6.
「岬さん、ちょっと良いかしら」
そう、冬野に声をかけられたのは、七月に入り少しした頃だった。
その日、岬が病室を訪れればヒカルは昼寝の最中だったようで、大きなベッドの上で小さく身体を丸めて眠っていた。その腕にはうさぎのぬいぐるみ。
ベッドの横に腰かけ、眠るヒカルの髪をそっと撫でる。
暫しそうやって撫でていれば、いつの間にか来ていたらしい冬野に、入り口の方から声をかけられたのだ。
「あぁ、こんにちは。なんです?」
少し改まった様子の冬野に、岬は腰を上げれば冬野と共に病室を出たーー。
「ヒカルくんね、今月の終わり頃には退院する予定で話が進んでいるの」
まだ早く感じるその話に、岬は眉を寄せた。確かに保護されたばかりの頃と比べればだいぶ元気にはなったが、退院というにはまだ不安要素はたくさんある気がする。
「退院? けど、まだ状態はーー」
「確かに失声症の方はまだ治る気配はないですし、栄養失調の方も万全って訳ではないですよ」
冬野は岬の言いたいことはわかると言うように頷く。
「けど、失声症は長期的にみていくしかないですしね。栄養失調も、最近は一日一度の点滴以外は普通の食事を摂っているだけで特別な治療をしてる訳じゃないんです。ーー普通のご家庭の子なら、もっと早く退院しているくらいなのよ」
ーー確かにそうなのだろう。失声症は不便はあるものの日常生活を行うのには問題ないだろうし、運動不足や栄養失調からきている立ちくらみも、気をつけていれば問題はない。
だが、血縁者もいない、戸籍すらないヒカルは、退院してどうなる?
そんな岬の胸の内を読んでいたようにら冬野が口を開いた。
「退院後は、児童養護施設に引き取られる予定よ」
「施設…そうか」
冬野の言葉に、そんなものがあるのだったと、岬は思い出したように頷く。とりあえず、ヒカルが独りになることはない。岬が僅かに安堵したのを感じたのか、冬野は一度口を閉ざし、暫く悩んでから口を開けた。
「…あのね、これは私の個人的なお願いなのだけれど」
「はい」
冬野の言葉に、岬はその言葉の先を待つ。
「ーー施設へ行ったら、他のお子さんとの兼ね合いもある分、今のように親族関係でもない岬さんとヒカルくんが頻繁に会うことはきっと難しくなると思うわ」
「……そうでしょうね」
反論することもなく、だが苦さを含んだ声で岬は頷く。当たり前のことだろう。法的な部分では、岬とヒカルは赤の他人なのだから。
そんな岬の様子に、冬野は困ったような笑みを浮かべながら続ける。
「ヒカルくんを見ているとね、岬さんのことを大好きっていうのがとても良くわかるのよ。私達といる時と表情が全然違うし、いつも岬さんが来るのを待っているの。初めてもらったぬいぐるみも片時も離そうとしないしね」
ヒカルの姿を思い出すように笑った冬野に、岬は照れ臭そうに視線を逸らす。
笑いを収めてから、冬野は真剣な声音で岬に問いかけた。
「…岬さんは独身でしたよね」
「ええ。特にそんな予定もないですね」
唐突な質問。だが、質問の理由はなんとなくわかる。岬は苦味を帯びた声で答えた。
「…もちろんご結婚していたら、それはそれで問題はあるでしょうけれど。…男性一人で子供を一人引き取るのは現実的に難しいことです。ヒカルくんの場合、病気のこともだけど、戸籍の問題もありますから、余計に大変だわ」
「……」
ーー全く考えていないことではなかった。だが、冬野の言うとおり、子供一人、それも病気はもちろん、一般的な常識ももたず、法的な部分での問題まで抱えたヒカルを引き取るというのはそんな簡単な問題のわけがなく。
それでも、顔を出せば嬉しそうに笑うヒカルが可愛く、ついつい先のことを考えるのは後回しにしたまま、足を運んでいた。
「もっと早く、岬さんにこの話をした方が良いのかもしれないと思ってはいたんですけどね。ヒカルくんの嬉しそうな顔を見てると、ね」
言えなかったわ、と。そう言って苦笑を浮かべる冬野に、岬は何も言わずに苦笑で返した。
「…これからのヒカルくんの退院までの時間、今のヒカルくんではなく、退院後のヒカルくんのことを考えた上で過ごしてあげてください。私達も、できる限りの協力をしていきます」
まっすぐに岬を見据えてそう告げる冬野に、岬はゆっくりと頷いたーー。
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