秘め事

 ぼんやりと胆沢の屋敷から外を眺めていた阿弖流為。夕焼けが顔を赤く染める。
 夕焼けを見ると、決まって佳奈の笑顔を思い出す。夕日は頬を赤く染め上げて笑う佳奈のように優しい。
 だが、この鉢巻きの紅、決意の紅とは違う。同じ色でも対極にいる。勇猛な蝦夷の色。修羅の道を行く、血の色のように。
「阿弖流為さま。母礼どのがお見えになられましたぞ」
 飛良手が知らせに来て、阿弖流為は我に返った。振り返ると、飛良手の隣に母礼がいた。思わず表情が歪んだ。
「母礼!」
「何だ。変なものを見たように人の顔を見るな」
 母礼は阿弖流為の目の前にどっかりと腰を下ろした。
「す、すまぬ」
 佳奈の事を想っていたなどとバレたら、母礼に笑われると思い、それだけは嫌だった。それが表情を歪ませた。
「こう平和だからこそ、そんな顔も出来るのだろうな」
 母礼は笑った。
 ここ何年かは戦もなく、東和での鍛練以外はのんびりと過ごしていた。
「だが、こんな時間に訪ねて何用だ?」
「いや、何、一人で飲んでもつまらなかろうと思ってな」
 そう言って母礼はさっき飛良手が持って来てくれていた酒の入った瓶子を手に持った。
 そんな事でわざわざ訪ねたのかと、何だか緩んでいるのは母礼の方だと阿弖流為は思った。
「ほれ」
 母礼が杯を差し出す。
「ああ」
 阿弖流為は嬉しそうに杯を受け取った。母礼には言った事はないが、こうやって二人で酒を酌み交わす時が好きだった。
 阿弖流為は酒を注ぐ母礼の顔色を窺いながら、尋ねた。
「佳奈は、元気か?」
 母礼がちらりと阿弖流為を見た。
「そんなに気にしているなら、会いに行けばよかろう?」
 そして注いだ酒を一気に飲み干した。
 うっ、と阿弖流為は怯んだ。 佳奈に対して自分の気持ちをはっきりさせない阿弖流為。周囲からはその態度を見ていれば、佳奈が好きだと一目瞭然だったが阿弖流為自身はそれに気付いていない。
 また母礼は酒を注ぐ。
(だから俺も、こうして会いに来ていると言うのに……)
 呆れる母礼。
「か、佳奈が会いたがっているかどうか分からぬし……」
 口ごもる阿弖流為。そして酒を一気に飲んだ。
「会いたいに決まっておる」
 母礼はきっぱりと言い放った。
(そう、俺が)
 阿弖流為を見てそう言ってしまいたかった。
 それは、遠回しの告白。
 だが、それに阿弖流為は気付けないだろうなと思った。
 阿弖流為は顔を赤くしていた。酒が入ったせいもあるだろうが、明らかに精神的なものだった。
(阿弖流為。俺は、そなたが好きだ!)
 母礼は心の中で叫ぶ。
 酒の勢いにまかせて言ってしまえばこの辛い気持ちは少しは楽になるだろうか?
 だが、阿弖流為の反応が怖い。もしも軽蔑されてしまったら、と考えるとそれは死より恐ろしい。
「また戦が始まれば、互いに辛くなる。そんな思いはしたくない」
 ぽつりと阿弖流為は呟いた。 酔っているのか。それは佳奈を愛していると言っていたも同前。
 愛するが故に離れる辛さ。
 母礼の手が止まった。
(ならば、こんなに近くにいてそなたを想う俺はどうなる!)
 落ちた杯が音を立てた。
「どうした? 母……──」
 阿弖流為はそれ以上言えなかった。抱き締めてきた母礼に遮られてしまった。突然の事で戸惑いよりも驚きの方が勝っていた。母礼の膂力は阿弖流為の思った以上に力強い。段々苦しくなってきた。
「母礼、苦し……」
 それでも母礼は放さなかった。
「……阿弖流為……」
 ずっとこうして抱き締めていたい。母礼は願った。
 初めて自分の気持ちに気付いた時、阿弖流為は男なのにと思った。
 別に女が嫌いな訳ではない。
 黒石の女達は「母礼さま」と口々に寄ってくる。皆可愛らしい。だが、中には地位目当てで近付く女もいた。しつこく纏わり付く女に嫌気がさし、いつしか女を見なくなった。
 そんな時に現れたのが阿弖流為だった。
 久し振りに見た阿弖流為は大きく成長していて、それでいて18にしては何処か幼なかった。
 純粋無垢な阿弖流為。
 心が揺れた。
 全てに惹かれた。
 魅力がある者には誰しもが惹かれるように、だから男とかだとは関係ないと思った。
「母礼!」
 阿弖流為が怒鳴るように叫ぶと、母礼はやっと体を放した。阿弖流為の顔は真っ赤だった。
「からかうのは、やめろ……」
 小さな、か細い声。
 締め付けられる心。
「……っはは、すまぬすまぬ。まあ、佳奈にもこうやって抱き締めてやれ」
 母礼は、空笑いしながら言った。阿弖流為が驚いたと呆れる。
(……やはり、言えぬ)
 母礼は落ち込んだ。
 想いを告げたらきっと、阿弖流為はどうしたらいいか分からなくて悩み込み、苦しめてしまう。そんな思いをさせるくらいだったら言わない方がいい。
「ん、厠へ行って来る」
 母礼は立ち上がって部屋を出て行った。
 阿弖流為は母礼がいなくなってからも、妙に落ち着かなくて鼓動の高鳴りが治まらない。
「母礼の馬鹿野郎」
 母礼にドキドキしてしまった自分が恥ずかしくなった。母礼はからかっていただけだろうが、それがあまりにも度を越して熱い何かが伝わってきた。決して見破る事の出来ないものなんだと。
「馬鹿」
 もう一度口にすると、気を紛れさせようと酒を飲み続けた。

 母礼が厠から出てくると、柱の横に飛良手が立っていた。
「お、飛良手。そなたも一緒に飲まぬか?」
「いえ。母礼どのの心中を知りながらではとても……」
 飛良手の言葉に母礼は凍り付いた。どうして飛良手がそんな事を言い出すのか、あの場面を見られた以外にはない。まさか見られていたとは迂闊だった。
「母礼どの。阿弖流為さまは佳奈どのに」
「言うな飛良手。分かっている。自分でも愚かだと思っているさ」
 阿弖流為は佳奈が好きで、佳奈も阿弖流為が好きなのは重々承知している。兄として佳奈の幸せを思えば何よりも嬉しい事だった。自分が阿弖流為さえ愛していなければ。
「可笑しいだろう? 俺が阿弖流為を女のように好いているなど」
「母礼どの……」
 自嘲する母礼を飛良手は痛いほど悲しみを察した。
 飛良手も阿弖流為を好いていたが、それは主君、人間として尊敬しているからで、恋愛感情はない。しかし母礼はその一線を越えてしまった。
「だが安心しろ。二人を悲しませるような真似はせぬ」
 本気で阿弖流為を想っているからこそ、阿弖流為の為を想って身を引く。佳奈の為にも。
「母礼どのは、それで良いのですか」
 頷く母礼。それ以上、飛良手も何も言えなかった。
「あまり阿弖流為を待たせては悪いな」
 そう行って母礼は戻って行った。
 飛良手は暫く佇んで思い耽った。
(男女なれば、この上ない夫婦になったであったろうに)
 ただ哀れみ惜しんだ。

 飛良手との会話を払拭しつつ、母礼は部屋の戸を開けた。
「待たせてすまぬな、阿弖流為」
 明るく努めた声に、返事はない。当の阿弖流為は酔い潰れたらしく、寝息を立てていた。拍子抜けしてしまったが、かえってこの方がよかったかも知れない。静かに隣に腰を下ろして阿弖流為の寝顔を眺めた。
「ん?」
 酒が残り少ない。阿弖流為がほぼ飲み尽くしていた。酔い潰れる訳である。飛良手におかわりを持って来てもらおうかと、残りの酒を飲み干した。
「……ふふ……母礼」
 急に阿弖流為が笑った。楽しい夢でも見ているのだろうと、微笑ましくも、その名が自分である事に胸が痛んだ。夢の中でしか、阿弖流為の中にいられない。
「阿弖流為。夢の中の俺は、笑っていられているか……?」
 母礼はそっと阿弖流為の頬を撫でた。触れた部分に溶け合う体温が温かい。
「そなたも俺も、アラハバキに宿命付けられていたのだったな」
 初めから、変わらない、変えられない事。
 それでも。
「俺はそなたを想っていて、良いだろう?」
 胸に秘めたまま、
 死ぬまで、
 ずっと。

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