■  悪魔と睡魔 5

悪魔というからには淫魔と並んでそれなりの経験人数があるものと思われがちだが、現実には単なる風評被害に他ならない。ただの種族の印象でレッテルを貼られる事に嫌気がさしていた時期もある。だからこそ今では頑なに名を伏せているけれど、若かったあの頃はまだ恥じるという感覚も、ましてや名を隠すと言う概念すらなかった。なのにどうしてこんなにも、己の名にコンプレックスを抱いているのか。

全ての原因は、今、私を押し倒すこの睡魔のせいである。と、一生思い出さないように深く深く埋めた記憶を何十年か振りに掘り起こす事態に陥っているのだが、せめて一言魔王様に言伝をさせてもらえないだろうかと開いた口は、息を吸い込む間もなく手のひらで塞がれた。

──魔王様、申し訳ありません。私は明日、屍となっていることでしょう。幹部という身でありながら無断欠勤となる事を、お許しください。

諦めて目蓋を閉じると、簡単に手のひらは離れた。代わりに柔らかな感触が唇に触れ、それが睡魔からの口付けであると理解するのに時間はいらない。なぜなら私は知っているからだ。この男がどんなキスをして、この先どのように手解きをするのか。睡魔自身が記憶しているのかは定かでないが私は知っている。覚えている。だから、そうだな。『目が覚めたら』また記憶の奥深くに埋める事としよう。



 ・*.°

「た、たたたっ、大変です〜っ!」

部下であるきゅうけつきが、慌てた様子で駆け寄ってくる。振り向いたあくましゅうどうしに追いつくと、膝に手をつき、額の汗をぬぐってから上司を見上げた。

「どうしたんだい? そんなに慌てて」
「あくましゅうどうし様! 新人魔物が──…」

魔界に咲いたサクラも散ってしまい、すっかり葉桜となってしまうこの季節。初々しい新人魔物が、時としてこちらが想定する以上のミスを起こす事がある。それは自身が通ってきた道でもあるし、指導する立場としての経験からも言えることだ。しかしながら、大概のアクシデントはフォローできる自負がある。

あくましゅうどうしが詳しく話を聞くと、どうやら新人魔物は書庫の整理中に誤って『禁断書』を開いてしまったらしい。本の魔力に当てられて倒れた魔物の様子を見るべく、あくましゅうどうしはきゅうけつきと共に急いで現場に向かった。

普段であれば静かな書庫で、数人の魔物がざわついている。倒れた魔物を見守る彼らをきゅうけつきが持ち場に帰らせ、あくましゅうどうしは当人を抱えて医務室へと向かった。緊急で呼び出されたのろいのないかい・トリースは、聴診器を耳から外すと、デスクに置いてある分厚い本の表紙を眺め、古紙に押された禁書の証明である印を指先でコツコツと鳴らした。

「いくら新人魔物でも、この印章がヤバいかヤバくないかの知識くらいあるでしょ」
「どうかな。結構古いモノだから、最近の子はわからないのかも」

ため息混じりに悪態をつくトリースに、あくましゅうどうしは困ったように笑った。

「とりあえず身体に異常はないですよ。それに、気を失っていると言うより、眠っている状態に近い」
「え、これ寝てるの!?」

診断結果にあくましゅうどうしがハッとすると、トリースは淡々としたいつもの調子で「はい」と返事をして、手元の本を修道服の胸元に押し付けた。

「呪いで眠らされてるなら『眠りの専門家』に相談した方が早いと思いますけど」

のろいのないかい然り、様々な役職を掛け持つ彼は忙しいのだろう。あくましゅうどうしが本を掴むと、ひらひらと手を振って診察室から出て行った。彼の言う『眠りの専門家』は姫を覗いてひとりしかいない。

──あいつ、起きてるのか?

あくましゅうどうしはベッドで眠る新人魔物にシーツをかけながら、何処から探しに行くべきかと思考を巡らす。すぐには見つからないだろうし、あの男を頼る事自体に気が進まない。仕方ないと思いながらも、「はぁ……」と息をついて、気怠げに自身もその場を後にした。



通信玉を鳴らしても出ないと言うことは、今あいつはあきらかに眠っている。だとすれば厄介だ。術にかかった子をできるだけ早く対処してやらないと何が起きるか分からないのに、起きるまで待たないといけない。

城内を探し回り、やっと見つけた探し人は植物エリアの木陰で眠っていた。

「睡……、」


つい、声を発しそうになるが、グッと堪える。何も考えずに、この男を起こしてはいけないのだ。あくましゅうどうしは男が小脇に抱える木札を見るなり、自身の時計を取り出した。

──あと、15分。

短いようにも思える。しかし、探していた時間がある。待っていられない。唾を飲み込み、握りしめていた拳をほどいて、静かに肩を揺する。

「睡魔、起きてくれ。頼む」

昔のように驚かせて起こすわけではない。被害は最小限だ。あくましゅうどうしが声をかけると、睡魔はぼんやりと目蓋を開けた。

「……んン〜…」
「睡魔」
「…………、レオ? ……どうかしたのかぁ……?」

身体を起こし、大きな欠伸をしながら目を擦る。

「悪いな。けど、急いでるんだ。新人の子がミスをして──」

話しを聞いているのか怪しいくらいに寝ぼけ眼の睡魔に説明をする。持ってきた本を目の前に突き出すと、彼はようやく意識を現実に持ってきた。

「はぁ、これまた面倒なヤツを開いたもんだな〜」
「どうしたらいい」
「どうするも何も、こいつはお前さんには無理だ」

うつらうつらと身体を揺らしながら、睡魔が笑う。あくましゅうどうしが「えぇ……」と小声を吐き出すと、彼は子どもをあやすようにあくましゅうどうしの頭に手を置いた。

「次の鐘が鳴ったら起こしてくれ」

そう言い残して、睡魔は再び身体を倒す。先程までの体勢と違うのは、あくましゅうどうしの膝へと無遠慮に頭を置いたからだ。ぽすんと重みをかけられ「はぁっ!?」と悪態をつくあくましゅうどうしだったが、それは夢の番人である彼がその後の処理をしてくれる合図であると理解していた。

「今回だけ、だからな」

あくましゅうどうしの黒耳が僅かに震え、睡魔の口元が綻ぶ。調子に乗る相手の鼻でも摘んでやろうかと考えた結果、伸ばした手は心地良い風にそよぐ銀髪を撫でるに留まった。



 ・*.°

──久しぶりだなぁ、レオ?

暗闇の中、不意にかけられた声に、あくましゅうどうしは目を覚ました。見慣れた自室の天井。日中の騒動後、無事に新人魔物を救い出してくれた睡魔に飯を奢り、そのまま部屋で酒を酌み交わした記憶がある。ベッドの上にはいるけどいつ寝たのかは……、分からない。

半身を起こし、二日酔いにも似たガンガンと痛む頭を押さえ、あやふやな意識に唸る。

「睡魔……?」

何処にいる?
帰ったのか?
あくましゅうどうしの呼びかけに返事はない。
しばらくの沈黙の後、再び頭の中に声が響いた。笑っている。間違いない、睡魔の声だ。

──何処見てるんだ? さっきから、お前の横にいるだろう?

驚いて顔を上げる。瞬間、フッと耳元に息がかかる。

「……っ!?」

咄嗟に身体を退けようとしたが、それより早く力任せに肩を掴まれベッドに押し付けられる。あくましゅうどうしは「グッ」と声を漏らした。

「逃げなくてもいいじゃないか。ゆっくりしていけ」

暗闇に視界が慣れてくると、睡魔のシルエットが浮かび上がった。雲の隙間から月が覗き、淡い光に照らされる。いつもなら反射して美しく煌めく銀髪は、漆黒に染まり、まるでカラスの濡れ羽色のようだった。

「お……、お前」
「覚えてるか?」
「……痛っ」

悪魔である自分と同じ色をした鋭い爪が、布越しに肌へと食い込む。痛みに歪む顔を見て、黒髪の睡魔は愉快そうに笑った。

「お前、またやっただろう」
「…………」
「俺の睡眠を妨げるとどうなるか、忘れたのか?」

──睡魔の睡眠を妨げると呪いが漏れて己に刺さる。
身をもって体験しているので、忘れるわけがない。

「でも、今日は何も……」
「何も『起こらなかった』んじゃない。『俺が、起こさせなかった』だけだ。感謝しろ?」

いつもの睡魔は何も言っていなかった。いや、本当にそうだったか? 酒を飲みながらした会話が思い出される。

『──まぁ、もしかするともしかするから、頑張れよ?』
『ん? 何を?』
『こればかりは俺にどうこうできる問題じゃないからなぁ』

ベロベロに酔っ払った睡魔が口を滑らせた気掛かりな言葉はコレを案じていたのかもしれない。己のことに関しても無責任とはどう言うことだ。あくましゅうどうしはふつふつと苛立ちを覚える。

「まさかあくましゅうどうし様が、恩を仇で返す訳ないよなぁ?」

睡魔が牙を覗かせて悪魔のように笑う。指先が頬を滑り、遠い昔の記憶が掘り起こされる。

「さぁ『レオナール』。始めようか」

手のひらで口を塞がれる。
悪魔より悪魔らしい睡魔とは何者なのか。
そういえば同じ事を、あの日も感じていた。

どうせ夢だったのだからと都合よく忘却した全ては、再び夢によって思い出させられ、睡魔が指を弾いて鳴らすと、どこからともなく触手のようなものが伸びてきた。

「…………」

手首をスルスルと這うそれはやがて衣服を溶かし、滑らかな液体を身体に塗りたくる。

「なぁ……、睡魔」
「なんだ?」
「本当のお前は、どっちだ?」
「んン?」

睡魔は一瞬押し黙ったかと思うと、静かにほくそ笑んだ。あくましゅうどうしの顎を持ち上げ、ゆっくりと唇を重ねて深く舌を捩じ込む。

「…………ッ」

苦しい。そう思うのと同時に、身体が刺激に反応する。唇が離れ、深く呼吸をするあくましゅうどうしの肌に伝う汗を、睡魔は舐めとった。

「アイツと俺は別じゃない。同じだ」

耳元で囁かれ、そこから『宴』は始まった。己の名に由来する通りとなった夢から覚めると、隣にはいつもの気の抜けた睡魔が眠っていた。

「何なんだよ、まったく」

眠っていた筈なのに、酷い疲労感だ。腰もありえないほど痛くて動けないし、ベッドから起き上がれない。やはり今日は働けそうにない。大人しく目蓋を閉じて次に目が覚めた時、睡魔はすでにいなかった。

「……早く忘れよう」

あくましゅうどうしは枕に顔を埋めて沈黙した。
情けなく熱を孕んだ姿を、これから侵入してくる彼女に見られたくない。
一秒でも早く、忘れさせてくれ。

END.

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