短編 | ナノ
「はーやーとおおおおお!!!」
そう叫んだ少女はそのまま目の前の背中に飛びついた。
「おっわ!お前、急に抱きついてくんな!」
「そういいながらもちゃんと受け止めてくれる隼人、ステキ…」
うっとりした表情で獄寺に抱き着いている少女は決して変態ではない。彼と付き合っている、獄寺の彼女だ。
「あー、わかったわかった」
「隼人今日何の日かしってる?」
「知らねーよ。お前の誕生日はまだだろ」
「ねえ、知り合い?知りたいよね!じゃあ教えてあげる!今日はね、8月10日。「8(はや)10(と)の日だよ!ついでにハートの日だって!」
「で?」
「で、ってなにそれ。ヒドイ!スゴイとかそーゆー感想ないの!?」
「ねえよ」
「う〜。つれない…。でもそんな隼人もステキ!」
「あ〜もう…、なんでもいい。勝手に言ってろ」
呆れたように頭を掻く隼人を尻目に希子はそのまま話し続ける。
「でね!隼人の日とハートの日が一緒になるって運命だと思うの!もうこれは神様がワタシに隼人をワタシの愛で埋め尽くせっていうメッセージだと思って…。だからね、今日はいっぱいワタシに甘えてもいいよ!いっぱい愛してあげる!」
「…いい」
良い考えだとばかりに捲し立てた希子の言葉を聞いてゲッソリした表情を浮かべた獄寺は癒しを求めてピアノへと向かった。
「ねえはーやーとー。なんでそっち行っちゃうの〜?ほら、照れないでこっちおいでよ〜」
ベッドの上で両手を広げ、獄寺を待つ希子はさあここへ来て存分に甘えなさいと言わんばかりの笑顔だ。
「…行くかよ」
そう言って獄寺はピアノと向き合う。
「もう…。素直じゃないんだから」
小声で文句を言った希子の声はピアノの音によってかき消された。
いつものそっけなくも返っては来る返事がこない。そのことが少し希子の表情を曇らせていた。



(いつ聞いても隼人の紡ぐ音は心地いいな…)
そう思った希子は少し悲しそうな顔をしていた。
獄寺はいつも自分に安らぎを与えてくれる。甘やかしてくれる。愛を差し出すということを教えてくれた。いろんな素敵なものをくれた。
では逆に、自分はどうなのだろうか。与えてもらうばかりで何か獄寺に与えることができているのだろうか。今日だってそうだ。8月10日という日に託けて隼人に甘えてもらおうと、いつも張っている気を少しでも休めてもらおうとしたが結局は失敗している。本当は無理してる?獄寺はこう見えても世話焼きで希子のような人間を放っておくことのできない性格なのだ。
希子はそんな負の感情を抱えていた。
良かれと思ってしていたことが実は余計なお世話だったのかもしいれない…。そんなことを考えた希子は隼人の方へと向かっていった。獄寺はまだピアノを弾いている最中だ。しかしそんなことも気にできないほど今の希子には余裕がなかった。
「ねえ、隼人…」
しかし集中してピアノと向き合っている獄寺にはその声も届かない。
「ねえ…、ねぇ、隼人ってば…」
やっぱり隼人はワタシのことが邪魔?いらない?足手まとい?面倒くさい?
負の感情のループ。希子は完全にそれに巻き込まれていた。
返事をしてくれない隼人。本当にワタシの存在なんていらないんじゃないか。そう思うと涙が出てきた。
「うっ、うあ、はっや、と」
啜り声に気が付いた獄寺は何事かと驚き、後ろを振り向いた。そこにいたのは涙を流して自分の名前を呼んでいる希子だった。
「お、おい…。どうしたんだよ」
ピアノチェアから立ち上がった獄寺の足は希子へと向かう。
「ん、うぐ、ひっく」
「どうした?なにかあったか?」
訪ねても嗚咽ばかりで返事をしない希子の背中を優しくさすってやる。
「は、っやとは…ワタシのこ、とっじゃ、ま?」
「は?んだよ急に。そんなんだったら家になんて入れてねぇし一緒にいねえよ」
「だ、て…。いつ、も、ワタシばっか、」
「ん?」
小さい子にするように目線を合わせ続きを促すように優しく声を掛ける。
「はや、とかっら…もらってる」
「ワタシ、っは…なにも、あっげられ、てなくて…」
そこまで聞いて獄寺は希子が何を言いたいのかだいたい理解した。
「なに言ってんだお前は。オレは、お前にはたくさんのモノをもらってるよ」
「う、そ…」
「ウソじゃねえよ。本当だ」
バカだな、と言って獄寺は希子を抱きしめる。
「今だってそうだ」
「いま…?」
「あぁ。希子にオレのピアノの音を聞いてもらうだけで心が安らぐ」
「へ…?それだけ、で?」
「そうだ。それだけでもお前がいるだけで幸せな気持ちになる」
「うくっ、は、やとぉ〜」
ぎゅうっと自分の胸に頭を寄せてきた希子を獄寺は愛おしく思い、その頭を撫でる。
「馬鹿が溜め込むとロクなことがないって言うが、本当だな」
「う、っるさい…!」
泣き声ながらも言葉が返ってきたことに獄寺は笑いながら希子を抱き上げてピアノチェアに座る。希子を膝の上に乗せて。
「オレはな、甘えるってことを知らねえんだ」
腕の中にいる希子を後ろから抱きしめる獄寺の声は少し寂しそうでもあった。
獄寺は甘えるということを知らないのだ。母のことだって知らず、優しいお姉さんだと思って接してきた。知ったのは母が死んでから。それからはずっと1人で誰にも助けを乞うこともせず生きてきた。
そしてやっと信頼できる仲間と初めて愛しいという感情を教えてくれた希子と出会ったのだ。
それでも甘えるということを知らない獄寺には甘えるということがとっても難しかった。仲間にも、希子にでもさえ、だ。
「だからお前がオレに甘えて欲しいって思ってるのを知ってて流してた」
「あーゆう風にバカ演じて甘えやすいようにしてくれてたのも知ってた」
本当は分かっていた。今日だって希子はあんなことを言いながらも本当は自分に甘えて欲しいんだということを。しかし、如何せん甘え方を知らない獄寺にはどうすることもできず受け流してしまった。それが希子を傷付けているとも知らずに。
「それなのに逃げてて悪かった」
膝の上にいる希子をぎゅっと抱きしめ首元に顔をよせて謝る獄寺は小さいこどものようだった。
「んーん、隼人。気にしないで。そんな風に言ってくれただけで十分だから。すっごくうれしかったから。」
希子はお腹の前で交差している腕に手を置き言葉を続けた。
「ワタシこそ、泣いたりして隼人のこと困らせてごめんね」
そんな希子を獄寺は最高に愛おしく思った。これからも大切にしていこうと。

8月10日。
とってもたくさんの愛が育まれた日。