誰にでも好きな物の一つや二つはあるだろう。わたしにとってそれに当て嵌るのはポケモンであったり、母であったり、早起きした時に窓から見える空の色だったり、甘いお菓子であったりする。目の前にあるこの桃のタルトにしたってそうだ。瑞々しい桃の歯ごたえと濃厚なカスタードクリームの甘さがわたしを魅了して離さない。
 お店に入る前から予想はしていたけれどこのカフェのメニューは高いものばかりで、子供のわたしがほいほいと手を出せるような値段ではなかった。きっと大人にしたところで、紅茶の値段を見ただけで顔をしかめてしまう人もいるんじゃないだろうか。少なくとも、うちの母はそうだろう。そして母の庶民気質をしっかりと受け継いでいるわたしにしたって同じことだった。
 そんなわたしが今このカフェで平然とタルトをつついていられるのは、もちろんわたしにタルトを奢ってくれる親切な同伴者が現れてくれたからに過ぎない。

「……で、あたしはあの泉と洞窟の間にある空間が鍵だと思うの。あそこをもう少し探れば何かが分かると思うんだけどなあ」

 シロナさんの目の前の皿にはレモンのメレンゲパイが載っていたけれど、それは二口三口食べられた辺りで放置されていた。味が気に入らなかったわけではなく彼女特有の、一度歴史や神話の話を始めてしまうと熱中してしまい他の全てのものごとを疎かにしてしまうう癖のせいだ。
 リーグを勝ち抜いて以来、こうしてシロナさんと一緒にどこかへ出掛ける機会が増えた。大抵はあちらから声を掛けてくれたり、図書館でぱったり出会ってそのまま出掛けるパターンが多い。二人で草むらに入って珍しいポケモンを探したり、デパートを回ったり、適当に連れ立って歩いたりと日によって内容は違う。けれどもほとんど毎回共通していることは、シロナさんが何かしらの食べ物をわたしにご馳走してくれることと、必ずと言っていいほど会話中にこの地方の歴史や神話の話題が出ることだった。

 口の中のタルトの欠片を飲み下す。今日は天気が良く風も少ない日なので、わたしたちが座っているのはテラス席だったのだが、野外らしい喧騒めいたものはほとんど聞こえてこない。精々周りの席の人々の会話が聞こえてくるくらいだった。わたしはそう多くの喫茶店を知っているわけではないけれど、雰囲気も落ち着いていてお洒落なこのお店のことを既にとても好きになっていた。きっと、シロナさんと一緒でなければ到底縁のないお店だっただろうけれど。
 シロナさんはここによく来るのだろうか。来るとしたら、誰と来ることが多いのだろう。
 そんなことを考えていると、「……というわけで」とシロナさんが口にしたので慌ててわたしはそちらを向いた。歴史の話題は終わろうとしているようだった。

「以上があたしの考えた仮説もとい勝手な想像でした。ごめんね、また長く話し込んじゃって」
「いえ。シロナさんから歴史について聞くの、わたし、好きです」

 わたしがそう言うと「そう?」と首を傾げながら笑って、シロナさんはしばらく置きっぱなしだったフォークを手に取った。そうして再びパイを食べ始める。わたしばかりが早く食べ終わってしまうのは何だか避けたかったので、わたしは残り半分ちょっとくらいのタルトから未練がましくフォークを引き、代わりに紅茶に口を付けた。角砂糖をふたつ入れた紅茶は甘く、口当たりも柔らかい。
 シロナさんの口からこの地方の歴史が語られるのが好きだという言葉に嘘はなかった。色々な観点からシンオウの歴史や神話を眺めている彼女の語り口は軽快で、興味深い雑学やちょっとした豆知識が時折織り交ぜられていたりもする。わたしは専門的なことなど何も知らないけれど、そんなまったくの素人であるわたしが聞いていても彼女の話は面白かった。
 そして何よりも-------きっとこれが一番の理由だったのだろうけれど、歴史や神話について話している時の彼女の表情が、わたしはとても好きだった。誰にでも好きな物の一つや二つはあるだろう。けれども彼女にとってのこの地方の歴史や神話は、わたしにとってのポケモンや母や空の色や甘いお菓子以上に愛でるべきもので、慈しむべきものだった。何かをどれだけ大切に想っているかだなんて、他人と自分は比べようがない。けれども、歴史に関わる全てのことを口にしている彼女はいつだって大人びた綺麗な顔を子供みたいに輝かせていた。善し悪しではないけれど、わたしにはきっとそんなふうに何かを語ることは出来ないだろう。それほどまでに、シンオウの歴史と神話をシロナさんは愛していた。
 そしてそんなシロナさんの、真剣でありながらも嬉しそうに輝いている瞳や、少し浮き立った口調や、癖なのか時折組み直される手のひらなんかのことを、わたしはとても好きだったのだ。
 けれどもどうしてか彼女が嬉しそうに話をする度に、わたしが胸の高鳴りと同時に何か別の感情を覚えていることも確かだった。それが何なのかは分からない。ただ本当に小さな刺のようなものが、胸の奥に食い込んでいるような、そんな感覚だ。

「でもね、自分で言うのもあれだけど……嫌になったらいつでも止めてくれていいのよほんと。つい勝手に一人で喋っちゃうから、いつも色んな人に怒られるの」
「いえいえ。こんなに美味しいタルトを奢って貰っておいて、途中で止めるなんて不遜なことはとても」
「うーん、これはそういう意味では……。だって、まさかヒカリちゃんにお金出させるわけにはいかないもの」

 年上たる自分が奢るのは当然のことだとシロナさんは言うけれども、それにしたって値段が値段だけにどうしても恐縮してしまう。しかしそれはほとんど食べる前までの話で、今はタルトの甘さにすっかりほだされてどうとでもなれという気分だ。
 問題は、食べ終わった後に奢って貰ったことについての僅かな罪悪感と、別の罪悪感が一緒くたになってのしかかってくるという点にある。わたしは再びフォークを手に取り、はああと溜め息をついてみせた。

「ていうか、シロナさんと会う度にちょっとずつ体重増えてそうで怖いんですよね……」
「ヒカリちゃんは細いよ?」
「そうだといいんですけど。でも、前に量ったら1キロ増えてたんですよ」
「成長期だもの。身長も測ってごらん、きっと伸びてるから」

 シロナさんは口元を緩めて微笑んでみせながら珈琲をスプーンでかき混ぜる。大人は珈琲に何も入れずに飲むものだと思っていたわたしは、初めて彼女が珈琲に砂糖を入れる姿を見た時少しばかり驚いた。シロナさん曰く自分は甘党だから、眠気覚ましとして飲む時以外はミルクか砂糖を必ず入れるということだった。甘党ってすばらしい。わたしはきっと一生涯甘党を突き通すことだろう。
 ちちち、と鳥ポケモンらしき声が聞こえてくる。シロナさんのパイはもう残り少なくなっていた。神妙な表情で珈琲を啜っていた彼女は、ふと思い出したように柔らかい表情でこちらを見る。

「でも、やっぱりありがたいな。本当にあたしの話に付き合ってくれるの、ヒカリちゃんくらいだから」
「学会の方にそういうの詳しい人、いっぱいいるんじゃないんですか?」
「うーん、他の学者の人と話すのもすごく楽しいよ。色んな説があって、色んな人がいるしね。けど、大抵はずっと話してるとあっちから呆れられちゃう。もうそろそろいいでしょうって」
「それはよっぽどしつこかったんですって」

 小さく噴き出してしまいそうになる。嬉々として話し続ける彼女と、疲れたようにそれを流すお偉い人達の顔を想像するのはとても面白かった。わたしは彼女の話になら何時間だって付き合っていられる自信があるけれど、そうでない人の方がきっと多いだろう。
 それにしても、話に熱中している時のシロナさんは、何かを彷彿とさせる。それを思うとまた、少しだけ胸が痛んだ。その痛みの原因が分からなかったわたしは、フォークをくわえたまましばし固まった。
 どうしてだろう、とわたしは考える。わたしは楽しそうに話をしている時のシロナさんがとても好きで、だったら嫌なことは何一つ無いはずなのに。歴史や神話に纏わることを口にしている彼女は、いつだって嬉しそうで、輝いていて。まるで……。

 まるで。


「なんだか歴史とか神話について語ってるシロナさんって、恋人について話してるみたいです」


 痛みの原因に、気付いてしまった。
 わたしの言葉にシロナさんはぱちぱちと瞬きをして、しばらくしてから「ああ、なるほど」とぽんと手を打つ。

「恋人かあ。そっかー。確かに、そんな感じかもしれない」
「そりゃあ、惚気話を延々と聞かされれば誰だって呆れますって」
「あー……なるほど……。ごめんなさい。これからは気をつけて控えるようにするね、うん」
「いや、わたしの前でなら全然構わないんですけど」
 
 わたしはそう言って笑い、最後の一口分のタルトを口に押し込んだ。わたしの前でなら構わない。わたしは、シロナさんが好きだから。出来ればずっとこれからもこうやって、彼女が満足するまで側で耳を傾けていられたらと思う。
 けれどもわたしはそんなシロナさんを見て、恋慕の感情と共に別の何かを覚えることだろう。それを何と呼べば良いのかは分からない。きっと焼きもちとか嫉妬とか羨望とかそんな類いの名前が付くのだろうけれど、名前なんてどうでも良かった。
 タルトを飲み込んで、わたしはカチャンとフォークを置いた。メレンゲを掬っているシロナさんと視線を合わせ、微笑んでみせる。

「何よりシロナさんと会うと、美味しい思いが出来ますからね」
「それじゃあ、次に君と会うときまでに財布の中身を補充しておかなきゃ」
 
 シロナさんは楽しそうにそう言う。そうしてメレンゲを頬張り、嬉しそうに頬を緩ませる。これもわたしの好きな表情だ、とわたしは思った。甘党ってすばらしい。彼女が甘いものを食べる度にこんなふうに表情を綻ばせる限り、わたしはきっと一生涯甘党を突き通すことだろう。
 口の中に残ったカスタードの味を消そうと、わたしは手元のカップに視線を落としてみた。空っぽになったシロナさんのカップとは違い、わたしのカップの中には冷めつつある紅茶が横たわっている。それを見た瞬間、どうしてかきしりと胸の奥が軋んだ。








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