ピピピ、と体温計が高い音を立てる。

「……8度3分……」
「ほらぁ、だーから大人しく寝てろって言っただろ? 素直にオレの言うこと聞いときゃ良かったのに」

 ジュンの、いかにもしてやったりという表情が腹立たしい。わたしは体温計のスイッチを切りながら横目でジュンを睨みつけたが、その目線の迫力に欠けることは自分でも分かった。やや乱暴な手つきで体温計をジュンに手渡し、自分は寝返りを打って顔を背ける。

「うるさいなあ……頭に響くからちょっとは声落としてよ」
「そりゃあ悪かったな。でもさ、最初にお前の熱に気付いたのオレなんだぜ? 少しくらいは感謝してくれても良いと思うんだけど」
「……分かってるよ、それは」
 
 きまりが悪くなったわたしは少しだけ布団から顔を覗かせて、「ありがとう」とくぐもった声で言った。喉が腫れているのか、いつもよりだいぶ声が掠れている。そのせいか、わたしを上から覗き込んでいたジュンは少しばかり顔をしかめてみせた。
 ジュンは口調は普段は悪ぶっていても、いざという時はとても優しい。今日だって、外でポケモンと遊んでいたわたしの様子がおかしいことに気付いてわたしを家まで連れ帰ってくれたのは他でもない彼なのだ。少し身体がだるいくらいにしか感じていなかったのだから、ジュンがいなければわたしはそのままもっとひどく風邪をこじらせていたかもしれない。そんなこと、わざわざ口にしたりはしないけれど。
 ジュンはベッドの縁に手をついたまましばらくわたしを見下ろしていたけれど、やがて首を振って顔を上げた。ほどけかけていた黄色いマフラーを巻き直し、二歩ほど歩いたところで振り返ってこちらを見遣る。

「オレはもう帰るけどさ、ちゃんと寝てろよ。頼むからふらふら出歩いたりすんなよな」
「失礼な。言われなくたってちゃんと寝てるよ」
「おー、そんじゃお大事に。……じゃあなヒカリ」

 ジュンの足音が遠ざかっていく。珍しく歩いて階段を下りているらしい彼の足音は徐々に小さくなり、やがてばたんとドアが開かれる音がしたっきり全く聞こえなくなった。わたしは窓からジュンの姿を眺めるために上半身を起こそうとしたが、一度寝転んでしまったせいかそれがひどく億劫に感じられてならない。ようやく窓に顔を近付けた時には、ジュンの姿は201番道路へと続く道へ消えようとしていた。
 小さなその背中を見ながら、わたしははあと息を吐く。窓ガラスに残った白いそれは、やがてそのまま溶けるように消えていった。

 ぼんやりと重い頭、熱を孕んだ喉、ろくに機能していない鼻、全身の気怠さ。
 どう考えても風邪でしかないというのに、思えばわたしはどうして休むこともせず平気で外に出ていたのだろう。わたしたちの住むフタバタウンはあちらこちらにまだ雪が残っていて、普段こそ気にならないものの体調を崩した時にはその寒さが身にこたえる。やや厚手のパジャマに着替えていたにも関わらず、わたしはベッドの掛け布団をしっかりとかぶり、枕に後頭部を押し付けた。慣れ親しんだ堅さの枕は、しかしわたしの頭に埋め込まれた鉛のような重さを取り払ってはくれない。
 枕元にはお母さんが持ってきてくれた水差しにコップ、食べかけのお粥の載っているお盆が置かれていた。せめて薬だけでもとお母さんが作ってくれたのだから食べきりたかったけれど、ろくに味も分からないせいで全く食欲が湧いてこない。わたしはのっそりと手を伸ばしてコップを取り、寝そべったまま慎重に中の水を口に含んだ。冷たい水が今は何よりもありがたい。熱く腫れぼったい喉を湿らせることが出来るのも嬉しかった。
 思えば家族がいるということはどれほど恵まれたことなのだろう。もしわたしが一人きりで住んでいたのなら、今日みたいなことが起きた時にはどうすることも出来なかったような気がする。それとも、わたしが自分で思っている以上に子供だったというだけのことなのか。
 こういう時、あの人はどうしているんだろう。家族の元を離れてたった一人で生活しているあの人は。

「……やめよ」

 わたしの脳裏にちらりと浮かんできた顔を振り払うように小さく首を振って、わたしはコップを元の位置に戻した。
 変に考え込んでは余計に滅入ってしまうであろうということは経験から知っている。特に、今は決して体調が芳しい状態ではないのだ。思い詰めてしまうのはきっと良くない。

 ここしばらく、きっと半年くらいの間。わたしの頭の中からあの人が完全に消えた日は一日として無い。

 そうして考えれば考えるほど、そのことはわたしの心をずしりと重くしていく。わたしはあの人よりもずっと子供で、どうしようもなく幼くて、おまけにあの人と同じ女だった。そんなわたしが、どうしてあの人の隣に並べるというのだろう。どうしてあの人がそれを許してくれるだろう。
 このまま知らん顔であの人と付き合っていくということはひどく容易だった。わたしがリーグを制覇して以来、あの人と会う時間が増えたから。まだトレーナーとして駆け出しの頃、「またどこかで会いましょう」なんて何でもない言葉に心を弾ませ、行く先々であの人の姿を探していた時間が今ではまるで夢のよう。今のわたしは彼女と喫茶店で相席してお茶を飲むことも出来るし、彼女から手渡された本に読み耽ることも出来る。
 けれどもわたしたちの関係はチャンピオンとただのいちトレーナーでしかなくて、それ以上にもそれ以下にも進めない。
 あの人からしてみればそれはひどく妥当な立ち位置なのだろう。けれどもこのままでは、わたしの方がきっと持たないだろう。あの人と話せることは幸せだ。涙が出るくらい、幸せなことだ。でも、一度でもその先を望んでしまったわたしには、今のままで満足出来る日々はもう遠ざかってしまっている。

「……ばか。何だかんだ言って、また考えてる……」

 小さく呟く。
 呼吸が出来なくなるくらいに枕に顔を押し付けると、酸欠で頭がくらくらした。少しはましな気分になるかと考えてみたけれど、一向にその気配は無かった。それどころか痰が喉に絡まり、げほっと嫌な音の咳が出る。なんでったって、こんなふうにこじらせてしまったのだろう。

 頭にぼんやりと霧のようなものが漂っている感覚は、少しずつまどろみをこちらへと引き寄せているようだった。柔らかいマットレスの上でくるりと身体を半回転させ、寝転んだまま窓を見上げる。外は相変わらず雲一つないいい天気だった。わたし一人が体調を崩した所で青空が雨天に変わるわけでも、暖かい日差しが大雪に変わるわけでもない。世の中なんてそんなものだ。
 寝ちゃおうかな、と頭の中で呟いてわたしは瞼を閉じた。今はまだ真昼間だけど、寝た所で誰に怒られるわけでもない。もやもやと頭の中で渦巻く色々なことから逃げるには寝るのが一番良いように思えた。逃げてどうにかなるのかといえば、それはきっと否だけれども。どうせ今抱えているもやもやが夜に先延ばしされるだけだろうに。



 まどろみからうっすらと意識が戻ってきたのは、気の抜けたチャイムの音のせいだった。
 ぱたぱたとお母さんが廊下を走る音がする。はあい、という聞き慣れた応対の声。誰か来たのだろうが、相手の声はよく聞こえてこなかった。荷物でも届いたのだろうとわたしは仮定して、相変わらず重苦しい脳を閉じ込めている額をぴしゃりと叩いてみた。相変わらず、熱い。
 どうやらうとうとしていた時間はそう長くはなかったようで、せいぜい30分やそこらだ。半端な時間だったせいか眠気はほとんど解消されておらず、むしろ逆に頭の痛みが強くなっているように感じられる。これは本格的に寝た方が良かったのかもしれないと後悔しつつ、ずれていた布団を掛け直して寝返りを打った。青空なんか眺めているからちゃんと眠れないままなのだ。

 微かに、お母さんと誰かが談笑しているらしい声が下から聞こえてくる。やがて玄関のドアが閉まる音がして、少し経ったかと思うと今度は階段を上がる音が聞こえてきた。考えるまでもなく足音で分かる。このゆっくりとした足取りは、間違いなくお母さんのものだ。
 予想通り、二回のノックの後にわたしの部屋のドアを開けたのはお母さんだった。目をつぶっているわたしの前までやってきて、ジュンがそうしていたようにわたしの顔を覗き込む。

「ヒカリ、寝てる?」
「……寝てないよ、お母さん」

 うっすらと目を開ける。正直な所このまま寝てしまいたかったが、わざわざ狸寝入りを決め込む理由なんてどこにもない。
 お母さんはわたしの枕元に目を付けたようで、ほとんど減っていないお粥の器に目をやって眉を寄せた。

「食べてないわね。大丈夫? 林檎もあるけど、いい?」
「いい。……それより、どうしたの」
「ああ、うん。あなたにね、お客さんが来てたから。風邪だって言ったら、持ってた菓子折り手渡してくれて、お大事にって言って帰っちゃったけど」
「……お客?」

 頭がぼんやりとして上手く回らない。そのお客というのがジュンやコウキ君以外の誰かなのだろうということくらいしか、今のわたしには分からなかった。あの二人ならお母さんは直接そう言うだろう。ナナカマド博士にしたってそうだろうし、第一博士はわざわざわたしの家へ訊ねてくることなんて滅多にない。その他にわたしの家を知っている人なんて、いただろうか。

「どんな人?」
「背の高い綺麗な女の人。名前は言わなかったけど、長い金髪で」


 瞬間。

 音も、時間も、全てが止まる。
 止まった世界の中で、唯一動いているのは間違いなくわたしだけだった。


「……その人、」

 わたしの声は、今や掠れるというよりも震えていた。
 ----------駄目だ、震えるな。わたしはシーツをぎゅうと握り、なんとかその震えを抑えようとする。それでも、止まってはくれない。手も、足も、声も、心臓さえ----------わたしの身体の全ては情けなく震えるのを止めてはくれないのだ。

「黒い、コート着てた?」
「そうそう。礼儀正しい人だったわねえ。ちょっと不思議な雰囲気の人だったけど、穏やかそうで……」

 お母さんの言葉を遮って、わたしはベッドから抜け出した。枕も掛け布団もシーツも、纏わり付く何もかもを振り払って走り出す。後ろから驚いたようなお母さんの声が聞こえたけれど、ごめんなさい。止まるはずはない。止まれるはずはないのだ。
 夢中で階段を下り、靴を履く間も惜しくて裸足のまま玄関を出た。足の裏はちくちくと痛いはずなのに、まるで自分の足じゃないみたいに軽かった。さっきまではあんなに重かったはずなのに、身体全体が今は羽のように軽くて、細胞のひとつひとつがただあの人を捜して動き回っている。ひどく重いはずのわたしの脳の真ん中が、はやく! はやく! とわたしを急き立てる。
 見渡しても、家の周囲には誰の姿も見えなかった。もう行ってしまったのだろうかという思いがちらりと頭を掠めた瞬間に、わたしは大切なことを思い出す。フタバタウンに入るには、ただひとつの道路からやってくるしかないのだ。
 出て行くときも同じ。さっき、ジュンが駆けていった----------

 201番道路へと続く、細い道。わたしは、ようやっと、あの人の後ろ姿を見つけたのだ。


「シロナさんっ!!」


 叫ぶ。その声に反応して、びっくりしたようにあの人が振り返った。ああ良かった、焼けた喉のせいでろくに通らない声でも、ちゃんとあの人に届いたのだ。
 あの人は今、ちゃんと、わたしのことを見てくれている。
 前髪で隠れていない方の瞳をまんまるに見開いて、あの人は何かを言った。唇が動いている様子はちゃんを見えるのに、声が聞こえない。どうしたのだろう。今日はやけに耳が遠い気がする。まだ10代なのに、やだなあ、そんなの。あの人の声を聞くためには、もっともっと近くに寄らなきゃいけないんだ。そう思って足を踏み出してみたのに、今度は足が軽くなりすぎているせいか、ふわふわと足場が定まらず全く前に進めない。
 あ、あの人がこっちに駆け寄ってくる。待ってて下さい、わたしがそっちに行きますから。そう言おうと開いた口からは何も出てこず、かくんと力が抜けて膝が折れた。みるみる地面が近付いてくる。わたしは、あの人をずっと見ていたかったのに。
 顔を上げようとしても、首の筋肉が全部無くなってしまったみたいでどうすることも出来なかった。あの人はどこへ行ってしまったのだろう。それを確かめたくてどうにか顔を上げた瞬間、まるでビデオの電源を切ったかのようなぷつんという音がして、目の前が暗くなった。



















 手が温かい。
 どうしてかひどく寒くて、身体中が冷たいはずなのに、右手だけは驚くくらいに温かかった。あんまり温かいものだから左手も添えてみたら、もっと温かくなった。少しばかり全身に感じる寒さが和らいだような気がして、わたしは嬉しくなった。
 
 目を開けると、わたしの両手と、それから、誰かの左手がひとつ。


「おはよう」

 覗き込まれるのは、本日三度目だ。さっきまでと違うことと言えばわたしの額の上に濡れたタオルが置かれていることと、窓から見える空がすっかり暗くなっていることと、それから、
 ……それから。

「……シロナさん」
「うん。びっくりしたよ、君、急に倒れちゃうんだもの」

 シロナさんはそう言って笑うと、右手をわたしの額にあるタオルに載せた。「温くなってるから、これ、換えちゃうね」と言われたので、わたしは素直に首を縦に振った。それからふと気付いてシロナさんの左手を握っていた両手を離すと、シロナさんはわたしの額から取ったタオルを近くにあった洗面器の水につけ、それから固く絞ってまたわたしの額に置いた。中身は氷水らしき洗面器に入れられたタオルはとても冷たくて気持ちが良かったけれど、わたしの両手はそれとは正反対の熱をまだ保ち続けていた。

「お母さん、優しそうな方だね。風邪だって聞いて心配したんだよ。トレーナーに無理は禁物よ、ヒカリちゃん?」
「……シロナ、さん」
「ん?」
「手、良いですか」
「うん。良いよ」

 屈託なく笑い、シロナさんはわたしの右手をまた握った。これは一応、手を繋いだということになるのだろうか。そうだとしたら初めての体験なのだけれど、いつもなら大喜びするより先に緊張で硬直してしまうであろうわたしの頭は、寝ぼけているみたいにぼんやりとしている。埋め込まれた鉛は眠っている間に溶けてしまったのかもしれないが、その代わりどろりとした銅を上からかぶせられたように全体的に重く静かだった。
 けれども今、シロナさんに手を握られているという事実に、何の嘘もないのだ。

「今日はほんとにたまたまね、ヒカリちゃんに会いに行ってみようかな、って思って。前、実家がフタバタウンにあるって言ってたでしょう? だからご両親に挨拶も兼ねて来てみたんだけど……ごめんね。悪化させちゃったみたいで」
「そ、んなこと、ないです……」

 一番小さな照明が点けられているだけなので、部屋の中はそれなりに暗かった。だというのにシロナさんの表情が、ここからははっきりと見える。申し訳なさそうな微笑みを浮かべて、真っ直ぐにわたしを見下ろしていた。何よりの原因であるわたしが、彼女にこんな表情をさせていいわけはないのに。
 わたしは身体を起こそうと上半身に無理に力を入れようとしたものの、「駄目だよ、寝てなきゃ」と諭されるような口調で言われてしまってはどうすることも出来ない。仕方なく浮いた頭をまた枕に寝かせる。きっと寝癖も付いてしまっていることだろうけれど、今はそんなことに構ってはいられない。
 空いた手でシーツを握る。昼間の握力はどこへやら、見事なほどに力が抜けてしまっていた。倒れた衝撃で骨でも抜けてしまったんじゃないだろうか。

「さっきは、本当にすみませんでした。わたしが勝手に追いかけたんです。シロナさんが来てくれたって聞いたら、どうしても、会いたいって思っちゃって」
「ありがとう。そんなふうに想っててくれたなんて嬉しいな、ほんと」
「……シロナさん。わたし、言わなきゃいけないことがあるんです」

 今言い逃してしまったら、わたしはこの先ずっと大切なことを言いそびれたまま彼女の側にいることになるだろう。
 ほとんど直感だった。確信めいた直感だ。それはつまりわたしと彼女の関係が、今のままずっと変化しないということで。チャンピオンとただのいちトレーナーという立ち位置が、もしかしたら歳の離れた友人に変化するかどうかくらいのもので。そうして、わたしにはそれが、嫌だった。
 このまま言いようのない感情を抱えて幾つもの眠れない夜を過ごすくらいなら、いっそのこと熱に浮かされて内面を吐露してしまったほうが楽になるのではないかと。
 そう、思ってしまったのだ。
 

「わたし、シロナさんが好きです。初めて会った時から、ずっと」


 シーツを握る指先に力を込める。
 やわい照明の光と窓の外から入ってくるとても僅かな月明かりが、シロナさんの表情を白く照らしていた。綺麗な人だとうちのお母さんは言っていたけれど、本当にそうだ。わたしも大人になったらシロナさんみたいに綺麗になれるのだろうか。……いや、なれないに違いない。だってシロナさんは、わたしが今まで会ってきた人達の誰よりも綺麗な人だ。わたしなんかが適うわけがない。
 振り払われるかと思った右手に、少しばかり力が込められる。シロナさんの長い指がわたしの指にぎゅうと絡められていた。

「うん、知ってたよ」

 彼女の口から出た言葉は、わたしの予想していた範囲の外にあった。思わず、反芻するように彼女が口にした言葉を繰り返す。

「……知ってた、って……」
「さすがに、初めて会った時から好きでいてくれたとは知らなかったけど。でも話したり、一緒にいたりするときのヒカリちゃんの表情とか、仕草とか、あんまり可愛いから。もしかしたらこの子あたしのこと好きなのかなあって、ちょっと思ってた。うん、自惚れじゃなくて良かった」

 頬杖をつきながらシロナさんはそう言った。見れば、わたしを覗き込んでいるシロナさんはさっきまでの2人と違っている点がもう1つあった。ジュンもお母さんも立ったままわたしを見下ろしていたけれど、シロナさんはカーペットに座り込んで、そうしてわたしのことを見ている。普通に並んでいる時でさえ身長に差があることを考えれば、わたしたち2人の目線の位置は、今現在、今までのどんな時よりも近い位置にあるのかもしれなかった。
 きっと、この物柔らかな笑顔をこんなに近くで見ることが出来たのも、初めてに違いない。

「……それで」

 わたしの口調は熱に浮かされて掠れていた。彼女に台詞の続きを促すのは大層怖いことだったけれど、そうせずにはいられなかったのだ。シロナさんは少しばかり何かに迷うような表情になって、一度唇を結んだ。少しばかり経ってから、薄い唇をまた開く。そこからどんな言葉が紡ぎだされるのかが知りたくて、私はあまり調子が良いとは言えない耳を精一杯すませた。
 
「……んー。年下の女の子にこんなこと言う日が来るなんて、君と会うまで思ってもみなかったんだけど」

 気のせいだろうか。シロナさんの頬に、いつもより少しばかり赤みが差しているように見える。もしかしたらただの光の加減でしかないのかもしれないけれど、わたしにはそう見えた。その頬を指でぽりぽりと掻いてから、シロナさんは一瞬だけ窓の方へと視線を泳がせて、それからまたこちらを見たのだった。

「あたしも君のことが、気になって仕方がないみたい。君が後輩トレーナーだとか、ずっと歳の離れた女の子だとか、そういうの全部抜きにしてもね」
「……それ、って……」
「うん。……この感情が恋って呼べるものなのかはまだ分からないけれど。出来うる限り、こうやって君のこと近くで見てたいって、思うんだ」

 そう彼女の口から聞いた瞬間のわたしのこの喜びを、胸の高鳴りを。

 どう伝えれば良いのだろう。普通なら、どういう反応をするのが一番正しいのだろうか。歓喜の声を上げれば良いのか、それとも満面の笑みで相手に抱きつきでもすれば良いのか。やっぱりまだまだ子供で幼過ぎるわたしはそのどちらもすることが出来なくて、精々出来たのはただこぼれ落ちそうになる涙を必死でとどめておくことくらいだった。滅多に出さない熱のせいだろうか、それでも先走りすぎた数粒の涙が目尻から頬を伝って、シーツに染みを作ってゆく。
 シロナさんは慌てたような表情になって人差し指でわたしの目尻の水滴を拭おうとした。けれどもその指の感触がまた心地良かったせいで、ますます涙は留まる所を知らない。いつ以来だろう、こんなに泣いたのは。もう号泣なんて絶対にすることは無いだろうと思っていた予想はあっけなく裏切られてしまっている。情けないなあ。本当に情けない。こんな情けないわたしのことを、シロナさんはずっと見ていてくれるの?
 あわあわとどこか子供っぽいような焦りの表情で、シロナさんはハンカチを取り出してわたしの目元や頬を拭った。明らかに困っている。困らせてしまっているのはわたしだけれど。

「うぅ、あー、泣かせちゃったなあ……ごめんなさい、そんなつもりじゃなくて」
「気に……しないで下さいっ、嬉し泣きなんですから」

 小さくしゃっくり上げながらわたしは答えた。それからぐいぐいと手の甲で目を拭って、無理矢理に涙を止める。いつまでも泣いてなんかいられない。泣いてるままじゃ、目の前のこの人の表情がよく見えない。この人を困らせたくなんてない。
 わたしがもう大丈夫だと分かったらしいシロナさんはほっと安堵の色を浮かべた。この人が子供の扱いに慣れているように思えたのは、きっとカンナギにいた妹さんのおかげだろう。そうして泣く子供の扱いに慣れていなさそうに見えるのは、きっとあの妹さんがあまり泣かないしっかりした女の子だからだ。わたしも、自分をそんなふうな人間だと思っていた。もう大抵のことじゃ泣いたりなんてしないって、そう思い込んでいたのだ。
 シロナさんは少し考えた後、わたしの右手に触れた。わたしの手を包み込むように両手で握って、そこに自分の額を当てる。少しの間何かを祈るように目を閉じている彼女の長い睫毛に見とれながらも、指が絡められたままの右手をわたしはそっと握った。やがて目を開けて、わたしを見下ろしたシロナさんが悪戯っぽくくすりと笑う。

「これから長い間、よろしくお願いします。ヒカリちゃん」
「……はい、シロナさん」

 好きな人の言葉ひとつで泣いてしまうような脆弱なわたしが、シロナさんの隣にずっといられるということが、わたしには嬉しくてたまらない。わたしはこの人と肩を並べている間に、少しでも成長出来るのだろうか。せめてもう少ししっかりした、シロナさんに似合うようなトレーナーに。
 いつかそうなれたら、良いと思う。そばにいてもいいよって、わたしにそう応えてくれたこの人のために。

 わたしはさっきまでシロナさんがそうしていたように、まだ濡れたままの瞼をそっと下ろした。










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