※こちらは2010年に出したコピー本のweb版です。 君のてのひらの熱さを覚えている 目を閉じると、まるで昨日のことのように鮮明に思い出す。 広い荒野で、自分はいつも一人ぼっちだった。自分が他とは違う存在だということは何となく認識していたけれど、具体的にどう違うのか、それはよく判っていなかった。 そんな時、彼――イギリスに出会った。いや、出会ったというには少々語弊がある。彼はフランスやフィンランドと共に荒野に現れて、ニヨニヨと気持ちの悪い笑みを浮かべて近づいてきた。思わず逃げてしまったけど、彼らは何度も自分の元へやってきては、何かしら話しかけてきた。 そのうち、彼らは自分と同じ存在であると理解した。世界を構成する「国」が人の形として具現したものだということを。 彼の何に惹かれたのか、実はよくわからない。イギリスの草むらを抜けてくる行動は怪しいとしかいえなかったし、料理はまずいときた。一緒に不思議の扉を開こうと言われたときは恐ろしくて泣いてしまった。フランスの方が料理は美味しかったし、よっぽどまともだったように思える。 ただ、強い衝動がこみ上げて、そうしなければならないと思った。今にしてみると、すでに根底にはそれが芽生えていて、そう思わせたのかもしれない。 だから、彼に望まれたとき、迷わず手を取り、イギリスの弟となった。 それから、自分の生活は一変した。それまでの草むらなどで眠る生活から、家を作り、生活するということを教えてくれた。一人ぼっちで原野に現れる動物たちを友達として気ままに暮らしてきた生き方が、180度変わった。 イギリスは、忙しいにも関わらず幾度となく新大陸にやってきては、そのたびに自分をとても可愛がってくれた。惜しみなく愛情を注がれ、抱きしめられて、そんな彼の腕の中にいると安心してすぐ眠ってしまった。 あの頃のことは、口でなんと言おうと幸せな日々だった。彼と出会ったことは深く大きく、思い出として残る記憶はなにものにも変えることのできない大切なものだ。 そういうものだと、失くしてから初めて気がつく。 腕時計を確認すると、針は夕食の時間を少し過ぎたところだった。もともと日の入りの早いロンドンだ、窓から外を見ると、辺りはすっかり暗くなって街灯が灯りはじめている。 世界会議の初日。定刻通りに始められたことなど数えるほどしかなく、定刻から1時間過ぎて開始したものの、いざ始まってみれば各国の主張ばかりで話がまとまらず、今回提案された事項は、翌日に持ち越されることになった。 ヨーロッパや亜細亜の連中が留まって談笑をする中、アメリカはひとつあくびをして出口へと向かう。普段なら日本に声を掛けてディナーへと繰り出すところだが、今日はひどく眠い。たかが数時間とはいえ珍しく時差ぼけをしたようだ。 回廊を歩きながらふと目に入る装飾。ゴテゴテと無駄に主張する豪奢なそれらは、いかにも彼の好きそうな趣味だと思う。無駄としか思えない飾りのついた出入り口の扉を開けて、階段を下りていると、突然、強い風がアメリカの身体を直撃した。 「――うう、ロンドンの夜は寒すぎるんだぞ!」 愛用のフライトジャケットの両ポケットに手を突っ込み、身を竦めるようにして冷たい風をしのぐ。外気に触れた息が白く、夜の帳に消えていった。 それをなんとなく追いかけていると、背中にぼすんという音を立てて何かぶつかってきた。アメリカはたたらを踏んで振り返る。しかし、それより早く聞きなれた声が響いた。 「危ないだろアメリカ、こんなところで立ち止まるなよ」 「あれイギリス? どうしたんだい?」 「どうしたもこうしたも、明日も会議なんだからとっとと帰るに決まっているだろ」 「へぇ、珍しいね。いつものごとく欧州の古臭い集まりがあるんじゃないのかい? 君んところは本当に群れるのが大好きだからね!」 本当に力を入れて告げると、あからさまにイギリスはムッとした表情をした。 「古臭いは余計だ」 「あ、誘われなかったんだね。俺も君の酒癖の悪さはどうにかした方がいいと思うよ」 「ちげーよ! 今日は予定が合わな…ていうか酒癖は今関係ないだろばかぁ!」 「ハハハ」 「何がおかしいんだよ、殴られるか?」 「理不尽すぎやしないかい、それ」 「お前にはそれくらいがちょうどいいんだよ」 言いながらも特に何をするでもなく、イギリスはするりとアメリカの横を通り抜けていった。 そこにとどまる理由はなく方向も同じだったので、アメリカもそれに倣いしばらく黙々とイギリスの後を歩いていたが、ブーツの底で氷を踏みしめた音を合図に口を開いた。 「――君んとこって相変わらず寒いんだね」 「……そうか? お前んとこの方が寒いだろ」 特に反応がないかと思えば、ちゃんと聞いていたらしくイギリスは言葉を返してくれる。それに気を良くして、アメリカは歩幅を広げて彼の横に並んだ。 「でもさ、こんな時期からほら、もう氷が張ってるよ」 歩きながらぴょんぴょんと飛び跳ねて氷をバリバリと割る。面白いほどによく割れた。イギリスは小さくふっ、と自嘲的に笑う。 「異常気象だからな。暑かったり寒かったり……一体どうな っているんだろうな」 「だからさー、ヒーローに氷を」 「実現不可能なことを軽々しく言うな」 「なんでだい! ヒーローに不可能は」 「あーはいはい、俺は協力しないから頑張れよ」 あからさまに投げやりなイギリスの態度にムカっとくる。大体いつもイギリスは人の話を最後まで聞かない。ここで「頑張れよ、応援してる」くらいの言葉でもあれば、……そんなのはイギリスじゃないけどさ。 「ついでに日本にも迷惑は絶対かけるなよ」 行動を先読みして、イギリスはぴしゃりと言い放った。 本当に可愛げのない。どうして、俺はこんな人を好きなんだろうな。しかもなんだい、いくら仲がいいからって日本日本って…。 「ふーん…ついでなのかい?」 いつもなら軽く流すところだが、寝不足からいつもの反応が返せず、思わず声のトーンが下がる。 「ば、言葉のアヤだ! お前いっつも日本に迷惑かけて――お、わっ」 慌てて否定したんだろう。その瞬間、足元への注意が疎かになったイギリスは思いっきり足を滑らせて、重心が後ろへと移る様が、まるでスローモーション映像かのように見えた。 「イギリスっ!」 実際は一瞬のことで、アメリカは考えるよりも先に手を伸ばし、巻き込まれるようにバランスを崩して一緒に倒れこんだ。ゴンッと激しい音がして、目の前が真っ暗になる。頭の中がぐらぐらして、目を開けているのか閉じているのかよくわからない。 しばらくぎゅっと目をつむり、そろそろとまぶたを上げると、今度はぼんやりしながらも視界が戻った。どうやら軽く脳震盪を起こしていたようだ。 「いてて……イギリス、大丈夫かい?」 腕の中の彼を解放して、思い切りぶつけた側頭部をさすりながら起き上がる。ぺたんと座り込んだ彼の顔を覗き込むようにしながら、手を差し伸べた。 「!」 とくに意識もせず、なんとなくの行動だった。 しかし、差し伸べた手を思いっきり振り払われて、アメリカは呆然と払いのけられた手のひらを見た。 手袋越しでもびりびり伝わる痛み。相当強い力で払われたなぁと他人事のように思った。 ひとしきり手を握ったり開いたりしてから、顔を彼に向けると、驚くほど鋭い視線とぶつかった。 「……イギリス?」 「なんで助けんだよ」 彼は言いながら舌打ちをしてぎゅっと眉間に皺を寄せる。 「ここ、どこだ。俺はさっきまでヨークタウンにいて――」 一際苦しそうに表情をゆがめたので、イギリスの方に手をやると、やんわりと押し返された。 「君、頭大丈夫かい? ヨークタウンって…ここはロンドンだよ」 釈然としなかったが、何か言うのも憚られて思ったことを喉の奥に押し込み、いつものようにからかう。 てっきり自分大好きなお前と一緒にするなという悪態が返ってくるかと思えば、そんなことはなく、彼はだんまりと俯いた。 どこか変だと思った。どこがどうとははっきりしないが、彼がイギリスではないような、彼は今目の前にいて、そんなはずなどないのに。 アメリカはイギリスの腕を掴み無理やり立たせる。そうすることで、このなんともいえない嫌な感じを払拭したかったのに、無情にも再び振り払われた。 「イ、イギリス、一体何に怒っているんだい」 普段と違う態度が、アメリカをためらわせる。 もう彼のことも何もかも、ホラー映像以外には恐怖を感じなくなって久しいというのに、目の前にいる彼からは異様な覇気が感じられた。 いつも不機嫌そうな表情をしているけれど、実際は照れているだけで機嫌は悪くない。たまに頭のおかしくなることがあるけれど、それを除けばもうずっと変わらない――ずっと変わらない? ふと既視感を覚えて、脳内にある数多くの引き出しを開け閉めし、己の記憶を探る。なんだったか、最近の話ではない。自分がアメリカだという意識を持ってから。 「……っ」 そうしてある記憶にたどり着いて、アメリカは息を飲む。 やっぱり既視感などではなかったのだ。けれどこの記憶を思い出してひどく後悔した。 一生思い出したくないと記憶の奥底に沈めて、泣いてしまわないようにと厳重にフタをしたあの記憶。 幼い頃、温かな彼の腕に抱かれながら色々な話を聞いた。未開拓の草原の先に広がる海を見ながら、彼の国の話を聞くのが大好きだった。その視線がふいに冷めていくのを見て、理由を知りたいと思った。大きくなったら嬉しいとの問いに笑顔で頷いてくれた彼を、守りたいと思った。 そのための自由が欲しかった。 「イギ……リス」 緊張や焦りなどが合さって、喉がカラカラに渇く。少しでも喉を潤すため生つばを飲み込もうとしたけれど、何度繰り返してもうまくいかなかった。一体、いつ、なぜ。思いつく限りの問いかけが脳内を駆け巡る。 だって、これは、このイギリスは。 「……今日は、……西暦何年の何月、何日だい?」 ◇ 「記憶が失われている!?」 「ええ、正確には高次脳機能障害――部分健忘とでもいいましょうか。一般的な生活には支障はないでしょうが、今のイギリスさんはイギリス、つまり国だということは理解していますが、記憶がある一定のものだけしか残っていないようです」 おかしなイギリスを無理やり引っ張り、会議室まで戻ってきたのは正解だった。フランスがいたのは予定外だが、日本は努めて冷静に、今のイギリスを診断する。 ボソボソと話すのは面倒だったが、彼に聞かれるほうがやっかいなことになるという二人の言葉に仕方なく付き合った。 「アメリカさん、イギリスさんは転んでからああなったのですよね?」 日本の疑問にアメリカは大きく頷く。 「それまでは普通だったし、君らも見たとおりさ。考えられるとしたらあの転んだ瞬間としかオレには思い当たらないよ!」 「ではやっぱり外傷的な―」 「日本、話の腰を折って悪いが、つまり何か、今の坊ちゃんはどうやって大きくなったとかそういったことも残っていないってこと?」 「そう、ですね、おそらく……」 「そうなのか。おーいイギリス〜お前の育て親のフランスだぞー?」 「フ、フランスさん…違います、イギリスさんは」 彼の焦った声はフランスの声にかき消され、ああああと日本は顔を青ざめさせた。日本ってよくこの言葉を口にするけどどういう意味なんだろう。完全に傍観者の立場でアメリカはそんなことを思った。日本からすればアメリカさんこそ何かあるとOHとかAhとか言うのに……という反論するだろうが、それは残念ながらアメリカの耳には届かない。 「黙れイタリア2号機。なんだその髭気持ち悪い、抜いてやろうか」 イギリスは汚いものでも見るような蔑んだ目をフランスに向けて、露骨に敵意を表した。 「…日本、俺には普段と変わらないように見えるんだけど」 胡乱な眼差しをイギリスに向けながら、フランスは日本に訴えると、日本は困ったように眉を下げる。 「ええっと、ですから、その……私も専門ではありませんので、きちんとお医者さんに見てもらうまでは憶測でしかありませんが、先にも申した通り、記憶が一定のものだけしか残っていないようでして、それが、その」 日本は一度言葉を切って、アメリカに視線をやった。それが意味することなどわかるわけがない。 アメリカは構わず話を促すと、言いにくそうに口を開いた。 「イギリスさんの記憶は、その……アメリカさんとの独立戦争付近のものだけ残っているように見受けられます」 「っ……!」 呼吸ができず、息がつまるような感覚にアメリカは跳ね起きた。辺りを見渡して、見慣れた自室の風景に夢だったと認識する。 じっとりと額や首周りにまとわりつく汗が不快感を催し、思わずイライラと舌打ちをした。 しかし、そうしたところで何か変わるわけではないということは嫌というほど分かっていたので、汗に濡れた髪をかき上げてため息をつく。 ここのところほぼ毎日のように同じような夢を見ていた。イギリスが記憶を失くし、会えばアメリカのことを罵り、記憶喪失だという事実に不便はないのだからと現実に向き合おうとしない夢――だったらよかったのに。 それは紛れもなく現実にあったことで、イギリスが記憶を失くしたという日から、もう何週間も経っていた。その間ずっと同じような場面の夢を繰り返し、毎夜アメリカを苛ませる。 おかげでよく眠れない日々が続いていた。ヒーローたるものらしくないとは思ったが、日常ではなんともないという風に振舞っているせいか、夢までは制御できなかった。 再びため息をついて時計を確認する。 「まだ朝の5時じゃないか……」 うんざりと独りごちて、仰向けに倒れる。ボスンと音を立てて枕がアメリカの頭を受け止めた。 瞳を閉じると、浮かぶのはイギリスの顔。 『まーたそんなもんばっかり食って! お前最近冗談じゃないく太ってきただろ、このメタボ!』 『なっ、メタボってひどいじゃないか! 俺のどこがメタボだっていうんだい! あ、わかったぞ! そんなこと言って実は君も欲しいだけだろう? でもやーなこった! そんなこと言う人にはあげないんだぞ』 一息に言えば、イギリスはため息をついた。その様子を手元に持った残りのハンバーガーを咀嚼しながら見ていると、イギリスはさらにため息を深くする。 『お前なぁ……あー…いい、せめてよく噛め、そして野菜も食え。あとメタボは嘘じゃないだろ……うお、なんだよこれ』 『ふぁめふぇふへほー、……シャツが伸びるじゃないか』 『そういう問題じゃねぇ! なんだこの腹の肉』 『おしゃれ』 『そういうこともいえるようになったのか、成長したなアメリカ……とでも言うと思ったかー!』 『いた、いたいいたい引っ張らないでくれよ! 暴力反対なんだぞ! 君こそ紳士なんて嘘じゃないか!』 『英国紳士とは俺のための言葉だ。後でテストに出すからな』 「……一体なんのテストなんだい、それ」 アメリカはこみ上げる笑いを吐息で逃がして、両手を顔の上でクロスさせた。 思い返せば笑うことができる。楽しかった頃の記憶を思い出して、それを彼にも伝えればいい。 辛辣な態度をとるイギリスだってイギリスだ。以前のイギリスに戻ったと思えば、耐えられないことも……。 「ないはずなのに」 こみ上げるこの思いは一体何なんだろう。つらい、悲しい、寂しい、切ない、好き、愛してる、感情という感情がごちゃまぜになって俺を責めるように襲いかかる。分かっていても受け入れられなかった。 会いたい、でも会いたくない。イギリスが、アメリカの持つ一番辛い頃の記憶と同じ反応をするのを見るのが怖い。 「……俺は一体どうしたらいいんだい?」 ◇ 「なぁ、アメリカ。今日お前ん家泊まってもいいか?」 連合会議の最終日。ようやくこの微妙な空気から開放されると思っていたのに、その原因――イギリスから声を掛けられた。 「……なんで?」 思わず憮然とした声になる。この会議は主催国であることに加えて、連日の夢のせいで精神的にも疲れきっていて、アメリカにはこのイギリスを相手にする余裕がなかったからだ。 「あーいーじゃん! 確か坊ちゃんとこ今週ずっとひどい雨だもんな、いくらなんでも帰れないだろ、一泊くらいしていけばいいよ、な、アメリカ!」 念押しするように畳み掛けるフランスに、胡乱な眼差しを送る。バチンとウインクされたが意味がわからないし気色悪いだけだ。 そうはっきり告げると、フランスは軽口を叩きながら俺を部屋の外へと導く。 「チャンスじゃないか」 「何が」 「何がじゃねーよ! アイツ、記憶がある時はよくお前ん家行ってたんだから何か思い出すきっかけがあるかもしれねーだろ」 「ああ、うん、そうだね」 「ああ、うんって、反応薄いな…最初はあんなに張り切っていたじゃないか」 そう、フランスの言うとおり、最初は悪い夢を見ているとか演技しているだけじゃないのかと思って、普段通りに接してみた。でもイギリスから返ってくるのはトゲトゲしく、冷たい言葉ばかりで、当時もこんな風だっただろうかと疑ったくらいだ。 イギリスが記憶を失くす前も、ケンカばかりしていたけれど、それでも嫌なものではなかった。そのギャップがあまりにも激しくて、もうダメかもしれないとアメリカは諦めかけていた。 イギリスの方もそれを察してか、最近は必要最低限近づいてこなくなった。なのにどうして今このタイミングなんだ。 「アメリカ、お前が諦めたらそこで終わりだろ」 フランスの言葉に、思わず俯いていた顔を上げた。真意を探ろうと視線を合わせると、軽く胸に拳を当てられる。 「お前はもっと諦めの悪い奴だと思っていたんだけどな、俺の見込み違いか? お前が諦めるなら、俺が本気で取りにいくぜ」 「なっ……」 にわかには信じられない言葉に目を丸くする。 衝撃の事実に呆然としていると、アメリカの反応を見たフランスは唐突に唇を震わせ、そっとアメリカから視線を逸らして目線を伏せた。 いきなり吹き出され、アメリカはムカついて、キッとフランスを睨む。 「いや……悪い、ちょっとからかってやろうと思ったのに予想以上の反応すんじゃねーよ。冗談に決まってんだろ、あんな眉毛、こっちから願い下げだね! しっかしお前…」 ――可愛いな。などとほざいてあろうことかフランスの方が身長低いくせに、腕を伸ばして頭を撫でてきた。 「……なっ……」 「いやーお兄さんギャップに弱いんだよねー」 「フランス……今すぐこの手を引っ込めないと、侮辱罪で訴訟を起こした上に、腹に風穴開けるんだぞ」 「おっと、それは勘弁」 言うが早いか飛び去るように後方へと下がる。 その様子はとても悪びれている風には見えず、やっぱり風穴開けておくか、と思案しているとポンと肩を叩かれた。 「記憶が失くなったといっても、全部を忘れたわけじゃないんだ。どこかから必ず解決の糸口は見つかる。それに辛いのはお前だけじゃない、それを忘れるなよ」 じゃあな、と去っていくフランスを目の端に入れながら、アメリカはこの先どうしたらいいんだ、と途方に暮れた。 「そんなところで突っ立っていないで座ったらどうだい?」 初めて来たわけでもあるまいし――そう思ってからこのイギリスは初めてになるのか、と落ち着かない様子を見せるイギリスを見ながら思う。 アメリカの言葉に頷き、イギリスはリビングの中央に置いてあるソファーセットの片隅に腰を下ろした。アメリカも同様に、イギリスの向かい側に座ろうとして、イギリスの顔をちらりと盗み見る。 当たり前だけど何百年も変わらない綺麗な瞳に、記憶喪失などというのは冗談なのではないのかと錯覚に陥りそうになる。 ふと視線が絡みあって、イギリスが口を開こうとしたので、それを遮るように、立ち上がった。 「何か飲み物でも出すよ。コーヒーしかないけど」 アメリカはイギリスが文句しか言わないと分かっていたので、彼の返事を待たずにキッチンへと向かった。 先日手に入れた、最上の豆。どうせすぐなくなるだろうと多めに挽いたので、残ったものを保存していたはずだ。 準備をしながら、イギリスはどうしているのかとリビングをちらりと覗く。 おとなしく座っているかと思えば、彼は部屋の中をうろつき、サイドボードに置いてある物に手を伸ばした。 それを見て、アメリカは飛び上がる。 「イイイイイギリース!」 「あ?」 彼が振り向いた瞬間を狙って、アメリカは素早く手の中のものを奪い取った。うまくいった! と思ったのもつかの間。イギリスは表情を変えずにアメリカに足払いをして、避ける術もなくその場に派手な音を立てて転んだ。 「アメリカ、コーヒーはどうしたんだ?」 平然とした口調でたずねるイギリスからは、独立戦争時のとげとげしさはないものの、例えるならばそう、フランスと接する時のような底意地の悪さを感じる。 「何するんだい!? テキサスが壊れたらどーするんだい!?」 「テキサス? さぁな、俺の知ったことではないな。これがどうかしたのか?」 手のひらにちょこんと乗るおもちゃ。それはイギリスの手を離れて宙で一回転し、吸い込まれるように彼の手の中に戻る。うまくアメリカの手中に収めたというのに、一体どういう手を使ったのか奪い取られていたらしい。なんて手癖の悪い。 「な、何でもないんだぞ。それは古いもので高いから……」 焦りを気取られぬよう平然を装うが、イギリスはそれをことごとくぶち壊す。 「確かに。ブリキの兵隊にしてはとてもいい品だ。さすがイングランド製だな」 「!? い、イギリス、まさか思い出して……っ」 「ここにイングランドのマークが刻まれている。そうか、やっぱり俺がお前にやったやつなのか」 彼の言葉にしまったという思いと、やっぱりという諦念を感じた。 「これ、いつお前にやったんだ?」 何気ないイギリスの言葉に、心臓がドクリと音を立てる。それがやけに大きく感じて、まるで眩暈でもしたかのように一瞬視界がぐらついた。 「…さぁ、いつだったかな。忘れたよ」 「ふーん……あとさ、さっきから疑問に感じてたんだけどよ、お前、眼鏡なんてかけていたか? そんなに目、悪くなかっただろ」 イギリスの顔をして、彼なら知っていることをいとも簡単に言ってのける。もう、限界だった。なんでもないことのように言ってくるこのイギリスの態度も相手も。 アメリカはイギリスの手首を掴むとソファーへと押しつけるように勢いよく押し倒した。 「痛ッ……! 何をっ……アメリカ、離せ!」 「……返してくれ」 「……は?」 「返してくれと言っているんだ、イギリスを」 「何言ってんだ? 俺はイギリス――」 「違う!!」 「違わねぇよ!」 「じゃあ何で覚えていないんだい! あのブリキのおもちゃは君が俺に作ってくれたやつだ! 手を傷だらけにして、俺に作ってくれたんだろう! 眼鏡だって君から独立した後に掛けたんだ! やっと君と同じ目線で物を見て、対等な関係になれるという決意を込めて、すっかりアメリカの一部になっちまったなって言ってくれたじゃないか! なのにっ……」 押さえつけている手首に力を込めた。イギリスは一瞬だけ痛みに顔を歪める。 「ねぇ、思い出してくれよ」 俺は覚えているよ、君の笑った顔も、怒った顔も、これまで君と培ってきた日々を忘れたことなど一度もない。 「俺は今でも君のてのひらの熱さを……」 自然と涙が溢れて、イギリスの頬にぽたりと落ちた。 →続き |