和賀の諸絞と言えば、長である温厚な父親とは似つかず、気が強く喧嘩っ早い。本当に親子なのかと目を疑う。そんなやんちゃな息子でも両親は溺愛し、和賀の者は頼もしく思っていた。

 志和の阿奴志己が、父親から継いで長になった。その挨拶に和賀へ尋ねた時だった。
 和賀の長がいる館に招かれ、一通り祝盃がなされた後、父親と和賀の長は何の事はない世間話をするのに、阿奴志己は手持ち無沙汰で館周辺を散歩させてもらっていた。
 すると、待ち構えていたかのように、いきなり奥の離れから人が飛び出して来た。
「おい。おまえが志和の阿奴志己どのか」
 尋ねられ、驚いたまま頷く。
「あ、ああ。そなたは……」
「おれは諸絞だ」
「そなたが諸江どののご子息か」
 諸絞はそうだと口元を笑わせた。まだ幼く一回り以上は年下かというのに、母親譲りであろう瞳の奥ゆかしさと、肌の艶に薄い唇が映える。
 少しだけ見とれていた自分に気付き、阿奴志己は慌てて意識を戻したが、諸絞が急に身構えた。
「よし、いざ勝負ッ」
「は?」
 初対面、会うやいなや、いきなり喧嘩を吹っ掛けられた。何事かと聞けば「強そうだったから」と、それだけの事でと阿奴志己はその喧嘩っ早さに呆れた。そして有無を言わさず、少年ながら凄まじい気迫でかかってきた。相手をする羽目になった阿奴志己は、仕方なしにその拳を受け止めた。筋はいいが、力加減はまだ子供。年功の差が出た。
 阿奴志己も子供相手に本気を出す訳もなく、結局諸絞は軽くあしらわれ負けてしまった。それが余程悔しかったのか、以来阿奴志己の元を訪ねては何度も喧嘩を挑んできた。阿奴志己も時間がある限り、諸絞の相手をしてやった。
 今日も諸絞は完敗した。
「だあー! どうしたら勝てようか」
 疲れ果て、大の字に横になり喚く。肩で息をしていたのも治まり、阿奴志己を見上げる。狡いくらい逞しい体に溜め息が出た。
「おれも十年早く生まれていたら、阿奴志己に負けぬ男だったであろうにな」
 時たま愚痴る諸絞が微笑ましく、阿奴志己は揶揄する。
「早かろうが遅かろうが、強い者が勝つ。俺より力をつければいい。関係なかろう」
「なれど、……」
 諸絞はチラチラと阿奴志己を見た。
 そうは言っても、同じ蝦夷ながらも歴然と体格の違う事に引け目を感じていた。
「生れつきなのはどうしようもあるまい。毎日の鍛練が体を作る。気にするな。それに、そなたはまだ子供。これからであろう」
 諸絞の考えなど簡単に見通されていた。
「ならば、付き合ってもらうからな」
 阿奴志己は仕方なしにと、生暖かい目で諸絞を見ていた。


 喧嘩の約束をし、拳で語り合う。そんな思いがいつしか芽生え、気が付けばすっかり打ち解けた二人は、喧嘩抜きでも良く会うようになっていた。
 夏真っ盛り。喧嘩終わりに涼もうと、志和の近くの川へ泳ぎに行く約束をしていた。川といっても水流は穏やかで流される心配はない。
 日差しに汗を拭いながら馬を走らせる阿奴志己。川へ着くと諸絞は既に来ていた。
「阿奴志己!」
 気の強い性格とは裏腹に、慕う者には人懐っこい笑みを向けてくる。こんな顔を見ては誰もが諸絞を好く。男に興味がなくてもどこか胸がざわめく。
 阿奴志己は馬から下りた。諸絞は待っていた間に、じっとりと汗をかいて暑そうだ。
「すまぬ。親父との話が長引いてな。随分待ったか?」
「少しな」
「先に泳いでいればよかろうに」
「競争なしではつまらぬ。約束を破ってしまうしな」
 諸絞は然も当然と言うように笑う。そんな心遣いも阿奴志己は嬉しく思う。
 二人は衣服を脱いで一物を隠すだけの姿になった。阿奴志己は諸絞の肉体美に目を奪われた。細身ながらも、鍛え上げたしなやかな筋肉が付きはじめている。これも喧嘩をし合った賜物か、ざわめきがより一層強くなる。諸絞は何も気付いていない。阿奴志己だけが知ってしまった。こんなにも諸絞が青臭いながら放つ、女にはない男の色気。
「ここから……」
 見とれていた所に諸絞の声で我に反った。それでも夢見心地で高鳴る胸。どんどん引き寄せられる。
「あちらの端まで競争だ」
 諸絞は丁度川が曲がりくねった場所を指差した。結構な距離である。
「遠くないか?」
「負けるのが恐いのか、阿奴志己」
「馬鹿を言え」
 不敵に笑う諸絞を一蹴した。

 勝負は僅差で阿奴志己が勝った。諸絞は悔しそうに、まだ水の中で時間を持て余していた。
「いい加減、上がったらどうだ」
 とっくに上がっていた阿奴志己は、大きな木陰から暇そうに諸絞を見ていた。仕方なしに、やっと諸絞が川から上がる。
 濡れた髪と肌に滴る水。また間近に見せ付けられた美しさに生唾を飲み込む。おかしいとは分かっている。だが、一度そういう見方をしてしまった以上、簡単に払拭出来ない。
(俺は、そなたに恋をしている……)
 今までぼんやりとしていたものが、はっきりと示され改めて苛まれる。
 取りあえず、今は気取られてはいけない。阿奴志己は自分に一喝した。
「のう、阿奴志己」
「ん?」
「阿奴志己は誰か、好いている女子はいないのか?」
 その想っている当人に質され、阿奴志己は度肝を抜かれた。唐突すぎると、曖昧な笑みを浮かべた。
「別におらんが」
「何だ」
 諸絞は少しガッカリして、木の枝にかけてあった布で体を拭く。十三と年頃になった諸絞も色恋に興味を持ち、阿奴志己は年長でありながら唯一気軽に話せた。恋に関しても色々知っているかと思ったからだ。
「……そなた、好きな女子でも出来たのか?」
 阿奴志己が恐る恐る尋ねてみると、諸絞は顔を赤くして否定した。
「いや、その、そうなった時に、だ。うん、そう」
 その動揺っぷりから、今が正にそうなった時のように見えた。
 諸絞が好いたのだ、さぞかし可憐な女子だろうか。
 阿奴志己は勝手だと思いつつ、嫉妬していた。悔しくて、情けない。今目の前にいるのは自分だけなのに、諸絞の中にはいない。誰かを想い、焦がれている。そんなのは嫌だ。
 何かが阿奴志己の中でひび割れる。
「──教えて、欲しいのか?」
 急に追いやられ、木肌に背をピッタリとつけた諸絞は驚いたまま阿奴志己を見た。いつもの阿奴志己ではなかった。
「あ、阿奴志己?」
「諸絞……」
 そなたに、俺はいつまでも堪えていかなければならないのか。
 ドロドロにうごめく欲望に押し潰されそうだ。今すぐにでも掻き抱いて、一つになりたい。
(好きだ。好きだ、諸絞! そなたが好きだ!)
 壊れてしまう。
 唇が触れ合う近さにある。そのまま、ゆっくりと……。
「っ!」
 阿奴志己はかろうじて残されていた理性で動きを止めた。とんでもない過ちを起こすところだった。
「す、すまぬ。どうかしていた」
 慌てて離れるも、諸絞は顔を真っ赤にしながら固まっていた。
 今何が起こったのかと、頭は混乱するばかりで、冗談はよせ、といつものように軽く笑い飛ばせない諸絞。一番分からなかったのは、こんな事をされて不快に思っていない自分だった。
「っの、阿奴志己」
 諸絞は阿奴志己を見上げた。もごもごと口を動かし、やっと声にした。
「つ、続き……。教え、て……」
 どうしてそんな事を言ってしまったのか、熱に浮かされたか、定かではない。好意からか、阿奴志己になら良いと思った。
 思わぬ了承に阿奴志己も顔を赤くするばかりだった。

 結局、阿奴志己は続きをしてくれなかった。あれ以来モヤモヤし、諸絞は阿奴志己の事ばかり気にかけていた。最近は喧嘩をしていないのもあってか、心が緩んでいる気がする。
 昼下がりのまどろみ、側近の前で横になっていた諸絞は起き上がった。
「……すべて、阿奴志己のせいだ」
 ムスッと吐き捨て、側近を瞬かせた。
「どうなさったのですか?」
「なんでも」
 ぶっきら棒に言いながらまた横になる。困らせてはいると思うが、このどうしようもないモヤモヤ感を払拭出来なくて仕方ないのだ。
「そう言えば、阿奴志己どのとの喧嘩は、決着がつきましたか?」
 何かと喧嘩をしてきて、雌雄を決したかと言えば、まだである。しかし、どちらが勝つかなど今で分かりきっていた。分かっていて聞いてくる側近に、諸絞は口を噤む。
(決着……)
 代わりに決意をした。
 もう一度、阿奴志己と最後の喧嘩をしようと。

 夕方の静けさを掻き消すように、馬のいななきが聞こえ、諸絞が阿奴志己の目の前に現れた。刀の稽古終わりに休んでいた所に突如館に殴り込んで来た姿を見て、ポカンとしていると指を差される。
「阿奴志己。喧嘩をしに参った」
「どうしたのだ? 急にそのような」
 今日は会う約束をしていないはずである。訳が分からず諸絞を見上げる阿奴志己に、問答無用とばかりに拳が飛んできた。
「ちょ、ちょっと待て!」
 拳を避け、かかって来る体を受け止め制止させる。
「放せ! 何故戦わない、阿奴志己!」
「諸絞。落ち着け」
 喚く諸絞を宥めようとする。
「おれは知りたいのだ!」
「待て待て。喧嘩をせねば知り得ぬ事とはなんだ?」
「それは、……」
 向かい合う二人の顔は酷く近い。そんな状態である事に気付いた諸絞は、固まった。あの日の距離。阿奴志己の視線。
「諸絞?」
 急に大人しくなったのを見て、阿奴志己は顔を覗き込む。先程まであれだけ騒いでいたのに、何故か。
「もろ──」
 疑問に思いながら問い掛けた名前は、最後まで言えなかった。
 諸絞は自分の唇を阿奴志己の唇にぶつけるように重ねた。阿奴志己は驚愕して止まった。
 あの時、阿奴志己はしようとしていた。だから、同じ事をすれば答えが分かると思ったのだ。
 数秒の後、唇を離そうとしたら両手で顔を掴まれ、阿奴志己が噛み付くような接吻をしてきた。
「ん!」
 知らない感覚にめまいがした。口内を蹂躙されている。絡み、吸われ、力が抜けていく。自分はこうなる事を望んでいた筈だ。しかし、いざ直面すると恐ろしくなってきた。
 阿奴志己の理性はとっくに無くなっていた。惚れていた人からそんな事をされては辛抱ならない。嫌だと押し退けて抵抗する手を掴んで封じた。組み敷いた状態のまま、角度を変えては何度も。抑えていた欲望がドッと押し寄せる。
 ようやく唇が解放された頃には、諸絞の息はすっかり乱れ、火照った体は動けなかった。頭の中は真っ白で何も考えられない。
「もっ、や、阿奴志己っ」
 これ以上は止めて欲しい。懇願しようと見た顔は、まるで野獣のようにギラギラと諸絞を見ていた。まるで獲物にでもなったかのよう。恐怖からか、背筋がゾクゾクとした。
「諸絞……ずっとこうしたかった」
 熱を帯びた吐息で耳に囁く。
「あ、阿奴志己。おれ、は」
「教え欲しいのだろう? あの時の続きを」
 阿奴志己は優しく笑む。諸絞は茫然と呑まれていく。体中を触れられて、激情する思い。喜びに打ち震えている。
 阿奴志己が、好きだ。
 ハッキリと意識した。心のモヤモヤも、晴れていく。
「ずっと、分からなかったが……好きだ。阿奴志己が、好きだ」
 諸絞が涙ぐみながら阿奴志己に吐露する。すると阿奴志己は嬉しそうに抱きしめてきた。
 悩む必要などなかったのだ。

 諸絞は目覚めた後のぼうっとした気分が吹き飛ぶくらい、目が冴えていた。あれからもう三日経ったと言うのに、まだ阿奴志己の温もりが残っている。特に下半身は暫く痛くてしかたがなかった。思い出すだけで赤面してしまう。それ自体になんら後悔はなかったが。
(……さすがに、まずかったか)
 屋敷を飛び出した時、いくら側近には行き先を告げたとは言え、阿奴志己の元へ行ってくる、とだけしか伝えなかった事で、危うく騒ぎになるところだったと叱られた。
 阿奴志己に抱かれ、送ってもらった朝帰り。喧嘩をしていたという、当初の言い訳でなんとか誤魔化した。
 ──いずれ和賀の長になる御身。何かあってからでは遅いのですよ。
 そう言われたのを思い出す。何があるというのだ。この蝦夷の地で。……考えたくないだけで、目を向ければ朝廷との問題事がちらつく。それだけではない。
 諸絞は起きて外に出た。無性に体を動かしたかった。


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