08.死ぬほど愛して
「死ぬほど愛して」
なんて、ただの独りよがりだと、主任がいつか言っていた。
どうやらそんなようなタイトルのイタリア映画の主題歌があるらしく、たまたまいつもと違う居酒屋を使ったときに、店内に流れていたラジオで紹介されたのだ。石倉さんは奥さんがイタリア映画がすきだから聞いたことがあるらしく、歌の部分に入ると思い出したように「ああ、」と声を上げて反応していた。
「死ぬほど愛してる、って一回でいいから言われてみたいですよねー。そんなこと彼女から言われたらしびれません?」
いつもの調子で焼き鳥をほおばりながら湯田が騒いだ。
どんな状況で言われたいだのと力説しながらビールを流し込む。それを眺める石倉さんと葉山の目は父親と兄貴さながらで。
追加で来た料理を店員から受け取るときに、斜め前の主任に目がいった。
…なんだか様子がおかしい。
長い睫毛を伏せ、影を作っている。食べようとしている(らしい)酢モツは箸でいじっているだけだし、さらに言うとこの顔はおそらくみんなの話を聞いていない。自分の世界に入りきってしまっている。
「主任?」
「…」
声をかけても反応がない。
他のメンバーもこれで異変に気付いたようで、みんな主任に注目している。
「……主任?」
「…えっ、ごめん何?」
「話、聞いてます?」
「ああ、うん、ごめん」
いつもの髪の毛をかきあげる仕草。
やっぱり考え事してるな。
いつのまにか主任のことが手に取るように分かるようになった自分が嬉しかった。
「もー主任呑みすぎじゃないんすかー?」
「ばかね、そんなに呑んでないわよ」
「疲れてるんでしょう。帳場長かったですからねえ」
湯田がちゃかすと笑ったが、それでもやっぱり上の空。
手元の酒の氷が溶けると軽快な音を立ててグラスの底に落ちていった。
結局、料理を食べ終わりかけていたこともあってか、その後30分もしない内にお開きとなった。
「で、今日は何を考えていたんですか?」
「なにそれ」
「飲み会の途中ずーっと上の空でしたよね」
空は満天の、とは言い難いが、都会にしてはなかなかの星空だった。春になったとは云えどまだわずかに肌寒さが残る夜道を主任と二人で歩いている。
向かうのはいつものホテルじゃなくて駅だ。駅に着くまでが、俺に与えられた貴重な二人きりの時間。
「死ぬほど愛して、なんて、ただのエゴじゃない?」
「え?」
「そんなこと、考えてたの」
「死ぬほど、なんて愛してほしくないわ。ただわたしと一緒に生きてくれればそれでいいもの」
「…ある意味死ぬより重くないですか、一緒に生きるのって」
「そうねえ、そっちの方が重いかも」
主任はけらけらと笑って見せたけれど、本気だったと思う。
静かな空気から一転、大通りに出ると車の音と人の話し声で騒がしくてかなわない。駅まで一言も言葉を発さずに、横で静かに歩いている。
街中のネオンが強すぎて星も見えなくなってしまった。
駅に着くと小さくお礼を告げて、俺が持っていたカバンを受け取る。
「じゃ、また明日」
そのまま急ぎ足で改札に消えようとする主任の手首を捕まえて思わず引き留めた。
今ここで伝えなきゃいけないような、そんな気がして
このまま帰したらいけないような、そんな、
「…俺は、」
「なに、どした?」
「俺は主任と一緒に生きていきたいです」
そう本心を口走った俺の目に、吃驚した彼女の姿が映る。
当然だ。言ってしまえばこれは告白しているのと同じことなのだから。
いやむしろそれよりももっと。例えばプロポーズにもなりかねない。
そう思い直すと急に焦りだして、手首を掴んだ右手も汗ばんで来たような気がする。
「手、はなして」
指示通り手を放すと、またいつもの髪をかき上げる仕草。それから小さくため息。髪の毛で隠れていて見えないけれど、耳が僅かに赤いから、たぶん怒ってはいないんだろう。
駅特有の騒々しさも忘れるくらいの2人の空間がそこには出来上がっていた。
「…菊田」
「はい」
「………馬鹿」
彼女が小さく自分の手首にキスをおとす。
そこはさっきまで俺が掴んでいた部分で。
まるで直接口付けられているかのように、手のひらが熱を持つ。
「手のひらにキスの意味、なんだか分かる?」
「…え?」
「また明日っ!」
それから彼女はくるりと後ろを向いて、喧噪の中へと消えて行った。
死ぬほど愛して
(手のひらのキスの意味は懇願)
(あの馬鹿、ちゃんと分かってるのかしら)
(笑わないで聞いてくれる?)
(生き続けるなら、わたしもあなたと一緒がいい、と。)
筆者:からんと樣
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