>> 戦禍に消ゆる恋 01





  長きに亘る巨人との戦いも遂には終焉を迎えようとしていた。人類が高く聳え立つ城壁の内に暮らすことを強いられてから百と余年。人類の驚異的な快進撃により戦況は一時の絶望が嘘のように人類の勝利に傾きつつあった。この生存戦争の終末を見んが為に、人々は多くの犠牲を払ってきた。家族を、仲間を、恋人を、この戦禍に失った者も多い。一方的に侵略されるばかりだった人間も徐々に壁外にその攻撃の手を伸ばし、今や巨人の絶滅も間近と言われた。次の大規模な掃討作戦で、人類を絶望の淵へと追いやった巨人共を殲滅するのだと指揮官は高らかに宣言する。終わりの見えなかった戦いに疲弊した兵士達も一様に歓喜した。夢にまで見た勝利が、今、目の前まで迫っている。

  エレン・イェーガーは作戦の前夜、眠ることができずにいた。早く寝なければならないと思えば思うほど目が冴えて眠れない。それも当然だった。彼の生きる目的は巨人を残らず駆逐することであり、その目標が明日にでも達成されようというのだ。興奮に身が高ぶったとしても不思議ではない。エレンはじっと息を殺して、巨人を殺す場面を想像する。項を削ぐ瞬間を思う。彼は明日、立体起動装置と共に戦場に赴く。今回の作戦では、必要とされない限り巨人化は抑えるようにと上から伝えられていたからである。エレンは人間として、人類悲願の勝利の瞬間を迎えるのだ。どうにも彼の高揚は収まりそうになかった。


  静かな部屋に、カツンと誰かが地下へ降りてくる音がした。相変わらず彼の居室は地下に置かれたままである。エレンは耳をそばだてる。就寝時間も過ぎた時間に地下へ降りてくることが出来る上、実際それをやってのけるような人間を彼は一人しか知らなかった。

「…エレンよ、起きているか」

  彼の想像に違わず地下に響いた声は上司であるリヴァイのものだった。彼の声はいつもと変わらない。出会ったのはもう随分と前になるが、昔は声がしただけでも恐れていたなと懐かしいことを思い出す。今となっては微笑ましい記憶だ。

「…兵長、どうかなさいましたか」
「…いや、どうせテメェも寝れねぇだろうと思ってな。あのクソ忌々しい巨人も明日全部ブチ殺して終いかと思うと興奮して寝れやしねぇ」

  リヴァイはそう言うとベッドに腰掛け、上官の訪問に際して立ち上がりベッドの脇に立っていたエレンに再び座るよう促す。小さく頷いてエレンは隣に腰を下ろした。リヴァイはそれを見ることもなく遠くをじっと見詰めている。暫くの沈黙が流れた。

「……明日、この戦いが終われば、テメェはどうする気だ、エレン」
「…いえ、考えていません。…明日のことしかもう、考えられないんです」

  俺は単純ですから、と自嘲するように笑った。明日、彼は戦う。明日、巨人がこの世界からいなくなる。明日、この世界に、誰もが望んでやまなかった平穏が訪れる。膝の上で握りしめた拳が震えていた。興奮の為かもしれない。恐れの為かもしれない。それを無表情のままちらりと横目で見るとリヴァイは「成長しねぇな、クソガキ」と呟いた。最早エレンはクソガキと言われるほどの年齢からは脱していたが、いつまでも年齢の差が埋まらないリヴァイからしてみれば、何年経とうともクソガキに違いはなかった。

「…明日でテメェも俺も晴れて自由の身だ。何も巨人を殺し尽くしたっていうのに、上で胡坐掻いてやがる性根の腐った豚野郎共の相手を続ける気はねぇしな。テメェも何したいか考えとけ。…そんだけで、明日も越えられるだろうよ」

  最後の言葉にエレンの表情が歪む。明日の戦いでも、恐らく誰かが死ぬだろう。誰も死なずに勝利するということは現実味を欠いた話だ。エレンもリヴァイも、沢山の死を見てきた。沢山の思いを背負ってきた。幾度仲間の死を間近に見ようと同胞の死を嘆く姿勢に変わりはない。この世から生が消えることを割り切ることが出来るのならば、もっと楽に戦うことが出来たのかもしれない。

「…明日も、過酷な戦いになるんでしょうね、きっと」
「…だろうな。殲滅出来る可能性があるってだけで、何もあのデカブツがあと一匹しか残ってねぇってわけじゃねぇんだ。まだ確認できるだけで十何体か残ってる。それ以外にもいるのかもしれねぇ。…胸クソ悪ぃことだがな」

  リヴァイは忌々しげに眉を顰める。壁外に打って出るようになったからといって、結局の所、正確にどれ程の数の巨人が残っているのかは容易に分かることではない。観察とその結果からの推測によって粗方の残存数が分かる程度だ。元よりどれだけの数の巨人が存在していたのかさえ分からない。だが確実に、巨人が絶滅の一途を辿っているのも事実である。

「でも俺は、明日にでも、巨人を殺し尽くしたいんです。一日でも、早く」

  エレンの目が獰猛に光る。その言葉に微塵も揺らぎはない。

「たりめぇだ。あのクソ共が一秒でも長くこの世で息をしてること自体が許せねぇ。何があっても明日全部ブッ殺す」

  忌々しげに吐き捨てたリヴァイは更に、だが、と付け加えた。両の目が、エレンの金の瞳を捉える。

「…明日で全部終いだと気を抜いてる奴は死ぬ。今までも何度も見てきただろう。油断ってやつは容易に人を殺す」

  その通りだとエレンは首を何度か縦に振る。それに満足げにフンと鼻を鳴らすとリヴァイは立ち上がった。闇に慣れた目が無表情を捉える。どうやら笑っているようだった。


「…死ぬなよ」
「…はい、兵長」

  何をしに来たのだとは問わなかった。ただ顔が見られただけで互いによかったのだ。何か話すことがあって来たわけではないからこれ以上の言葉も要らなかった。明日の作戦は早い。早く寝ろと言い残してリヴァイは地下を去った。エレンは再びベッドに潜る。最後に少しばかり触れた掌の感触を思い出す。戦う人間の手だった。それも明日が過ぎれば必要なくなるのかもしれない。別の仕事をする人間の掌に変わるのかもしれない。想像がつかず吹き出す。エレンは、彼が自分の上司である時以外の姿を知らない。いつでも彼は、兵士長としての立場を崩さなかった。それが余計に想像の邪魔をするのかもしれない。小さく笑って目を閉じる。次に目を開けたら、最後の戦場だ。



  翌日、作戦は定刻通りに開始された。多くの兵が戦場へと駆け出していく。皆必死だった。誰かを守るために。誰かを幸せにするために。様々な思いを抱いて最後の戦場を駆け抜ける。

  それは、作戦実行中のことだった。人目に付かない所でエレンは激しく咳き込み、大量の血を吐いた。吐血の直前まで身体が動いていたのが嘘だったかのように身体に力が入らなくなった。巨人との戦も終盤にかかり、戦況は苛烈を極めているというのに、と唇を噛み締める。唇が切れるほどの力も入らなかった。
  随分と前からエレンは何度か同じ「発作」を起こしている。吐血と共に全身の力が一時的に抜けるのだ。その上、段々と激しい眩暈にも襲われる。立っていることさえままならない。原因は朧気ながらも何となく分かっていた。自身の巨人化する力が身体の負担になっているだろうということは、医学の知識が無くとも容易に判断が付く。毎度圧し掛かる疲労を鑑みれば不思議もないことだ。身体に残る僅かな疲労も蓄積されれば相当の量になる。いずれは身体が悲鳴を上げることになるだろうことなど分かり切ったことだった。最悪、死の予感さえある。ただエレンにとってこの戦は、何としてでも勝利を収めねばならぬ戦いであり、例え死すとも力の限り戦わねばならぬ戦争であった。身体が小刻みに揺れる。彼は決して死を恐れるのではない。幾度となく覚悟した死を恐怖するのではなく、ただ、彼の人の役に立てぬことが悔しいと同時に酷く恐ろしかった。身体が動かなければ彼は足手纏いだ。戦えぬ者を、厳しいと同時に仲間思いである彼の上司が気にかけぬはずはない。少しでも不調を述べればすぐさま戦闘から遠ざけられることは必至だ。それ故にエレンは、不定期に訪れる不調を何としてでも黙っていた。必死に顔色が優れないのを隠し、指先が震えるのを抑え、内臓が悲鳴を上げるのを、奥歯を噛み締めることで耐えた。
  しかしどれだけ周囲に状態を隠そうとも、自身が明らかに弱ってきていたのは知っていた。発作の頻度は徐々に増しそれに比例するように継続時間は長くなった。今まではどうにか人のいない時間に計ったように襲ってきたというのに肝心な時にその法則が崩れてしまうのだからどうしようもない。力の限り拳を握りしめる。剣の柄が滑り落ちてしまいそうだった。脂汗が額を流れ落ちる。不快だった。

  木に凭れた状態で瞬間的に意識を飛ばしていた彼を現実世界に戻したのは作戦を遂行し帰還中のリヴァイだった。途中でエレンが作戦から離脱していたのを知っていたのだ。常ならば想像もつかぬような悲痛な声で呼ぶ名が、自身の名だと認識することさえ儘ならない。聞こえた声にエレンはどうにか力を振り絞り、傾いていた体勢を起こした。耳鳴りがする。リヴァイが目前に着地する頃には再びエレンの意識は飛びかけていた。今回の「発作」は過去に増して強力だなと遠い思考が鈍く回転する。自分が天を向いているのか地に這っているのか、それさえもエレンには分からない。誰が何を叫ぶのかさえ、分からない。

「エレン! しっかりしろ、エレン! クソが、意識飛ばしてんじゃねぇ! テメェが死ぬのはまだ早ぇだろうが! 巨人共は全部ブッ殺したんだ、今更死ぬんじゃねぇよ馬鹿が!」

  エレンは傍らで誰かが何事か叫ぶのを意識の隅で認識しながら、抗いきれずに意識を手放した。途端にバランスを崩し倒れる身体をリヴァイが抱き留める。何時の間にこんなに細くなったのかと服越しでは見えにくい体の変化に舌打ちをした。幾ら鍛えた身体といえども食が細くなり痩せたのでは満足に戦うことも出来ない。全盛の時の状態を体が、頭が、それぞれ覚えている分限界を超えた戦闘をしてしまうのだ。過度の疲労は体のバランスを崩す大きな原因になる。それはエレンの「発作」においても同じことである。刻々と弱る身体に立体起動での戦闘は負担が大きすぎた。巨人との戦闘を引き金に強い「発作」が起きてしまったのだ。それをリヴァイは知らない。何一つとして彼は知らなかった。

「…クソ、オイ、死ぬんじゃねぇぞ、テメェを死なせて堪るか畜生が!」

  唸る様に吐き捨て、気絶したエレンを抱えリヴァイは地面を蹴った。


  エレンは基地に戻るや否や先に戻っていたハンジに引き渡された。巨人化の能力を持つエレンの身体が異常を来した場合は、調査兵団内で最も巨人についての知識を有しているハンジの元に一番に運ぶことが決まっている。幸い医療的な知識もある程度持ち合わせているため、負傷者の処置に忙しい医療班に渡すよりは早急な対応が可能だとリヴァイが判断したのである。

  険しい表情を全く崩さないリヴァイを部屋から追い出し直ぐにエレンの身体を触診と簡易医療器具によって検査したハンジは、気を抜けば自分を責める言葉ばかりを並べようとするのを何とか堪え端的な情報だけを伝える。結果は最悪だった。手の施しようもないほどの状態だった。自分は、彼に、何もできない。何もしてやれない。ハンジは強く拳を握りしめる。定期的とは言えないがそれなりに調べていた自分が何故異変に気付かなかったのか。あれだけ強い能力を使いこなすのに、限りなくノーリスクだと容易にデータを過信した当時の自分が恨めしい。エレンが巨人ではなく人間であることを望むその姿勢を認めたというのに、結局、彼は巨人と人間の狭間で死ぬというのか。ハンジは悔しさに唇を噛み締めた。零れそうな涙を何とか堪える。自分が泣く資格は、無いと思った。

「…今までの仕事のツケだろうね。…保って一ヶ月だ。それ以上は多分、今の状況じゃエレンの身体が耐えられない」


「………そうか」


  リヴァイは変わることなく無表情のままだった。それ以上の言葉など紡げなかった。握った指先は白く変色している。ただ呆然と、外の景色を眺めている。彼は、微動だにしなかった。

「…多分、エレンは知ってるよ、自分の命がそう長くないこと。もしかしたら随分と前から知っていたのかもしれない。あれだけ内臓系の機能が全般的に低下していたら、幾ら鈍感な人間でも不調には気付くだろうから」

  エレンの身体は今まで何事もなく正常に働いていたのが不思議でならないほどに傷んでいた。内臓の殆どがあと少しで機能不全を起こすほどの状態であり、実際幾らか正常に働いていない臓器も見られた。血流も悪く、栄養が行き届いていない上、筋肉は随分と落ちている。随分と細い腕だった。これが戦う者の身体なのかと問いたくなるほどに、その身体は痩せ細っていた。これだけ体の不調が進んでいれば随分と前から異常を感じていたに違いないというのにそれをずっと周囲に隠していたのだ。強い精神力を持っているという評価は伊達じゃないとハンジは唸った。その精神力は無理をして命を削ることに使われるべきではなかったのだ。前途有望な将来の芽を摘み取るための力ではなかった筈なのだ。十五で戦場を駆け始めた少年はこれからの未来を自分自身のために使わねばならなかったというのに、巨人化という特殊かつ強力な力を頼り自分たち大人はその華奢な背にずっと負荷をかけてきたのだ。今更の謝罪は無意味なことかもしれない。だが、子供に幸せを掴んでほしいと思う心は誰しも同じだ。リヴァイは漸く唇を片側だけ引き揚げて笑った。

「……馬鹿は結局直んねぇよ。…死んだってな」


  ―――― 互いに笑えないジョークだった。


  そしてこの日、戦争は終わった。人類は歴史に残る勝利を収めた。街が歓喜に揺れる。積年の悲願は遂に、達成されたのである。
  ―――― その陰に、一人の青年を置き去りにして。




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