「じゃあ春奈はこの部屋を使ってくれ」
「うん、分かった」
「お休み」
「お休みなさい、お兄ちゃん」
小さな音をたて静かに閉められた扉を見て軽く息を吐く。今までの緊張が一気に抜けた気がした。扉を背にずるずるとその場にへたれこみさっきまでの状況を思い返す。
それはたまたまだった。本当に偶然だったのだ。私の両親が夜、家に居られない日ができたのだ。そしてお兄ちゃんの家も。それを知ったお兄ちゃんは気をきかせて泊まりに来ればいいと言ってくれたのだ。もう私も中学生なのだから一人で大丈夫と思っていたが心細いと心の何処かで思っていて、正直、嬉しかったしほんの少し安心した。両親も私を夜一人にするのが心配だったらしく、お兄ちゃんの家に泊まりに行く事を快く賛成してくれた。
そして今、あてがわれた部屋で寝ようと思っているのだがどうにも寝付けないでいる。私の部屋よりも幾分も大きく広いこの部屋で見慣れない天井とにらめっこしてどのくらい経つだろうか。そして時間が経てば経つほど何だか心細くなっていく気がしてならなかった。
「お兄ちゃん起きてるかな……」
ふと出た私の呟きは暗い静寂に思ったよりも大きく響いた。
さて、お兄ちゃんの部屋の前まで来たはいいがどうしたものか……。長く暗い廊下に立ち目の前にある扉を見つめて考える。いざ来てしまったもののお兄ちゃんはもう寝ているだろうしわざわざ起こすわけにもいかない、かと言ってまたあの広い部屋で一人過ごすのも嫌だし……。そんな考えがグルグル頭の中を無限ループしていると、ふいに扉が開いた。
「春奈……?」
お兄ちゃんだ。いや、お兄ちゃんの部屋から出てくるのだからお兄ちゃんに決まっているのだけれど、いきなりの出来事でびっくりした。
「どうした、こんな夜中に」
「えっと、その、」
「寂しくなったから来ちゃった!」なんて素直に言えなかった。お兄ちゃんに呆れられるのが怖かったし恥ずかしかった。もちろんお兄ちゃんがこんなことで呆れるなんてないと分かっているがそれでも言えなかった。
「……春奈」
「っ、はい」
「実は眠れなくて困っていたんだ、少し話さないか」
「っぇ、う、うん!」
お兄ちゃんが言ったことが嘘だとこの場にいれば誰でも直ぐに分かっただろう。多分自分の部屋の前に何故私がいたのか分かっていてわざわざ嘘をついてくれたのだ。そんなお兄ちゃんの優しさに申し訳なさと同時に嬉しさが込み上げてくる。
お兄ちゃんらしい部屋だな、これが中に入って一番最初に思った事だった。とりあえず私達は並んでベッドに腰掛けた。それからどちらとも喋ることなく沈黙がこの場を支配した。話すことがないわけじゃない、むしろ話したいことがありすぎるのだ。お兄ちゃんと別れてからの数年の間に色々あった。嬉しかった事、悲しかった事、楽しかった事、お兄ちゃんに話したい事がたくさんある。でも色々な気持ちが胸につかえてなんと言えばいいのか分からなかった。それにこの沈黙も気まずいわけでもないので無理に喋らなくてもいいと思えた。
「昔は」
突然に発せられた声は隣にいるお兄ちゃんからだった。
「昔はよく一緒に寝ていたな」
「あー、あの時は一人で寝るのが怖かったから」
「懐かしいな」
「懐かしいね」
「……今はもう平気か?」
「もうお兄ちゃん、私一応中学生なんだけど!……でも今さっきまで心細かった、かな」
「そうか」
「うん……ねぇお兄ちゃん」
「うん?」
「一緒に寝てもいいっ……ですか?」
「あぁ」
緊張で思わず上擦ってしまった問い掛けにお兄ちゃんは日常かけているゴーグルを外した素顔で優しく微笑んでくれた。
「えへへー」
「そんなに嬉しいか」
「うん!お兄ちゃんは嬉しくないの?」
「そんなわけないだろう、嬉しいよ」
もぞもぞと二人でも充分に広いベッドに潜り込みお兄ちゃんに近付く。自然と私の手とお兄ちゃんの手、二人の手が握られる。
「一緒に寝る時はいつもこうやって手繋いでたよね」
「そうだったな」
「お兄ちゃんに手繋いでもらうと安心して眠れたんだ」
言いながらベッドの温かさと繋いだ手の安心感で急激に重くなっていく瞼。もう暫くこの心地よい微睡みの中にいたいが、どうやら限界らしい。
「お休み、春奈」
眠りに落ちる直前に見たのは、幼い頃見た大好きな笑顔だった。
2010/11/02
2011/07/27