「シロナさん!」

 やや音量が抑えられた、しかしどこか嬉しそうに弾んだ声が聞こえてくる。「ヒカリちゃん?」と声のした方向に視線を向けると、「はいっ」と返事をして彼女はころころ笑った。まるで鈴を鳴らしたような笑い方をする子だなあと今更のように思った。
 私が近付くと彼女は目当てであろう本に伸ばしていた腕を下げ、ぺこりと会釈をする。私もつられて小さく頭を下げ、「ちょっと久しぶりだね」と話し掛けた。ヒカリちゃんは本棚を物色していた最中のようで、小脇に数冊の本を抱えている。背表紙に目を走らせると私が読んだことのある本も混じっているし、そうでない本もあった。

「こんな所で会うなんて珍しい。ヒカリちゃんも読書しに来たの?」
「はい、たまには一日本を読むのも悪くないかなって、昼前に。シロナさんはいつ来たんですか?」
「つい今来たとこ。期限過ぎちゃってたのを返して受付の人に謝って、懲りずにまた借りにきたの」

 そう言うとヒカリちゃんは楽しそうにあははと笑った。私も少し笑い、さっきまでヒカリちゃんが手を伸ばしていた本を取って手渡す。

「これで良かったかな?」
「ありがとうございます」

 それを受け取り、彼女は少しばかり顔を赤くした。間違っていないようで良かったと思いつつ、私もざっと周辺の本棚に視線を走らせる。
 私たちが立っているのはミオシティにある図書館の二階だった。そう賑わってはおらず、人の姿はまばらである。閉じられた窓の向こうからは真上より少し西側に傾いた太陽がこちらを照りつけていたが、冷房が効いているおかげで館内は涼しかった。
 何度も何度も通っていて、館長と顔見知りにさえなっているこの図書館の内部は、私の子供の頃の記憶と強く結びついている。決して近いとは言えないカンナギから毎日のようにポケモンを連れてここへ来て、手当り次第に本を読んだ。私がシンオウの歴史や神話に興味を抱くようになったのは、間違いなくこの図書館の影響が大きかったように思う。
 だから自分の後輩に当たるトレーナーが、こうしてこの図書館に通ってくれることは何となく嬉しかった。そのことを話そうかとも思ったのだが、あまり引き止めても悪いだろうと思いやめることにした。代わりに訊ねてみる。

「ヒカリちゃんはまだこの階で本探してる?」
「いえ。読みたい本は一通り見つけたので、後は閉館までひたすら読もうかと」

 心無しか、何冊もの本を細い腕いっぱいに抱えた彼女は楽しそうな表情をしているように見えた。彼女がこの図書館を訪れるようになってからどれほど経つのか分からないが、この図書館が彼女にとって好きな場所のひとつになってくれれば良いと思う。

「そっか。あたしは三階で、ちょっと歴史関係の本探してくるね」
「はい。行ってらっしゃい、シロナさん」
「うん。行ってきます」

 私は小さく手を振って歩き出した。階段を上る時にちらりと目線を向けると、うきうきと閲覧用の椅子を引く彼女の姿が見えた。あれだけ楽しそうに読んで貰えるなら本の方も本望だろうなと考えながら、一段ずつゆっくり階段を上がる。子供の頃、急いで駆け上がったせいで転んでひどく膝を打った経験があるからだ。
 やがて階段を上がりきると視界が開け、また本棚の群れが目に飛び込んで来た。三階にある本はもうほとんど読み尽くしてしまったが、時々新しい本が入ることもあるので私は毎回全ての本棚をじっくり眺めることにしている。私はいつものように丹念に本棚を眺め、まだ読んだことのない歴史書を数冊発見した。手に取ってみるとほとんど汚れていない所から、新しいものであることが分かる。私はそれらの本と、神話について綴られたお気に入りの本を抱え、椅子に座った。椅子を引く音ですら馴染み深い。
 私の斜め向かいに座っている人は、何やら小難しそうな分厚い洋書に読みふけっている。一瞬だけそちらに目を遣ってから、私は自分の選んだ本の表紙をおもむろに捲った。
 それから、今頃ちょうど私の真下辺りでヒカリちゃんも同じ動作をしているのだろうなと考え、少し可笑しな気分になった。






 
 



「んー……」

 大きく伸びをする。
 選んだ本をようやく全て読み終わったと思えば、少しばかり目が凝っている。歳は取りたくないなと思いつつ何度か目を揉み、傍らに積んだ本を引き寄せた。唯一この机に同席していた相手はとっくに帰ってしまっていて、このフロアには私しか残っていない。

(今何時かしら)

 窓の外に目を遣ると、既に空が赤く染まってしまっていた。閉館時間までにはそれなりに時間があるとはいえ、一通り本を読んでしまったので帰ることにする。そういえば今日の夕飯の献立をまだ考えていないということに気付き私は少しばかり憂鬱になった。ろくなおかずは残っていないが、冷蔵庫の野菜と果物で何とかなるかなとまで考えてしまう。不健康極まりないと自覚してはいるのだがどうにも面倒臭い。
 本をそれぞれの書架に戻し、階段を下り始めた所で私はふとヒカリちゃんのことを思い出した。彼女はまだ読書の最中なのだろうか。あれから何時間も経ったことだし、先に帰っているかもしれない。もしまだ残っていたら一緒に帰らないかと誘ってみようか。
 しかし二階に着くと、私の予想はどちらも外れてしまっていた。彼女はまだこの階にいて、椅子に座ってはいたが眠り込んでしまっているようだった。他には誰もいない。左手で頬杖をつき、右手で本を押さえるなんてとても器用な眠り方をしている。

「……ヒカリちゃん?」

 一応そう呼んでみたが、微かな寝息が聞こえてくるだけで一向に返事は返ってこない。本の積まれ方からすると、他の本は全て読んでしまい最後の一冊を読んでいる途中で寝入ってしまったようだ。窓からは傾いた陽が差し込んでいて、彼女の白い肌を赤く照らしている。一気にこれだけの文字量を読めば眠くもなるだろうなと思いつつ、私はどうしようか少しばかり迷った。
 疲れているのかもしれないし、まだ閉まるまで時間がある以上無理に今起こしてしまうのは良くないだろう。そのうち自分で目を覚ますか、係の人が見回りに来た際に起こしてくれるだろうから。けれども問題はこの図書館に冷房が効いているせいでそれなりに涼しいということだった。私ですらずっと座っていたら少し寒いくらいだったのだから、薄着のヒカリちゃんがこのままここにいれば風邪をひいてしまうように思えた。

 考えた挙げ句、私はコートを脱ぐと起こさないようにそっとヒカリちゃんの肩に羽織らせた。ヒカリちゃんの頭が小さくかくんと揺れ、どぎまぎしたが彼女が起きることはなかった。
 ほっと安心しつつ、これじゃ子供みたいじゃないと小さく口にした所ではたと気付く。

「あぁそっか、君はまだ子供だったんだね……」

 忘れていた。彼女は確かに一人前のトレーナーで、とてもしっかりしていて、私よりも強い。けれどもまだ、彼女はたった10歳の子供なのだ。
 どうしてこんなに当たり前のことを、今の今まで意識していなかったのだろう。

 何となく私は床にしゃがみ込んで、見上げるようにしてヒカリちゃんの顔を眺めてみた。ぱっちりとした瞼は今は閉じられていて、ともすると二度と開かないようにも見えた。けれども私のそんな些細な不安は、規則正しく上下する胸元と呼吸音のおかげであっさりと掻き消える。

「……あたしは、帰るね」

 立ち上がる。
 声を掛けた所でやはり返事は無い。けれども微かに、本当に微かに彼女の唇が何かの言葉を紡ごうとしたように見えた。歩き出そうとした足を止め、再び彼女の顔を注意深く見下ろしてみても、もう唇が動く気配は無い。少し経った所で私は諦め、図書館を後にした。
 外に出ると、室内との温度差のおかげでいやに蒸し暑く感じた。コートを置いてきたのは本当にお節介だったかもしれないと反省しつつ、私は空を見上げてみた。濃紺と赤が混じり合った空の色が、今日はいやに濃く瞼の裏に残った。








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