>> 冬の掌





年越しを間近に据えた今日この頃、俺は黒羽を自宅に迎えて読書に勤しんでいた。何だかんだ色々あって恋人同士になった俺達は今までの時間を埋め尽くすかのように共に過ごすことが多くなっていた。それでも限界というものはあって、俺が事件の要請で出かけていたり、黒羽にも用事があったりして擦れ違う事も多かった。せめて年末くらいは恋人らしく過ごしたいと、目暮警部に要請を控えてくれるように俺は願い出た。その為、誰に邪魔される事なく俺たちは二人の時間を過ごしている。




俺は読んでいた推理小説を少しだけ浮かせて、下に見える黒羽を覗き見た。黒羽は存外真面目な顔をして俺の膝を枕に英語で書かれた科学雑誌を読んでいる。俺の膝のあたりは不慣れな重さに痛みを訴えているが、仄かな温もりが心地よい。何度もこうして黒羽の顔を眺めているが、肝心の読んでいる推理小説の内容が、全く頭に入ってこなかった。告白してから二カ月と半月。恋心の自覚からも二ヵ月半。俺は未だに二人きりの空間に慣れる事が出来ずにいた。柄にもなく緊張しているのだ。手を繋ぐことでさえ憚られる俺には、自らキスを仕掛けることなど不可能で、それが俺の不安をさらに増幅させていた。今時キスさえもまともに出来ない男がいるだろうか。いや、キスが出来ない訳ではないのだ。肝心な、本気の相手と出来ないのが悪い。俺は不安を振り払うように黒羽に話しかけた。




「…黒羽、重たい」
「…んー…」




聞く耳を持たない黒羽に腹が立って、小説の角で頭を軽く殴ってやった。俺の持っている本はハードカバーだ。当然、叩かれて痛くない訳が無い。黒羽は少し涙目になると痛いと俺を抗議した。残念だが、俺にはコイツの文句など聞く様な耳は持ち合わせていない。




「…何、もしかしてコーヒーの催促?」
「…ブラックな」




溜息を吐いた黒羽は分かりましたよ、と適当に言うと立ち上がった。酷く大人びた広い背。俺の持たないそれは憧れの対象で、そして何より俺が求めた愛しいものだった。見つめる視線に熱が籠るのも無理はない。しかしそれが同時に俺の言いようのない不安を掻き立て、困惑する。俺はもう、この背を手離すことは出来そうにない。手離したら最後、俺が俺でなくなってしまうような気がした。そういえば昔の女が言っていた。恋は人を弱くさせるのだと。そして、人を強くもさせるのだと。それは半分は本当だと最近実感した。黒羽に出会う前の俺は、独りで何だって出来た。恐怖など感じる事が無かった。弱くなったことはよい変化なのかもしれない。俺が無茶をする事が無くなったと。しかし俺はその弱くなった自分をただ享受する事も出来ず、この状況に反し強くなる事も出来ない。中途半端な状態のまま、俺はこの場にとどまる事を、前進しないことを望んでいるのだ。このままでは俺は独りで何もすることが出来なくなると分かっているが、俺にはこの平穏な幸福を手放すことが出来そうになかった。強くなるとは、どういうことなのだろう。俺はこの恋で強くなれた事など何処にも見当たらない。




恋はね、人を弱くもさせるし、強くもさせるの。別れるようになって気付くのよ。幸せだったって。強くなったのよ、私。




女は別れ際にそう言った。鮮明にそのときの映像が俺の脳内に蘇る。女は笑っていた。泣きながら、それでも気丈に笑っていた。俺が黒羽と別れるようになったら、俺はあんな風に強く在れるだろうか。俺はそう思いながら黒羽の背をじっと見つめていた。




「…何、何か付いてた?」
「…あ、いや、何でもねぇよ」




黒羽はマグカップを二つ抱えて帰って来た。ゆらゆらと揺らめく湯気に不安定な内面を重ねた俺は、手を伸ばしてそのカップを受け取る。液体の暖かさを伝えるその温もりに多少安心しながら口を付けると、黒羽が不意に口を開いた。




「…ね、今年は二人で初詣行こうね」
「…は?俺にあの人ごみの中を歩けと言うのか」
「…だってさ、一回も一緒に行った事ないじゃん」
「……わーったよ、行く行く。行きゃいいんだろ」
「…誠意に欠けてる」




ケラケラと楽しそうに黒羽が笑うので、俺も笑った。ソファの俺の隣に座って、黒羽がさり気なく俺の手を握る。そんなものに慣れていない俺は当然動揺して黒羽を見上げるが、当の黒羽は素知らぬ顔だ。それに悔しさを覚えた俺はギュッと強く握り返す。ピクリと黒羽の肩が揺れたのに気付いたが、俺はこの状態で幸せだったので何を言う事もなく黙って手を繋いでいた。それは黒羽も同様だったのか手を繋いだままコーヒーを飲んでいる。このまま、ずっとこのままであればいいと思った。別れなど来なければいいと、そう思った。その時が来たら、俺はきっと別れたくないのだと縋って泣くだろう。体裁など構っていられない、惨めな姿で、未練がましく。




「…俺は、強くなれるだろうか」
「…十分、オマエは強いよ。だって、ちゃんと人に頼れるようになった」
「…頼れるように、…」




頼れるという事は、他人を信頼し、自分を信じられる強さなのだと黒羽は言った。他人を信じてやれる、包容力。独りで戦うよりも、多くの人間で戦った方が有利だ。他人の力を与えられるようになったお前は昔の、一人で立っていた頃よりも強いんだよ。そう黒羽は言うと、笑った。




女は恋によって強くなったと笑った。俺が強くなれたのかどうか定かではないが、少なくとも俺は黒羽という支えを得た。俺は黒羽の愛から抜け出す事など出来そうもなく、また、抜け出そうとも思わない。その愛が、俺の弱さでさえも包み隠してくれるというのならば、俺はこの複雑な迷路のような世界ででも生きていける気がした。来年も、こんな風に笑いあえる事を信じて。俺はこの心地よさに身を委ねることにして、思考を打ち切った。ブラックアウト。黒羽がいればそれでいい。目を閉じて、笑った。




 


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