蝦夷と蔑まれ、朝廷に蹂躙される陸奥。そのやり場のない怒りは堪えているに過ぎない。いつか、平和が訪れると信じて。
陸奥はもうすっかり春を迎えていた。胆沢も草木が生い茂り、花が美しく咲き誇る。
阿弖流為は一人眺めの良い丘で昼寝をしていた。
朝廷軍が嫌がらせにいつ攻めて来てもおかしくない。なのに一人でいるのは無用心だった。
だが、今の阿弖流為には関係なかった。春の日差しにウトウトしていた。
「阿弖流為さま〜」
遠くからの呼び声に阿弖流為は顔を上げた。見ると、馬に乗った人がこちらへ近付いて来る。遠くて顔は確認出来なかったが、誰だか大体予想はついていた。
「阿弖流為さま!」
やっと見付けて安堵の声をしたのは、やはり飛良手だった。馬から飛び降り、阿弖流為の元へ駆け寄る。
「どうした? そんなに慌てて」
「姿が見られぬと、母礼どのが心配されておりました故、探しに参りました」
阿弖流為は飛良手と黒石の母礼の所へ来ていたのだが、阿弖流為が急に姿を消していた。
「母礼は心配性だな。一人でゆっくり昼寝も出来ん」
阿弖流為は呆れて笑みを零した。だが、それは母礼と言うより飛良手に向けた笑みであった。
実際、一番心配していたのは飛良手の方である。隠し切れずに顔に出ているのだ。
「母礼には言うなよ。昼寝などと叱られる」
「昼寝なら、屋敷の中でも」
飛良手が言うと、阿弖流為は立ち上がった。
「此処でする昼寝は格別だ。嫌な事も忘れてしまう。戦の事すら……」
僅かに視線を落とした阿弖流為。
すると飛良手が釘を刺した。
「阿弖流為さまはいずれ蝦夷を一つに纏めるお人になりますぞ。万が一何かあった時では遅い故、自覚して頂きたい」
阿弖流為は飛良手に背を向けた。遠くを見つめるように景色を眺める。陸奥の自然はただ壮大に人々を包み込む。
「……分かっている」
少しの間の後、阿弖流為はやっと口を開いた。
分かっている。
果たして自分は何を分かっているのだろうか。
(俺は何も分からぬ)
出来れば鮮麻呂に直接会って質したい。
朝廷に刃向かい戦をして、本当に蝦夷が平和に暮らせる日がくるのか。
「……阿弖流為さま?」
飛良手の呼び掛けに阿弖流為は、飛んでいた意識が引き戻された。
「母礼が心配しているんだったな。屋敷へ戻ろう」
阿弖流為は踵を返し、近くに休ませていた自分の馬に飛び乗った。
(……俺は馬鹿野郎だ)
一週間前、初めての戦を体験した。自然と怖くはなかった。初めての気がしなかったのだ。だが、今になって少し弱気になってしまった。これから戦ばかりが続くのかと。
それは一時の気の迷いに過ぎない。
阿弖流為は急に振り返って後方にいた飛良手に言った。
「飛良手。屋敷まで俺と競え!」
「喜んで!」
飛良手も阿弖流為の挑発にのり、二人は馬を走らせた。腹を蹴る足に力が入る。
(我らには誇りがある!
蝦夷の誇りは決して揺るがぬ!)
それは、母なる大地、アラハバキの神のように。
阿弖流為は改めて確信した。
駆け抜ける馬の足音を伝い、鼓動が大地と呼応する。
分からなければ、知ればいい。
黒石の母礼の屋敷に着くと、待ち兼ねていた母礼が早速出て来た。
阿弖流為と飛良手は馬から降りた。
「阿弖流為!」
「そなたが心配していると飛良手に聞いた」
「当たり前だ。急に姿を消して、今まで何処にいた?」
母礼が質すと、隣にいた飛良手が笑いながら言った。
「阿弖流為さまは、呑気に昼寝をされておられました」
「何、昼寝!」
母礼は呆れた。
「飛良手! 言うなと申したであろう」
阿弖流為は慌てて飛良手をど突いた。
「阿弖流為さまが何をしていたのか、しかと報告しなくては」
まだ飛良手はクスクス笑っている。阿弖流為は恐る恐る母礼の顔を見た。
「まあこたびの戦の勝利で、気が抜けたの分からんでもないが。お前らしい」
そう言って、母礼も笑うのであった。
そこへ佳奈が現れた。
「阿弖流為さま。お戻りになられたのですね。良かった」
自然と笑顔を見せる佳奈に母礼が言った。
「聞け佳奈。阿弖流為は呑気に昼寝をしておったそうだ」
「母礼!」
佳奈にまでばらすなと、阿弖流為は顔を紅潮させた。
「まあ」
佳奈までもがくすりと顔を笑わせた。
阿弖流為は恥ずかしくて穴があったら入りたい気持ちだった。しかし元はと言えば、最初に母礼にばらした飛良手が悪い。
「所で飛良手。約束は守ってもらうぞ」
阿弖流為は尖った口調で言った。
「約束?」
母礼が何かと阿弖流為に質した。
「馬でどちらが早く着けるか勝負したのだ。負けた方が勝った者の言う事を聞くとな。勿論俺が勝った」
ほほう、と母礼は飛良手に目をやった。阿弖流為は勝ったと言いうが、飛良手が本気を出せば五分の筈。母礼は腑に落ちない。
「飛良手。そなた手を抜いたであろう」
「多少」
飛良手はまた笑った。
「何!」
阿弖流為は振り返って飛良手を見た。勝負に夢中で全く気付かなかった。計られた気分である。
「それでは勝負にならぬではないか……。では約束も無しだな」
「いえ。約束は約束。阿弖流為さまの仰せのままに」
飛良手は頭を下げた。
そこまで言われてはと、阿弖流為は頷いた。しかしいざとなると、何を命じようか迷った。
ただ、あれをしろ、これをしろ、ではつまらない。首を捻って考える。
飛良手も何を言い付けられるか少しドキドキした。
「ならば……──」
母礼と佳奈が見守る中、阿弖流為は口にした。
「今日からそなたは俺の右腕だ。離れる事は許さん。心せよ」
もっと罰ゲーム的な言い付けをされるのかと思いきや、意外や意外、主従の契りを命じられた。
そこに阿弖流為がどれだけ飛良手を信頼しているかが読み取れる。
「阿弖流為さま……」
飛良手は言葉に詰まった。
こんな戯れな賭け事にそこまでするとは、嬉しくて、感情が溢れ出す。
「勿体のう御言葉にござりまする」
やっとそれだけ言えた。
それを見ていた母礼が、面白がって質した。
「ならば阿弖流為。俺は何だ?」
阿弖流為は飛良手から母礼に目をやった。すぐに答えが返ってきた。
「そなたは俺だ」
阿弖流為は胸に手を当てた。
「そなたが、俺……?」
「ああ、そうだ」
二人は一心同体だと、何故か直球で感じた。母礼が死ぬ時は自分が死ぬ時と、阿弖流為は確信した。
だが、母礼はむず痒い顔して、
「俺がおまえと一緒では、佳奈が困るわ」
「兄さまったら」
母礼は佳奈を見ながら豪快に笑った。
だが、腹の底では死ぬ程嬉しかった。阿弖流為はそこまで思っていてくれた。煮えたぎるような気持ち。阿弖流為となら何でも出来る気がした。戦に勝ち、蝦夷の誇りを取り戻す事さえも。
母礼は阿弖流為を見つめた。熱い眼差しが交差する。阿弖流為が僅かに微笑む。母礼も微かに笑んだ。
「しかし飛良手は阿弖流為に甘いぞ」
「な! 母礼どのこそ」
母礼と飛良手が言い合う。佳奈も笑いながら阿弖流為を見た。目が合った阿弖流為は思わず目を反らした。
母礼が、佳奈が自分の事を好いていると言っていたのを思い出したのだ。
(おなごはまだいい……)
まだ俺は18だ。
本当はもう18だと言うべきであろうが、今の阿弖流為には戦いの事しか頭にない。
佳奈が嫌いな訳ではない。
その存在が戦いに、害するとも限らないからだ。逆に守るべきものがあるからこそ戦うのは、蝦夷の為に。
「兄さま。もう暫くしたら夕餉の支度を致しまする」
そう言って佳奈は屋敷の中へ下がった。その後ろ姿を、阿弖流為は見つめていた。それに気付いた母礼が揶揄した。
「早う娶れ」
「ばっ、馬鹿!」
にやにやと面白がる母礼を、阿弖流為は困ったように見返した。
顔は真っ赤だった。
いちいち反応するから面白がられているのに阿弖流為は気付かなかった。
「さて阿弖流為。飯まで鍛練でもするか」
途端に母礼は真面目に言った。阿弖流為も気持ちを切り換えた。
これからはもっと厳しい戦が待っているであろう。
強くならなくては。
阿弖流為は、高鳴る胸の鼓動に気付いた。
「母礼。手加減はするな」
阿弖流為が勝ち気な目をして言うので、母礼は頷いた。
「飛良手とは違うからな。本気で参るぞ」
「私を引き合いに出さないで下され」
飛良手は苦笑いしながら言った。
日もすっかり落ち、外は闇の静寂に包まれる。だが今宵は満月で、月に照らされ明るかった。
夕餉も済み、阿弖流為は飛良手と母礼に用意された部屋で休んでいた。
鍛練で阿弖流為はくたくたになり横になっていた。
「少々張り切りすぎた」
そう笑って、戸口で外を眺めていた飛良手に話し掛ける。飛良手も笑い返す。
「阿弖流為さま。今宵は月が見事ですぞ」
「満月か」
阿弖流為も戸口に身を乗り出した。
吸い込まれそうなくらい月と星がまばゆい。それはアラハバキの輝き。こんな美しい輝きは都では見られないだろう。
暫く二人で見取れていた。
「これからが真の戦の始まりだな」
阿弖流為は呟いた。
力強く、その瞳にもう迷いはない。本当の意味で吹っ切れた。
煌めく星々の一つひとつが蝦夷の希望。一枚岩などではない朝廷とは違う。
俺は、生きている。
今この時代(時)を。
変えてみせる。
歩き出す。
蝦夷の、未来の為に。