開け放たれた窓から多少は温い風が入ってくるものの、同時に強烈な日差しまで呼び込んでしまっているせいで部屋の中はひたすらに暑かった。テレビも無い部屋に住んでいる私には正確なことは分からないけれど、体感温度だけで考えてみれば間違いなく今日は猛暑日だ。手汗でぬめる手のひらを拭くために一旦ペンから手を離し、傍らに置いてあったタオルに手を伸ばす。
 ついでに首筋に浮かんだ汗も拭いながら、今年こそエアコンを買うべきかということについて私はちょっと真剣に考えてみた。生まれ持った横着者の性質が祟ってこの歳まで冷房無しのまま過ごしてきたが、このまま毎日のように太陽を呪いながら長い夏を過ごすことはあまり賢いとは言えないだろう。結局今年もなあなあにして来年また同じような夏を迎えるよりも、今のうちに動いてしまった方が後々楽になることは明らかだった。
 しかし、そのためにこの暑い中街まで足を運び、エアコンを購入する手続きやら何やらをしなければならないことを思うと今以上に身体から力が抜けそうになる。少なくとも遺跡や草むらでフィールドワークをするよりも遥かに楽なはずなのに、街に行くことの方がずっと面倒に感じられるのはどうしてなのか。もしかしたら私は、実は引きこもりの気質も持ち合わせているのかもしれない。

(というか面倒くさがりなのが悪いだけよね、ほんと)

 そう内心で呟きながら再びペンを手に取る。私が所属している学会は年に一度の定例大会で研究結果を報告すれば良いだけなので、まだレポートの提出までは余裕があった。それでも、書ける時に書いておきたい。こういったことは油断をして後回しにすれば必ず後で大きなつけが回ってくるのだということは全時代共通の真理なのだ。

 そんなわけで再びレポートに没頭しようと下を向いた瞬間、ピンポンとあまり聞く機会の無いインターホンの音が鳴った。基本的に部屋の中が書類やら資料の山で大惨事になっているせいで、私はあまり他人に自宅を教えない。ごくたまに別の用件で全くの他人が来ないこともないが、私の部屋に訪れるのはほとんどよく知った友人、あるいはそれに近い人物に限られる。
 だから私が玄関に向かって「どうぞ、開いてます」と声を掛けた後、ドアを開いて入ってきたのが見知った顔の少女であったことにはさほど驚かなかった。いつもの帽子を今はかぶっていないせいで、肩より少し長いくらいの綺麗な黒髪がいっとう目を引く。

「……シロナさん、不用心ですよ」
「鍵閉めてあると開けにいかなきゃならないから、こうしてた方が楽なのよねえ」
「そういう問題じゃないです、女の人なんですからちゃんとこういうとこは用心して下さいよ。……お邪魔します」

 靴を揃えてから、礼儀正しく会釈をして部屋へ上がってきたヒカリちゃんの手には大事そうに紙袋が抱えられていた。受け取ると、見た目よりもずっしりと重い。

「お母さんが、いつもお世話になってるお礼にって」
「あー。そういえばヒカリちゃんのお母さんは、あたしとヒカリちゃんが普通の友人同士だと思ってるのか。まずい、かしらね」
「でも、わたしたちって、友人同士じゃないとしたらどんな関係なんでしょう」
「……んー、何だろうね?」

 彼女は私を好きで。
 私も彼女に惹かれていて。

 互いにそれを受け入れてはいるけれど、だからといって私たちが世間一般で言われる恋人同士という間柄なのかと問われればそれは違う。私たちが並んで歩く時に手を繋ぐことはあまりないし、睦言を交わすこともない。彼女はよく私の家を訪れるようにはなったけど、適当な会話をした後に、夜になれば帰ってゆく。
 おおよそ友人と付き合う時と同じようなことしかしておらず、知り合ったばかりの頃と変わったのは会う頻度が増えたくらいだ。私にしてみればそれだけでも充分に満たされているけれど、彼女にとってはどうなのだろう。

 受け取った紙袋を覗いてみると、中に入っていたのはロールケーキだった。包装を見るにどうやら手作りらしかったが、店頭に並べられているそれらとほとんど見た目に差はない。柔らかそうなスポンジや純白のクリーム、その中から見える何種類ものフルーツに私の気分は高揚する。甘い物が好きな者の性だ。

「わ、わ。ちょっと、本気で嬉しいかも」
「お母さん、こういうの作るの好きだから。絶対迷惑になるって言ったのに、張り切っちゃって……」
「そんなことないよ、すごく美味しそう。お持たせになっちゃうけど、今から食べようか。飲み物はアイスティーで良い?」

 ヒカリちゃんがこくんと頷いたので、私は立ち上がって備え付けのキッチンに向かった。水出しのティーバックを戸棚から取り出し、二人分のガラスのコップに氷水と一緒に入れる。それからナイフと小皿、フォークを用意してテーブルへと戻った。私の机はいつも例外なく散らかっている。勿論今日とてそうだったから、無造作に置かれた資料やレポート用紙を片付けないことにはテーブルは本来の機能を果たしてはくれそうにない。
 けれども戻る頃には、ヒカリちゃんが乱雑だった机の上をせっせとまとめて脇に置いてくれていた。私が戻ったことに気付いたヒカリちゃんがこちらを見上げる。どうやら資料や本の類いは何らかの基準に置いて分けられているようだったが、見た限りでは彼女の中の基準がよく分からなかった。

「一応分けてまとめてみたんですけど……大丈夫でした?」
「ああ、ありがとう。大丈夫よ、いつも適当に散らけちゃってるし」

 そう言ってティーバックを抜いたコップをヒカリちゃんの前に置く。気温のせいでもう表面にはかなりの数の水滴が浮かんでいた。ありがとうございますと言ってヒカリちゃんはそれを両手で口元まで運び、けれども飲もうとはせずにこちらを見る。
 砂糖が欲しかったのだろうかと私は思い、そう訊ねようとした瞬間、先に彼女の口が動いた。

「シロナさん、今日、髪まとめてるんですね」
「ん? うん、暑いもの」
「新鮮です。何だか」
「解いてた方が落ち着く?」
「いえ、そのままでも……っていうか今の髪型も、普通に綺麗で。ちょっと、どきどきしてました」
 
 そう照れくさそうに言う彼女の微笑みにどきりとする。どうしてなのかいつもより少しだけ、大人びて見えたのだ。
 たまに見せる彼女のこんな表情が、私は好きだ。特に幼さや無垢さの中にちらりと見え隠れする芯の強さや、ひたすらに素直な所なんかが。私はなるべく顔に出さないように気をつけながら、さっきまで座っていた座布団代わりのクッションの上にまた座り込んだ。
 ビニールから出した、お手製だというロールケーキを適当な大きさに切り分けて皿に載せた。余った分はビニールに戻して紙袋にしまう。後で冷蔵庫に入れておかなければ。

「ごめんね、暑くて。この部屋エアコン無いから」
「気にしないで下さい、大丈夫ですから」
「買おうか検討してはいるんだけどね……」
「シロナさんのことだから、どうせ取り付けが面倒くさいとか、そもそもエアコンの為に街まで行くのがだるいとか、そういう理由でしょう」

 むう、と唸る。図星でしょうとヒカリちゃんは嬉しそうな顔をして、アイスティーを一口飲んだ。
 どうしてこう鋭いのだろう。もしくは私の怠惰さが周囲に目に見えて分かるくらいなのがいけないのだろうか。これでもよく遺跡を巡ったりしているから、外に出る機会が少ないというわけでもないのだが。
 きまりが悪くなったので、私はエアコンの話題をとりあえず忘れることにした。
 ロールケーキを前にして「いただきます」と手を合わせる。ヒカリちゃんがフォークを手に取るのを見届けてから、私も柔らかいスポンジにフォークを差し入れた。
 見た目の予想を裏切らず、ケーキはとても美味しかった。私は甘い物をよく食べるけれど、間違いなくこのケーキはとても美味しい部類に入るだろう。
 甘いクリームが舌の上で蕩ける感触を楽しみながら、はーと大きく息を吐いてテーブルに頭を横たえた。合成樹脂で出来たテーブルにぺたんと頬をくっつけると、冷たくて大層気持ちが良い。

「いいなあヒカリちゃんは。こんなに美味しいお菓子がいつでも食べられるなんて」
「気が向いた時くらいしか作ってくれませんよ。あと、誕生日とか」
「すごく素敵なお母さんだよ。私はおばあちゃんっ子だったから、作ってもらったのはお団子とかおはぎとかばっかりだったし。まあ、遠慮なく食べてましたけどねー」

 ヒカリちゃんは口を押さえてくすくす笑った。年齢相応に子供らしい今の表情も可愛らしくて、時折見せる芯の強さや意思の強固さはどこへなりを潜めているのだろうと思う。彼女がシンオウを回って旅をしている途中、私が興味を抱いたのは彼女のそういった部分だった。

 けれどもこうしていると彼女は本当に何ということのない、あどけない少女に見える。全くの他人がヒカリちゃんを見た所で、誰も彼女が各地ジムのバッジを全て所有しており、更にリーグの制覇者であることなど考えもしないに違いない。
 私はそれを知っているのだと思うと、何だか誇らしかった。自分が一度彼女に負けたことなど、全く気にならないくらいに。











 夕方になり、少しは涼しい風が入ってくるようになった。薄めに切ったロールケーキを結局もう一切れたいらげた私たちは、いつものような他愛のない話に華を咲かせていた。夕涼みがてら、並んで窓の側に腰を下ろしている。
 夏の匂いを存分に孕んだ風が吹いて、ヒカリちゃんの黒髪をふわりとなびかせた。

「……そういえば」
 
 ふと思いついたようにヒカリちゃんがそう口にした。三杯目のアイスティーを飲んでいた私は彼女の方を向いたが、ヒカリちゃんは窓の外、どこか遠くを見ているようだった。この部屋はそれなりに高い階にあるから、見晴らしはそう悪くはない。けれども長年ここに住んでいるせいか、茜色をした空にも眼下の街並にもあまり興味は引かれなかった。
 けれどもヒカリちゃんは何かを見るように、折った膝の上にちょこんと顎を載せて、そちらに目を向けている。

「今日、来たばっかりの時にわたしとシロナさんの関係って何なんでしょう、って話したじゃないですか」
「うん。したわね、そういえば」

 だから考えてみたんですけど、とヒカリちゃんは言う。

「少しだけ、恋人の真似事をしてみたいんです」

 こいびとのまねごと。

 口の中でその言葉を転がしてみたけれど、初めて聞く言葉の割には妙に私の中に馴染んだ。しかし、十以上歳の離れている少女の口から出るにしては、少々突飛な言葉だった。私は握りしめていたカップを傍らに置き、改めてヒカリちゃんを見る。

「それは、例えば手を繋いだり、抱き合ったり、キスしたり?」
「上手く言えないですけど。……わたし、こうやってシロナさんと一緒にいられるだけですごく幸せです。でもたまに、夜寝る前とか。何となくさみしくなるんです。いつかはちゃんとした、シロナさんの恋人みたいになれるのかなあって。……どういうのが『恋人らしい』ことなのか、よく分からないんですけど」
「うん。難しい問題ね、それは」
「だから、せめて真似だけでも出来たらなあって。……あっ、もちろんシロナさんが嫌ならいいんです。わたしのわがままなんですから」

 ここで初めて、慌てたようにヒカリちゃんは私の方を向いた。頬が赤くなっている。私は首を横に振り、嫌なんかじゃないよ、と口にした。
 しかし例えば私がここで彼女を抱きしめてみたり、キスをしてみたり。そういった諸々のことと彼女が言わんとしていることはどこかずれているような気がする。というよりも、私たち二人とはどこかがずれている。いつかは私たちもそういった関わり方を日常的に交わすようになるのかもしれないけれど、今はまだ違う。私たちはまだ、本当の恋人にはなりきれない。
 けれども、だとすればどうするべきなのだろう。恋愛めいた感情を抱いている私たちが、本当に恋愛が出来るようになるまで、少しずつ距離を詰めていけるような方法は。

 そう考えた末に、あ、と私は思った。
 ヒカリちゃんに身体ごと向き直る。生真面目な表情をしているヒカリちゃんに顔を寄せて私は言った。

「今日、うちに泊まらない?」
「え」
「泊まって、一緒の布団で寝るとか。何だかそういうのって、ちょっと恋人みたいじゃない?」

 その代わり暑いですけど、と続ける。戸棚の中には未開封の歯ブラシだってあるし、着ていないシャツだってあるから、それでも良ければ。
 ヒカリちゃんはやや俯いてい私の言葉を聞いていたけれど、さっきよりもまた少し顔が赤くなっていた。

「いいん、ですか?」
「もちろん。でも、並んで寝るだけだよ? 変な言い方すると、それ以上のことは多分ない、と思う……けど」
「それで、充分です。本当に」

 ヒカリちゃんはそう首を振った。それは本心からの言葉に思えて、私は少し安心した。
 拒絶されたらどうしようかと思っていたのは、全くの杞憂だったらしい。

「……そうするとなると、お母さんに連絡しなきゃね。怒られちゃうだろうし」
「大丈夫だと思います。前に友達の家に泊まった時も許してくれましたから」
「でも、帰ってこないとやっぱり心配するよ。うちの電話使っていいから連絡しておいで」

 そう言うとヒカリちゃんは立ち上がり、私にぺこりと頭を下げた。それから少し離れたところにある電話まで小走りで近付き、ボタンを押し始める。その姿をぼんやりと眺めていると、特に意識していたわけでもない言葉が口を突いて出た。

「やっぱり買おうかな、エアコン……」

 この先こうして、徐々に私たちの間の距離を詰めてゆくというのなら、毎回毎回この部屋で彼女に暑い思いをさせてしまうのは良くない。自分一人ならいくらでも我慢出来るけれど、相手はまだ私と違って幼いのだ。熱中症になってしまったら取り返しがつかないし、そうでなくたって彼女に負担をかけてしまいたくはない。彼女のためだと考えれば、街へ出る面倒さもほとんど感じないように思えた。

 これから少しずつ、私の部屋に彼女の痕跡が残ってゆくのかもしれない。エアコンはきっと、そのほんの始まりに過ぎないのだろう。
 そう思うと悪い心持ちはしなかった。

「シロナさん!」

 ヒカリちゃんが受話器を手で押さえながら、ぱたぱたと走り寄ってくる。
 電話に代わってほしいらしい。嬉しそうな表情を見るに、どうやらお泊まりの許可は問題なく下りたようだった。それにしても、本当に嬉しそうな顔をする。さっきまで緊張して強張っていた顔つきが今は無邪気に綻んでいて、まるで百面相だ。これから彼女と同じ時間を過ごしていけば、もっとたくさんの表情が見られるに違いない。そうしてそんな彼女に、今より更に惹かれてゆくのだろうと思う。
 そうしたら彼女が私に言ってくれたように、私たちは本当の恋人らしくなれるんじゃないだろうか。少なくとも、今よりずっと。

 しかし、今の所何よりの問題は今日の夕飯である。二人分の食材が残っていただろうかと考えながら、私は手を伸ばして受話器を受け取った。








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