「……参ったな」

 定期検診を終えて病院を出ようとしたら、来た時には晴れていたはずの空がいつの間にか雨模様に変わっていたことに気付いた。当然傘など持ってきているはずもなく、私は正面玄関の脇に立ち尽くしてしまう。
 平日の夕方ということもあり人の出入りはまばらだったけれど、今病院に入っていく人々のほとんどは当たり前のように傘を携えていた。お見舞い用らしき花束を抱えた中年の男性が横を通りすがる際、気の毒がるような視線を向けられて少しばかり居心地が悪くなる。ちらりと今出てきたばかりのエントランスホールに目を遣ると、もう顔見知りになっている受付のお姉さんは患者の人と話し込んでいた。もしかしたら頼めば傘を貸し出してくれるかもしれないけれど、今行くのは気が引けた。
 売店で傘を買う、もしくはタクシーで帰るという手もある。ついでに言えばこのまま濡れて帰るという手段だってあるわけだけど、もしそれで熱を出して寝込みでもしたら色々な人から怒られてしまいそうだ。私が体調を悪くすると心配してくれる人がいることは充分に知っている。なるべくその人たちに面倒はかけたくない。
 とりあえず一度病院の中に戻ろうかと思い立った時、鞄の中からくぐもった着信音が聞こえてきた。私はあまり人によって着信音を変えたりはしないけれど、母さんと自分の刃友だけは他のみんなとは異なった音に設定してある。この曲は、母さんからの連絡が届いた時のものではない。

「……順?」

 取り出した携帯をぱちんと開くと、案の定それは順からの電話だった。
 通話ボタンを押して「……もしもし」と電話に出ると、『夕歩、もう検査終わった?』と暢気そうな声が聞こえてくる。今終わったとこと答えようとして何気なく顔を上げたら、雨で霞んで見える駐車場の景色の向こうに見慣れた人影を見つけた。授業終わりにそのまま来たのか制服のままだ。
 通話中の携帯を持ったままの順のもう片方の手には、私が普段使っている傘がぶら下げられている。
 携帯を耳元から離して、順が遠くでにやりと笑うのが見えた。







「別に、わざわざ来てくれなくても良かったのに」
「姫のお迎えも仕事の一環ですから。増田ちゃんがね、夕歩が傘持たずに出てったから心配だってわざわざ知らせにきてくれたんだよ」
「そっか。……ありがと、順。実を言うと助かった」
「いーえ」

 傘を差した状態で並んで歩くと、いつもより二人の間の距離が広がる。それに関係あるのかは分からないけれど足取りも心持ちゆっくりだ。
 一度電車に乗ってしまえば学園まですぐなのだけれど、病院から駅までには多少の距離がある。そう考えると、やっぱり傘があるというのはありがたかった。

「検査、どうだった?」

 何気なく順が訊いてくる。定期検診の後に結果を訊ねてくるのはいつものことだった。私はなるべく平然を装いながらいつものように答える。
 
「異常なし。ただちょっと体重落ちたから戻せって言われた」
「夕歩は常に下ラインギリギリだからねえ……落としちゃまずいでしょ。無理に食べろとは言わないけどさ」

 灰色の空からぱらぱらと降ってくる雨が時折私の靴や鞄を濡らしていく。じっとりと重い空気は好きではないけれど、雨の日自体は嫌いじゃない。濡れた土や道路の匂いだとか、どことなく植物の色が鮮やかに見えるところなんかが特に。髪型がろくなことにならないのが玉に瑕ではあるけれど。
 ざらざらとしたアスファルトを靴越しに踏みしめながら歩いていると、ふと道の脇を見ていた順が声を上げた。

「お、見て夕歩。アジサイ咲いてる」
「……あ、ほんとだ。この前来た時はまだ咲いてなかったっけ」

 いつも横を通るやや大きな民家の庭のアジサイが、敷地からはみ出して道路側まで枝を伸ばしていた。二人で立ち止まってまじまじと覗き込む。特に変哲のない、所謂一般的なアジサイだったけれど、久々に見るからなのかそれとも雨の日だからかやたらときれいに見えた。薄紫色と群青色、それから水色。アジサイは土の性質によって色を変えるらしいけれど、この色になる時は土がアルカリ性なのか酸性なのか忘れてしまった。子供の頃誰かに教わったはずなんだけれど。
 訊ねてみようかと思い順の方を見ると、何やらがさがさと手で花や葉をめくっている。制服の袖口が滴ってくる水滴で濡れているというのにおかまいなしだ。

「順、何してるの」
「や、かたつむりいないかなーと思って。やっぱアジサイとセットだよねアレは」
「……ぱっと見、いないね。ていうか、いても掴んでこっちに向けてきたりしないでね」
「そんな小学生みたいなことしないってばさー。でも夕歩、前からかたつむりダメだったっけ?」
「ダメ、じゃないかもしれないけど……。何年も見てないし、さすがに前みたいに手の上には載せたくないかな……」

 人間とは不思議なもので、歳を経るにつれて子供の頃平気で触っていた物が触れなくなってくる。順にしたところで昔は平気で蛙を捕まえたり蝉をわしづかみにしていた子供だったけれど、今ではそうじゃない。そういえば小学生の時に二人でこっそり部屋の中に生きた蝉を持ち込んで、間違えてそのまま逃がしてしまったせいで家中が大騒ぎになってしまったのは今では良い思い出だ。タンスの後ろの隙間や冷蔵庫の下なんかからいきなり羽音と大きな鳴き声が聞こえてくるのはだいぶ怖かった。そのせいで私は蝉が今でもちょっと苦手のまま。
 そういえばもうそろそろ蝉の季節なんだと考えつつアジサイに目を走らせると、重なった葉と葉の陰から小さなにゅっと突き出た触覚が見えた。ほぼ無意識のうちに順の制服の裾を掴んで引っ張る。

「……順、いた! かたつむり」
「へ、どこ? ……わ、マジだわ。夕歩目ぇ良いねー」
 
 順の指がそっと葉を押し上げると、まだ成長しきっていないのか随分と小さなかたつむりの姿がよく見えた。
 嫌になるくらいの遅さで濃い緑色をした葉の上を這っている。てらてらとした跡が残っているのを見て私は眉をひそめたけれど、順は「おー、すげー」と何だか嬉しそうな口調でちんまりとした殻を突ついていた。

「何もすごくはないと思うけど」
「いやあ、やっぱアジサイにはかたつむりだね。イチゴにはコンデンスミルクくらい安定感のある組み合わせだわ……」
「意味がわからない」

 順があまりにも真面目な口調で言うものだから、それがおかしくて笑いまじりに答えてしまう。久々に見たかたつむりはさすがに持ってみようとは思わなかったけれど、予想していたよりも可愛く感じられた。中腰になって葉影を凝視している順の横顔を見ていたら、少しくらいなら触ってみてもいいかなと思えてきたのだ。
 おそるおそる手を伸ばそうとして、ふと、さっきまでそれなりに聞こえていたはずの雨音が今はほとんどしていないことに気付く。
 車もほぼ通らないせいか辺りはやたらと静かで、時折鳥の声が聞こえるくらいだった。……雨なのに鳥の声?

 傘をやや上げて空を見れば、私たちが立ち止まっていた間に雨は止んでいたようだった。「雨止んでる」と呟くと順は顔を上げ、マジかというような表情になる。
 二人で傘をたたみながら同時に息を吐いた。別にわざと合わせたわけじゃない。自然にだ。

「降ってた時間みっじかかったなー……にわか雨みたいなもんか」
「もうちょい病院で待ってても普通に大丈夫だったね……。ごめん順、来てくれたのに」
「ま、こういうこともあるでしょ。アジサイとかたつむり見れたから良しとしますよ、あたしは」

 順はそう言ってかたつむりを突ついていた手を引っ込めた。わざわざ交通費をかけて迎えに来てくれたのだからと申し訳ない気持ちはあったけれど、順が何も気にしてないような顔をするものだから、そんな心苦しさがすうっと消えていく。
 厚い雲はまだ空を覆い尽くしていたけれど、所々その切れ目から光が差し込んでいる。この様子だと多分そのうちに晴れるだろう。まだ水滴をあちこちに纏っているアジサイの花を見ていたら、出来ることならこのアジサイを、晴れた空の下でもう一度見てみたいなと思った。今年中でも来年になってからでもいい。その時、順は一緒に来てくれるだろうか。
 「順」と小さく呼びかけると、それが催促のように聞こえたのか伸ばした腰を軽く叩きながら順はへらっと笑う。

「ん、帰ろ。実を言うと六時限目抜けてきちゃったからさ、ちゃんと夕歩連れて帰んないとサボり疑惑持たれるんだわ」
「普段から時々サボってるじゃない……。そういうのって信用の積み重ねだよ?」
「授業はサボってないって。あたしの場合同室があれだから信用ありまくりよ」
「順の場合、別の面で信用がないのがいけないんだと思う」

 いつも通りの流れの会話をしながら、私たちはどちらともなく歩き出した。さっきまでと歩調は変わらない。

 結局私は、検査の結果があまり良くなかったこと---------もしかしたら、もしかしたら病気が再発している可能性があるかもしれないということを、順に言いそびれてしまった。元からあまり話すつもりはなかったけれど。

 こういうことはちゃんと、そうと確定してから言っておきたかったから。ただの杞憂に過ぎないかもしれないと医者にも言われたし、順に余計な心配をかけさせるようなことはしたくない。どのみちまた検診に来れば分かることなのだから、それまではせめて何もなかった頃みたいに順とこうしていたかった。なるべくゆっくり歩いて、どうでもいい会話を交わして。今更のように袖口を濡らしてしまったことに愚痴をこぼす順を見ながら私は小さく笑う。

 二人の距離は傘をたたんだ分だけ、少し狭くなったように思う。









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