日中の茹だるような暑さはようやく消えたものの、夏の夜らしいじめじめとした湿気がうっとうしい。今日も眠り辛そうだ、とヒカリは思った。冷たい麦茶を啜りながら上目で視線をやると、シロナは丁度食べ終えたらしく小さく手と手を合わせているところだった。

「いやはや、生き返りました」

 ごちそうさまというシロナの呟きに「お粗末様でした」とヒカリは返す。空っぽになった冷麺の器には、麺の一本、一筋のキュウリすらも残されていなかった。さすがにつゆは少しばかり残っているものの、見事な食べっぷりだと何だか感心してしまう。
 彼女の話によれば、ここ一週間シロナはレトルト食品と生の野菜を齧ることでなんとか生き長らえてきたらしかった。まさかと思ったヒカリが冷蔵庫を開けてみても、本当にレトルトと少量の野菜しか入っていない。見兼ねたヒカリが仕方なしにシロナのためにわざわざ買い出しに出て、本日の夕飯をこしらえてやったのである。

「シロナさん、お料理出来るんならちゃんと作れば良いのに……」
「自分一人の為だけに買い出しに出るのが面倒くさくてね……。ヒカリちゃんは偉いなー、ご飯美味しいし」
「偉いっていうか普通ですよ」

 少し赤くなったヒカリは、それを隠すように言った。実際、飛び抜けて料理が得意というわけでもない。母の手伝いをよくしていたので、基本的なことは出来るといった程度だ。シロナはその気になれば何だって上手くこなせるのだから、自分のことに対してのやる気さえ出してくれれば良いと思う。食事然り、部屋の片付け然り。
 ミニテーブルを挟んでヒカリと向かい合っているシロナは、久々のまともな食事にご満悦のようで「はー」と人心地ついたように伸びをしていた。半袖を着ているせいで普段コートに隠されている腕が剥き出しになって、その白さが際立つ。ヒカリが目を奪われている間に、シロナははっとしたような表情になった。

「そうそう! 暑い中買い物まで行かせちゃったわけだし、ヒカリちゃんにお礼しなきゃ」
「お礼……って、お礼されるほどのことじゃ」

 ヒカリは慌てて首を横に振った。わたしが勝手にやったことですから、と言うとシロナは「ううん、こういうのはちゃんとしておかないと」などとやたら真面目な顔になる。そういえばこの人は変な所で生真面目だったのだ、とヒカリは思い出した。不真面目な所はとことん不真面目だというのに。

「どうしよう。何がいい? あたしに出来る範囲でなら何でも言って」
「良、いんです本当に」
「でも、それじゃ」

 シロナが何かを言い掛ける。それを手で制して、ヒカリは少し俯いた。ヒカリが何かを言おうとしたことを悟ったらしいシロナは、口を閉じてヒカリを見る。
 こういうところは大人なんだな、と考えるとまた少し顔が赤くなった。気づかれないように俯いたままヒカリは言う。

「わたしは、旅の最中シロナさんに何度もお世話になりましたから」

 ハクタイシティで彼女と出会った時のことを思い出す。まだ右も左も分からない自分に優しくしてくれた彼女に、自分は初めて誰かに対しての憧れのような感情を抱いたのだ。幾度顔を合わせても、彼女とのポケモンバトルに勝利した今でも、その感情はまったく変わっていない。むしろ別の感情がそこに混じり合ってきたせいで、自分がどうにかなってしまいそうなほどに。どうにかなってしまいそうな自分を必死で抑えながら、自分は、今日たった一人でこのマンションを訪れたのだ。

「だから、少しでもシロナさんの役に立ちたいんです」

 言い終わってから短く息を吐く。俯いているせいでシロナの顔が見えないことが少し不安だった。鬱陶しがられてはいまいか、重荷だと思われはしないか。そして何より、口調に籠ってしまった熱の意味に彼女が気づきはしないか。

 どうして自分は10歳なのだろう、とヒカリは思う。自分がもう少し年上、例えば15歳や17歳でもなんでもいい。とにかくもっと大人だったのなら、シロナに向かって思っていることを全て言えていたかもしれないのに。
 右頬手のひらが添えられる。顔を上げると、シロナがテーブルからやや身を乗り出して自分を見ていた。ヒカリと目が合うと、首を傾げるようにして笑う。

「ありがとう。ヒカリちゃんはやっぱり真面目なんだね」
「真面目……ってわけじゃない、ですよ」
「ううん。あたしよりずっとしっかりしてるもの。でも、お礼はさせてほしいな。……言っておくとヒカリちゃんを子供扱いしてるんじゃないよ? それこそ対等な立場として、ね」

 ヒカリはずっと両手で握っていた麦茶のコップを置く。しばらくの間ずっと触れていたせいで、コップの表面は温くなりきっていた。手のひらに付いた水滴をぼんやりと眺めながら、今しがたのシロナの言葉について考える。
 よし、とシロナは声を上げて立ち上がる。そうしてヒカリの目線まで屈み込んで、悪戯っぽくにやりと笑った。

「アイスでどう? トリプルでも何でもおごってあげよう」
「……本当に、いいんですか?」
「もちろん。じゃ、今から行っちゃおうか?」
「はいっ」
 
 思わず返事をする声が大きくなった。ヒカリも立ち上がる。シロナは嬉しそうな表情で、「行こっか」とごく自然な動作でヒカリの方へ手を差し出してきた。ヒカリは一瞬戸惑ってから、その手を握り返す。そう大きくはないシロナの華奢な手は、それでもヒカリの手のひらをすっぽりと包み込んでしまった。そのまま二人で玄関へ向かう。
 
「役得、って気分です」

 シロナがドアを開けるのに紛れて、小さく呟いてみた。靴を履きながらシロナが不思議そうな表情で振り返り、「何か言った?」と訊ねてくる。
 なんでもありませんと返事をして、ヒカリはかすかに首を振ってみせた。








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