街路樹の下に差し掛かると、温く吹く風に混じり込んだ木々の匂いが私たちの横をかすめていくのが分かった。排気ガスや人の波によって生まれる熱とは明らかに異質な、青々しい夏の匂い。久々に外に出たせいもあってずいぶんとそれが新鮮に感じられる。
 昼間はかなり強かった日差しも、夕暮れ時を迎えて少しずつ弱くなりつつあった。途中で何度か日光が厳しく思えたりもしたけれど、それでも目眩も立ちくらみもなしに平気でいられたのは多分、私の様子が少しでも変わるたびに順がすぐ日陰まで引っ張っていってくれたおかげなのだろう。なるべく顔には出していないつもりなのに順は何かと鋭い。たまに明後日の方向に思考を飛躍させることもあるけれど、基本的には私の考えていることなんてお見通しのようで、いつも一歩先を行かれてしまう。
 今隣を歩く順の足取りが気持ちゆっくりめなのも、おそらく私を気遣っているからだ。順は昔から、そういう子だった。

「夕歩ぉ。次、どっか寄りたいとこある?」

 両手に色々なお店の袋をぶら下げてちょっとした大荷物になっている順は、それでも重そうなそぶりなどまったく見せずに訊ねてきた。順は腕力があるから実際あまり重く感じていないだけかもしれないけれど。先ほどの半分持つよという私の申し出は当然のように却下されてしまったので、少しばかり好意に甘えさせて貰っている。

「……無いかな。欲しいもの全部買えたから」
「あれ、そいや新譜のCDで欲しいのあるって言ってなかったっけ」
「ううん、やっぱりいいや。買うつもり無かった本買っちゃったし」

 病院の中にある小さな本屋では売っていないものだったから、つい衝動買いしてしまった。慣れてはいるけれどどうしたって入院生活は退屈になりやすい。私の返事を聞いて、「んじゃ、次どうしようかなあ……」と順は考え込むような表情になる。
 順の長い髪にアカシアの影が落ちて揺らめく様子を横目で見ながら、私も順と同じことを考える。次はどこへ行こう。


 病院の方から外出許可が下りた際、私が母や医師に希望したのは順と久々に街へ出ることだった。夏の盛りということもあって母には最初反対されたけれど、説得したらしぶしぶ了承してくれた。手術が成功して以来、母は前より順に対して少しだけ優しくなったように思う。
 さっき言ったように病院では娯楽が少ないから、まだ続く入院生活に備えて雑誌や本なんかを買っておきたいというのもあったけれど、正直なことを言えば順に会えるというだけで私はそれなりに嬉しかった。順は時々病院に顔を出してくれるので、今まで会っていなかったわけではない。ただ病院ではない他の場所で会えるというのが私にとって重要なことだった。
 本当は学園の方に顔を出したかったけれど、まだそういうわけにもいかないから、持病が再発する前によくそうしていたように二人で街をふらつくことにしたのだ。ありがたいことに順は二つ返事で了承してくれた。
 考えてみれば、順が私の頼みを聞いてくれなかったことなんてあまり無かったような気がするけれど。

 昼間とは色を変えつつある空を仰いだ後、順はおもむろに携帯を取り出してディスプレイを覗く。んーと声を上げてから再び私の方を向いた。

「今六時半くらいだわ。やっぱ夏場は日が落ちるの遅いね」
「そっか。思ったよりも時間経ってたんだね」
「夕歩、確か七時半までに戻らなきゃいけないんじゃなかったっけ? あんま時間に余裕ない感じ?」
「……そうかも。今からどっか寄って病院戻るのは厳しい、かな……」

 本心を言えば、まだ帰りたい気分ではなかった。けれどもそれは私のわがままに過ぎないし、決められた時間に遅れたら怒られ役はきっと私じゃなくて順になってしまう。もっと遊びたいと私が駄々をこね順が付き合ってくれて、後で順だけが周りの大人に怒られる。昔よくそういうことがあったから、もう同じことを繰り返したくはなかった。もう高校生になったと言っても、私の家族や親族が私たちに向ける目線はなにひとつ子供の頃と変わっていないのだから。
 ただこのまま帰るということにするのなら、出来ることならもっとゆっくり歩きたいと願う私は、やっぱりわがままなのだろうか。

 珍しく真面目な表情をしながら順はうーんと唸っていたけれど、急に何かに気付いたような表情になって「おおっ」と声を出した。足を止めた順の横を二歩ほど行き過ぎてしまった私は、「……順、何かあった?」と遅れて振り返る。

「夕歩、今日のあたし冴えてるかもしんない。良いこと思いついた、てか思い出した」
「……思い出した?」
「そー。こっからならそう距離もないし、すぐ行って帰ってこれるから」

 それから順は何かを確かめるようにちらりと空に目線を走らせた。傾きかけている太陽を見て満足そうに頷き、私に駆け寄ってくる。
 順の思いついた「場所」というのがどこなのか私は見当をつけようとしてみたが、ほとんど思い当たるところは無かった。この辺りで回れる店は大体回ってしまったからだ。「どこ?」と私が訊くと、順は何かを企んでいるような顔をしてわざとらしく人差し指を立ててみせた。

「いや、それは着いてからのお楽しみということで」

 ずいと顔を近づけられて初めて、順の身長がまた少し伸びているらしいことに気付いた。入院中にはベッドに座った状態で会っていたから分からなかったけれど、明らかに目線が前より若干高い位置にある。
 ちょっとばかり面白くない気分になって順の頬をぐいぐい押すと、いててと声を上げながらも順は真っ直ぐに私を見下ろした。
 へらりと締まりのない笑みを浮かべてみせる。

「絶対損はさせないからさ。ちょっと付き合ってくれませんかねー、姫」
「……いいけど、姫はやめろっての」

 むくれ顔になってぺちんと順の頬を軽く叩く。「痛たた」と大袈裟に頬を抑える順の顔は、それでもやっぱり楽しそうだった。











 地下通路の階段をいくつか上り下りして、細い路地を何本も抜けて、一歩先を行く順の背中を負う。歩いた距離的には大したことはなかったけれど、この道に慣れていないせいかぐねぐねと頻繁に足取りを変えて進むのには少しばかり戸惑った。今の順が歩くペースがいつもより緩やかだから何とかなったけれど、普段の順の速さで歩かれたら多分着いていけなかったんじゃないかと思う。
 今歩いている道は左右が高い建物に囲まれていて、周りは暗い。おまけにちょっと狭い。行く手を阻む蜘蛛の巣を払っている順を見ながら、私は声をひそめて言う。

「順……なんかどんどん狭くなってってない?」
「ふっふっふ、まあ秘境ですもの。そいや、最後に行ったの七年近く前だもんなあ。あー懐かし」
「七年前……」

 多分、私が病気を患ったばかりの頃だ。最初はただの風邪だと思っていたけれど実はそうではなくて、病院へ行った日をきっかけにいろんなことがとんとんと勝手に決まってしまっていった。これからしばらくは病院で暮らさなければいけないということ。学校の友人には会えなくなる日が続くから、ちゃんと挨拶をしてこなきゃいけないということ。それから、もう剣の練習はやめなければいけないということ。
 私の前を歩く順は足下の小石を軽く蹴っている。大荷物はまったく苦にならないようで、相変わらず足取りは軽い。
 ただ、開いた口から出てくる声のトーンが、ほんの少しだけ下がったことは分かった。

「……夕歩と遊ぶ約束してた日でさ、でもまだ風邪が治らないらしいってことで、あの日一人で遊んでたんだよね。思い返すと順ちゃん健気だわー」
「……別に、他の友達と遊べば良かったんじゃないの?」
「まあ、今になるとあたしもそう思うけど……子供の頃のあたしは単純だったんだよね、多分。夕歩と会えないのなら別の子と会おうだなんて考えもしなかったわけよ。かといって家で一人もつまらなかったから、目的もナシにそのへん適当に歩き回ってた」
「……順らしいね」

 ようやく私が笑うと「でしょ」と順も頭を掻きながら苦笑してみせた。それからふと前方に視線を向けて、あーもうすぐだと呟く。
 僅かに深刻味を帯びていた声はいつも通りの茶化すような口調に戻っていた。私も順の真似をして前を見たけれど、もうすぐ路地を抜けるらしいということくらいしか分からなかった。

 そんな一瞬の隙を縫って、ふいに順が小走りで駆け出した。
 「ちょっ……順?」慌てて私も足取りを速めると、順は路地の出口の所で立ち止まってこちらを振り返る。
 待ちきれないという顔をしていた。多分、私が順と同じ位置に立って順と同じ光景を見ることを。やっと追いついた私に向かって、順はうずうずとした、けれども改まった口調になる。

「そんなわけで。もやもやして街中探検した健気な順ちゃんは、ついにここを見つけちゃったわけですよ」
 
 妙に誇らしげな順の表情が可笑しい。小さく噴き出しそうになりつつも、「何なのよ、もう」と呟いて私は路地を出て、

 そうして、目を見張ったのだった。


「……すごい……」


 世界が一面に赤かった。
 どこまでも開けている河沿いの堤防を、どこまでも続く夕焼け空が覆っている。
 ついさっきまでは青々としていたはずの空は今、朱色だとか紅だとか紫だとかオレンジだとかそういう色が混じり合って、なのにただただ純粋な赤色に染まっていた。目下に広がる堤防の草原も、流れる河もその向こうに見える住宅街も全部、余すところなくその赤色に照らされている。
 いつの間にか私の隣に立っていた順も同じようなものだった。すっかりと景色に目を奪われている私にピースサインを出してみせる。

「でしょ? ここから見る夕陽、すんごいキレーなんだよね。来たのひさしぶりだけど、全然変わってないや」
「……順が最後にここ来たのって7年前って言ってたよね。もったない。こんなに綺麗なとこ、毎日来てもいいくらいなのに」
「だって、次に来る時は夕歩と一緒に来ようって決めてたんだもん。まああの後すぐに夕歩入院しちゃったし、天地入った頃には忘れてたから、結局今日の今日でやっと実行できたわけだけど」

 まだ幼かった頃の順が一人でこの場所に立って、夕焼けを眺めている。

 想像するとなぜか胸の奥がぎゅうと手のひらで掴まれたような感覚がした。けれどもその感覚をかき消すように明るい声で順が私に言う。
 
「で、どうよ姫。お庭番が必死こいて見つけた絶景の感想は」
「……サイコーです。順もやる時はやるんだね」

 順から視線を外してもう一度空を見上げた。
 熟したほおずきのような鮮やかな赤はまったく褪せてはいなかったけれど、この色がそう長くは続かないことには、きっと順も気付いているはずだ。逢魔が時は私たちが思っている以上にずっと短い。
 やがて西方が夜を連れてきて、この赤い空に青が混じってきたかと思えばすぐに辺りは暗くなってしまう。

 それでも、この時間が永遠に続けばいいのにと思った。今この時間だけは私の病気も家柄のしがらみもなにもかも消えて無くなってしまっていて、世界中に私と順の二人だけしかいないように思えたから。それはほんの錯覚にすぎないのだけれど。

 隣に佇む順の手を軽く握る。あの星奪りの日にそうしたように。
 理由なんてない。別にあの時みたいに順の手が震えていたわけでもないし、私が心細かったわけでもない。ただ、なんとなくだ。
 順はちらりとこちらを見て、それから小さく笑ってみせる。手は払われなかった。

「……陽ぃ沈んだら戻ろっか。病院帰るの遅れちゃまずいし」
「うん、そうだね」
「……ねー夕歩、あのさ」

 さっきまでは生温かった風が涼しくなってきた。なびく前髪を手でかきわけながら、私たちは二人で夕暮れの下にただ並んで立ち尽くす。
 順はそこで言葉を切ったままだった。ぼんやりと空を仰いでいる横顔がいつもより少しばかり真剣そうに見えたから、私は黙ったまま順の次の言葉を待つ。普段はふざけてばかりいる分、順が真摯に何かを伝えようとしている時はすぐに分かる。
 しばらく経ってからおもむろに順が口にした言葉は、さすがに予想出来なかったけれど。

「……時々さあ、あたしは夕歩と一緒に生まれてくるべきだったんじゃないかなーって思うんだよね」
「……は?」
「んー。なんつーか、あたしが夕歩の一部だったなら良かったなーみたいな?」
「……すごく気持ち悪いの想像しちゃったよ。いきなり何言い出すの」

 脳内でよからぬ映像を思い描いてしまって、思わずうえっと声を上げる。
 本当にいきなり何を言い出すんだこいつはと思って順の方を見たけれど、意外なことに順の顔つきは真面目なままだった。

「だってさ、そしたら夕歩が病気で辛いのとか、疲れやすいのとか、全部あたしが変わってあげられるじゃん。で、夕歩は楽しいこととか嬉しいこととか独り占めすんの。これ最強」
「……順、バカじゃないの。今までもだいぶアレだと思ってたけど、本当にバカだとは思わなかった」
「いやいやいや、それちょっと酷いよ夕歩……。なんでさ? いー考えだと思ったんだけどなあ」

 私の言葉に順は眉根を下げて、いつものような力の抜けた表情になった。反応を見るにさっきのは本気で口にした言葉だったらしい。
 ふたりがひとつだったなら良かったねって、順はそう言っているんだ。
 良くないよ、と声に出さずに呟く。順はなにも分かってない。悪いことは全部順で良いことは全部私にという考え方も気に入らなかったけれど、それ以前の問題だ。
 鮮やかだった空の色がトーンを少しだけ落として、視界の端の方は青みがかった紫色に変わりつつある。夕暮れ時は終わりを告げて、夜が始まろうとしているんだ。
 私は順の手を握る手に力を込めて、そうして、わざと順の方を見ないまま言った。

「一緒に生まれてきてたら、私は順と会えなかったよ」

 確かに私たちは血が繋がっていて、そのくせ私は病気をしがちで順は健康優良児の見本みたいに丈夫で、だから分け合えるものは自分たちが思っているよりも少ないのかもしれない。でもそれがなんだっていうのだろう。
 ふたりがひとつだったら、こんなふうに並んで同じ景色を見ることなんて出来なかったのに。

 順はしばらくの間驚いたように目を見開いていたけれど、やがてぽんと手を打った。まるで頭の上に感嘆符が浮かんだみたいに清々しく晴れやかな表情をしている。

「な、るほど。夕歩頭いいね!」
「私が頭良いんじゃなくて順がアホなんだよ……」

 私ががっくりと肩を落とす。私のテンションとは正反対の順は「そこは盲点だったわーと」けらけら笑った。
 私たちがそんなやり取りをしている間に、いつのまにか空はもう薄暗い青色にすっかり変わってしまっていた。隅の方に一番星まで現れている始末だ。
 今何時くらいなんだろうと考えながら空を見ている私の視線に気付いたのか、順も私と同じように顔を上げる。うおっと変な声を出しながら携帯を覗いた。

「あちゃ、もう7時過ぎてるわ。夕歩、いこっか」
「うん。時間、ちょっと走らないと危ないかも」
「そーね……まあ小走りでいきましょうか。疲れたらすぐ言ってよ? ってか夕歩、この手……」

 繋がれたままの右手を掲げて順は私を見た。街灯らしきものがないために辺りはだいぶ暗かったけれど、不思議と順の顔はよく見える。ただ近くにいるからというだけかもしれない。けれどもそうじゃないような気もした。理由はよく分からない。
 私は手の力を緩めて、でも決して解かないままに順にふっと笑いかけた。

「いーよ、このままで」
「……ん、分かった。じゃ、行きましょうか!」

 順が私と同じように笑う。私の手を引いて駆け出す。
 けれども足を踏み出す瞬間、かすかに順の唇が動いて何かを呟いた。
 辺りが騒がしいというわけでもなかったけれど上手く聞こえない。「え?」と私が聞き返すと、順は笑顔のまま首を横に振る。もう一度言ってくれる気はないようだった。
 仕方がないので、順の腕にかかっている、いくつもの紙袋がばたばたと揺れる様子に目をやりながら私も走り出す。やっぱり、無理矢理にでも半分持った方がいいかもしれない。

 狭い路地を走り抜けながら、目だけは順の後ろ姿に向けて、それでも頭を半分くらい使ってただ真っ直ぐ帰ることだけに意識を傾ける。
 そしてもう半分で、帰りが遅れても誰も順のことを怒れないようにするためにはどんな言い訳が一番なのか、ちょっと真剣になって考えるのだった。









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