端緒2
苦しい。
自分の内に積まれていく疑問符や靄がかかったよく分からない感情がのし掛かる。
しかしどこか風穴を空けられた様な言い知れない虚無感。
この気持ちは何だろうか。
「朝飯…食いっぱぐれちまったな」
朝千鶴が起こしに来てくれてた。
知ってた。
平助くん、起きないと朝御飯無くなっちゃうよ?
聞こえてた。
昨晩は左之さんと一夜を共にしたのだろうか。
思い出したら千鶴の声を聞くのも
姿を見るのも今は何となく後ろめたくて
簀巻きみたいな形になって抱き締めていた掛け布団を慌てて頭から被り直した。布団の中でぎゅっと目をつぶった。
身勝手な忌避感に苛まれて、
好きあっているであろう二人に祝福も出来ない自分にも嫌気が差した。
夜は左之さんのとこ気軽に行けねぇかな
前みたいに寝酒も誘ってくれねぇのかな
千鶴は
いい子だし可愛いしな。
…こんなにも千鶴を羨んでいる自分にも戸惑う。
ぐるぐるとよく分からない思案を巡らせていればいつのまにか夢の中に誘っていたらしく次に気がついた時にはもう昼前だった。
今日が非番で良かったと胸を撫で下ろす。
のろのろとした動きで布団から這い出す。
着替えようと寝巻きの帯を解いて袖から抜くと畳の上にぱさとそれが落ちた。
さすがに飯抜きはきついから、勝手場に立ち寄ろうかと思ったけど襖のすぐ傍に握り飯と漬け物何片かが小皿に乗せたお盆がおいていた。
間違いなく千鶴の配慮だ。
一口食べて
ぎゅ、と胸が締め付けられる。
お礼言わなきゃな。あとごめんなって。
そして痛感した。
自分は千鶴に敵わない
「…素振りでもしてくるかな」
この陰鬱とした気持ちを振り払おう。
なら体を動かすのが一番いい。
立て掛けてあった木刀を握りぱたぱたと小走りで廊下を駆け抜けた。
一くんいるかな。一番組って巡察だったっけなぁ。
いつも素振りしてるし
もし居たら相手してもらおう。
一くんは清廉で一緒に居るとこういった邪とした気持ちも打ち払ってくれそうだ。
そう思うと早く一くんの顔が見たくなった。
「はじめくーん!いるー?」
一くんの名前を呼びながら
外に出るととてもいい天気で、そよぐ風が気持ち良い。
まるで自分の気持ちとは正反対だ。
この曇天の様な感情も取り払ってくれればいいのに。
階段を降りて辺りを見回した。
こっちには居ないから集会所とか裏の方かな
なんてきょろきょろしていたその時だった
「何か探してんのか?」
「…っ!」
体がびくっと戦慄いた。
今は会いたくない人物の声だった。
近付かないでくれと
全身の細胞が悲鳴をあげてる。
木刀を握っている掌が汗ばむ
後ろからこちらに近付いてくる気配に息をのんだ
「…さ…左之さん…」
心臓の鼓動が早くなった。
振り返って、名前を呼ぶのも緊張した。
ちゃんと呼べたかな。
左之さんと視線を合わせるのを躊躇ってしまい
ふいと視線を泳がせてしまった。
「そ、そう…一くん探してんの。一緒に鍛錬でもしようかなー!なんて」
わざとらしく木刀をぶんぶんと振り回すと
左之さんに当たりそうになる
「おっと…危ねぇな。一番組は巡察当番だろ?帰ってくんのは夕刻だぜ。朝も声かけても返事ねぇって千鶴が心配してたぞ」
俺もな。って付け加えて。
千鶴。
今までなんとも思ってなかったのに
左之さんがその名前を紡ぐとちくんと胸の辺りに小さく痛みが走る。
でも…そっか、今一くん居ないのか。居ないと聞くと余計無性に会いたくなるな。
「あー…そうだったっけ?俺さっき起きたばっかだから寝ぼけてたみてぇだ。…じゃ部屋に戻っかな」
自分でも顔がひきつってるのがわかる。
神経細胞が自分と繋がっていないみたいに。多分上手く笑えてない。怪しまれる前に立ち去ろうと左之さんの横をすり抜けようとした。聡いからな。左之さんは。
「昨日は悪かったな」
「…っ!?」
思わず立ち止まって左之さんを見上げる。
何だろう。よく分からないけど
左之さんの顔を、自分の事を見つめる瞳を見た瞬間胸が締め付けられた。痛い。
痛くて目頭が熱くなる。
何故こんなにも切ないんだろうか。
「っ…知ってたのかよ」
「いや、今判った。やっぱお前だったか」
ふ、と左之さんが薄く笑った。
ずりぃ、カマかけやがった。
ぎゅうと木刀の柄を握り直した。力を入れすぎて指先が白くなってる。
あー、何か言わなきゃ
「…ほんと驚いたっての!まさか左之さんと千鶴がな…っ!」
「あー…平助…お前やっぱり…」
罰が悪そうに何か言おうとする左之さんの言葉を遮って俺は捲し立てる。
一言口から出てしまえば次から次に泉の様に沸いて。
「べっ別に覗きたくて覗いたんじゃねぇよ!?ちょっと襖が空いてたから見えただけっつーか…しかし左之さんもほんっと手ぇ早いよなー。男前は得だなぁ。あっそういえば左之さん家庭的な女が好みっつってたもんな!」
何いってんだろ俺。
ちりちりと焼け衝くようなこの感情。
昨晩まではこんな感情に苛まれた事など無かった。
それが、今は考えれば考えるほど不毛の地に立たされる。
「おい、お前…」
「千鶴料理も上手いし家事も出来るしすっげぇいい子だし…」
左之さんがまた何か言おうとした。
それも遮断させた。
分かってても左之さんの口から聞きたくなかったから。
「可愛いし健気だし…良かったじゃん。…大事にしてやれよ…」
千鶴の事はこう思ってるのは本心なのに、自分で言いながらもどんどん暗い感情が募っていく。あぁ嫌だ
何が嫌だってこんな感情で頭から爪先まで支配されてる自分が嫌で仕方ない。
早く立ち去ろう。
これ以上ここで往生するのはしんどい
なのに何で俺の足は動かない
左之さんは何で黙ったまま俺の事見つめてんの
あぁでも、その蜂蜜みたいな色の瞳
とか綺麗で。射ぬくような真剣な時の視線も、優しく見守ってくれる様な眼差しも
俺の事撫でてくれるおっきい掌とか
…たまに殴られるし、実は結構不器用だったり
するけど。
からかったり、叱ったり、笑いかけて、
そんで、へーすけって。名前を呼んでくれる
唇も声も
…好きだなぁ。
それも全部千鶴のもんなんだと
思ったら寂しくて心が痛かった
俺が左之さんの一番になりたかった
こんな気持ち今まで誰にも抱いた事無かったから、よく分からなかった。
今までずっと一緒に居すぎて気付かなかったのかな。
…そっか
この鬱々としたよく分からない感情
嫉妬してたのか。
千鶴に。
そう思った瞬間力が抜けた。
自嘲すら覚えた。
芽吹く前に刈り取られたこの感情にはもう何の意味もない。
左之さんが好きだったんだ
左之さんが目を見開いて俺を凝視していた。
その視線に
頭がさぁっと冷えた。
今、口に出してた…?
しまった、と思ったが一度吐き出されたその言葉ははっきり相手に聞き取られ取り消す事など出来ない。
口をはくはくと動かしたが言葉が出ない
動揺しすぎて訳が分からなくなって。
からん
木刀が地面に落ちた
その音すらも今は遠い。
「あ…ち、ちが、…今の無し…」
「平助」
後ずさる俺に逃がさないとでもいうように腕を捕まれた。
怖い。
昨晩から自分の行動を呪うばかりだ。
こんなだから左之さんには選ばれない。
こんなだから千鶴に敵わない。
思いが届かないのは仕方ない。
しかしそれを本人に拒絶されるのは。
想像しただけで胸が張り裂けそうだった。
首を左右に振って間違いだったと主張する。
違うと、ただひたすら。
「ごめん!ちがう……ちがうから…」
「平助」
次の瞬間左之さんの胸に顔が押しつけられて。
落ち着かせるように頭を撫でて。片方の手は腰を強く引き寄せていた。
頭上で左之さんが溜めていたような息を大きく吐いて更に俺をぎゅうと抱き寄せた。
「俺を好いてるって…本当にか?」
左之さんの言葉に
ああ…やってしまった。
自己嫌悪に視界が歪む。
伝えてはいけない気持ちだった。
分け入ろうとするような、ただ惨めになるだけの。
二人とも好きなのに、壊れることを望むようなこんな思いの告げかたを。
否定しなくては。ごまかさなくては。
無かったことにしなくては。
「っ…だから、……違うって!変な意味じゃなくて…
大体俺男だし!仲間として…好き、それだけ…」
今自分はとても情けない顔をしてるだろう。それを見られたくなくて。
俯いたまま
項垂れていた腕をあげた。
ほんとは抱き締め返したい。
でも駄目だ。
昨日の千鶴と左之さんが抱き合ってる姿を思い出したから。
離してほしいと、掌を左之さんの胸に当てた。押し返そうとしたが。
力入らない。
「じゃあなんで泣いてんだ」
ぐ、と顎に指を添えられて引き上げられた。
泣いてたのか、俺。
気づかなかった。
本当だ。左之さんの顔がゆらゆらと、ビー玉越しみたいにぼやけてる。今どんな目で、表情で俺のこと見てんのかわからなくて。知りたくなかったから丁度いいやって思った。
頬に流れた水滴が顎まで伝い左之さんの指を濡らした。
「…これ…は…」
ぐ、と唇を結ぶ。出そうになる言葉が駄目だと喉に引っ掛かって。
「…言えよ」
真剣な声色に空気が張りつめる。
…言える訳ねぇじゃん。
左之さんに一番に思われたいとか、俺を選んでよとか
千鶴を貶める様なそんな事。
言った後俺はどうしたらいい?言われたら左之さんはどうすんの?
わかんねぇよ。
左之さんの表情も分からない。
目を見るのが怖かったから。
ひたすら視線を合わせないように背けていた。
「…ごめん。今の俺変だった。…忘れてよ」
ぎゅっと目を瞑った。
街中で見掛ける恋仲の男女や夫婦、照れながら文を意中の相手に渡す娘とか、想いを告げる若者とか色々見てきたけど。その幸せそうな表情に
いつか俺もそんな相手見つかればいいなぁ。今はいらないけど、なんて思った事はあった。
だから、好きって苦しいものだなんて、
辛くて痛くてただそれだけだなんて思わなかった。
黙りこんだまま
全て拒絶するような俺の態度に煮えをきらしたのか
はぁ、と頭上から溜め息が聞こえた。呆れたのかな、とそれすら胸が傷んだ。
わかった。というように顎に添えていた指も離し
体を拘束していた腕を解いた。
慌てて手の甲でぐいと目元をごしっと荒く拭って。大丈夫。今は涙は出ない。まだ、少し涙腺が緩いのか潤んでる気はするけど。
身を翻して、左之さんから離れようとしたのに。
背中を向けた俺は進行方向とは逆の重力に引っ張られて。
それに驚いて振り返れば
「部屋に戻るんだったな。」
俺の片手首は左之さんに捕まれていた。
「…え?」
そう言うと左之さんは掴んだ手首はそのままにぐいと引っ張りながら俺の横をすり抜けたと思うと先導するように急ぎ足でずんずんと歩いていく。
何?なんで左之さんと一緒に行かなきゃなんねぇの?
これで解放されたと思った事案は杞憂に終わった。
左之さんの行動の意味が分からない。
大きい背中をぼやけた視界で捉えながら。
昨晩千鶴の細腕が巻き付いていた情景が重なって。
女々しいな
なんて他人事の様に思った。