い痛みと、冷たい言葉。どうしてこんなことになったのかなんて、もうわからなくて。少しでも身体を守るように丸くなりながら、痛みに耐える。いつしか涙が溢れて、視界がぼやけた。
「みつ、る…ッ……ミツル、さっ…」
涙でぼやけた視界は、ミツルさんの冷たい目を隠してくれて。僕は、公園で優しく笑いかけてくれたミツルさんを思い浮かべる。それだけで、痛みが少し和らぐ気がした。
「たす、けて…」
朦朧とする意識の中、ぽつりと呟いた。
「誰が助けにくんだよ?」
嘲笑うように言われた言葉を遠くに聞きながら。僕は大好きな人を求めた。
「みつ、さん……助け、て…」
白くん、と優しく呼んで、くしゃりと頭を撫でてくれたミツルさん。
お昼ご飯には、いつも甘いお菓子をデザートに買ってきてくれたミツルさん。
僕が大好きになった、ミツルさん。
「お前、誰に殴られてんのかわかってねぇの?」
呆れたような、嘲笑うような声が告げる、認めたくない現実。だけど、僕が助けてって、そう言えるのはミツルさんしかいないから。
「…すけ、て……ミツル、さ……みつ、さん…」
ミツルさん。ミツルさん。ミツルさん。
ただただ痛みをこらえながら、ミツルさんを呼んだ。助けて、ミツルさん。助けて…。
「お前、本当……ぐッ!!」
ミツルさんの、苦しそうな声が聞こえた気がした。それからすぐに、ずっと続いていた暴力が止む。
蹴られる痛みで保てていた僕の意識は、深い闇の中へと落ちていったーー。
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