端緒1




「あー…気持ち良かったぁ…」 

ぺたぺたと足音を立てて、少し冷えた廊下を歩く 
火照った体にその冷たさはひんやりと気持ちいい。 
頬を撫でる風も、風呂上がりの心地よい熱を冷ましていく。しかし失われた水分のせいか喉が少し乾く。 
思わずあ、そうだと独り言が漏れた。 




明日は非番だし左之さんとこ行って寝酒でも誘ってみよう 



そう思いまだ少し濡れたままの長い髮を肩に掛けていた手拭いで無造作に拭きながら酒を取りに自室に向かった。 


ちょっと色付けて買ったいい酒があったよな。 
と思い出し、押し入れの奥に隠してあった酒を引っ張り出した。 

こうでもしないと新八っつぁんが勝手に人の部屋漁ってのんじまうからなぁ 



呟きながら酒を片手に平助は原田の自室へと向かった。お猪口はつまみとか持ってくるついでに後で持ってくればいいかとかつまみは何がいいかなぁ、なんて考えていた。 





「左之さ…」 
部屋の主の名前をいつもより下げた声量で呼びながら襖に手をかけた。その時だった。 

「はっ…はらださ…あっ」 

予想だにしないか弱く少女の潜めた様な声が聞こえ 
びくりと襖にかけた手を思わず引っ込めた。 
平助の体が硬直する。 



え?今のって… 
千鶴、だよ…なぁ? 
な、何今の声。 





さきほどまでの高揚とした気持ちから反転したように戸惑いからかどんどん低迷していく。 
しかし、それとは裏腹に心拍数が少しずつ上がっていくのが自分でも分かる。 





「…っ……わたし…も、駄目です…っ」 

「変な声出さねぇでくれ…苛めたくなんだろ」 

くすくす笑う原田の言葉の愛でるような声色に心臓が跳ねる。 



片手にもっている酒瓶を落としそうになるが指先に何とか力を込めた。 

「そんな…ぁっ……そこくすぐったいです…」 

「もう少しだから…我慢してくれ。焦らされてぇのか?」 

その間も部屋からは千鶴のくぐもった声と 
時折からかうような、千鶴を甘やかすような原田の声が聞こえて。 




これって…そういう事だよな… 





千鶴と左之さんが? 
嘘、 
そういう関係だったのか? 

いや…自分は何か聞き間違いをしたのかもしれない、もしかしたら肩揉んでるだとかそんな下らない落ちだとか… 
早とちりであると思いたかった。 
少しだけ開いたままの襖からそっと中の様子を伺った 

「ーーっ!」 



瞬間鈍器で殴られた様な衝撃が頭に走る。 
声が出そうになったが何とかそれは耐えた。 


原田と千鶴が抱き締め合っていた。 

胡座をかいていた原田の背中に千鶴のか細い腕が回されていて。 
千鶴の項から原田のその長く骨ばった指がするりと伝っていく。その動きに一瞬目を奪われた。 
はっとしたように慌てて襖から離れる。 




体が今の現状に着いていけていないのか足が動かない。 
なのに心臓だけはどんどん鼓動が早くなって破裂してしまいそうなくらいだった。 



血流が激しいのか 
頭がガンガンする。 
内側から揺さぶられているかの様に視界がぐらつく。 

「…千鶴…大丈夫か?」 

「ん…っ…は、はい…」 

「…」 




心臓がどくんどくんとうるさくて、周りの音が聞こえない。 
尚も続いている二人の会話もどこか遠くなり頭に入ってこなくなって。 
その甘い空間は今自分がただ襖一枚で隔たれているのが嘘みたいに別次元のものだった。 



千鶴と左之さん 
恋仲だった…のか… 
いつから、いつの間に? 



原田が千鶴を可愛がってるのは勿論知っている。 
しかし女として、色目で見ているような、そんな事は考えもしなかった。 
ただ、自分と同じで 
男所帯では不自由で息苦しいのではないかと思い気分転換も兼ねて、 
普段色々と小間使いの様な用務を嫌な顔一つせず尽くしてくれている礼とかそういった優しさで原田は接していると思っていた。 


二人が一緒に肩を並べている姿が頭の中をぐるぐると回る。自分でも驚くくらい動揺していた。 





短い間だった筈なのに長く往生してしまったかのような気分だった。それくらいこの一瞬の出来事が平助の精神を困憊させてしまっていた。 

早くこの場を立ち去らねばと、 
震える体を叱咤し何とかその場から立ち去ろうと音を立てないようふらふらと足を踏み出した。 








「すみません…お騒がせして…それに、あ、ありがとうございました……原田さん?」 
「いや…」 
千鶴はどうかされましたか?と原田から離れると不思議そうに見上げる。 
背後に違和感を覚えたのか原田はそちらに顔を向けた 
。 
襖が少し開いていた。 







重い足取りで自室に戻ってきた平助は襖を閉めるとずるずると壁伝いに腰を下ろす。力の抜けた指からは原田と一緒に酌み交わそうと思っていた酒の瓶がごろんと畳の上を転がっていくのをどこか遠い目で見ていた。 

月明かりが射し込む薄暗い部屋に灯りを灯す気にもなれず目をつむると 
先程の原田と千鶴の逢瀬と思われる光景が焼き付いて脳裏に浮かぶ。 
まだ収まらない心臓の鼓動が苦しくて 




「なんだろ…これ…」 




上下に激しく動きまだ収まらない胸に手を押し当てた。 
全力疾走したよう息も上手く出来ない。 
苦々しい何かが胃の中から質量を増し、じわじわと喉まで這い上って気持ち悪い。 




不安、衝撃、驚愕、寂然 
どれもを織り混ぜたような、どれとも違うような 
今までこんな感情に苛まれた事は無い。 
この感情をなんと呼ぶのか今は冷静でもなければ、理解も出来るはずがなかった。 


後悔していた。 
原田の部屋に赴いた自分の行動を。 

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