漠然と思っていた事がある。自分は生涯誰も娶らないのだろうなと。何故かは分からないが、誰かといる事が想像出来なかった。
そしてそれを確信したのは、収穫を祝う祭で胆沢の阿弖流為を初めて見た時だった。雷に打たれたような激しい衝撃が身体を貫いて、阿弖流為を見つめたまま暫く固まっていた。確か七歳ほど年下。直接面識はなく、噂でその勇敢っぷりは耳にしていた程度だが、その存在に運命だと、強く惹かれてしまったのだ。阿弖流為の隣にいる自分が容易に想像出来る。だが、今ではない。この先、そう遠くない未来で。
阿弖流為……──。
「……さま」
母礼は何か聞こえたような気がしたが、睡魔の方が勝って無視する。
「兄さま!」
すると今度はハッキリと聞こえ、さすがに起きた。
「……なんだ、佳奈?」
ぼんやりとした視界に現れる顔。母礼を見下ろしていたのは、妹の佳奈だった。
「父上がお呼びです」
「そうか」
用件だけ伝えると、佳奈は部屋を出て行った。
折角気持ち良く昼寝をしていたところに、と文句を言っても仕方がない。のっそりと起き上がった。
何やら懐かしい夢を見た気がする。
母礼は先程まで見ていた夢を思い出した。阿弖流為と初めて会った時だったか。夢なので誇張されていたが、現実にも良く覚えている。阿弖流為は、子供ながら気の強そうな目を笑わせた。それが自分に向けられて、鷲掴みされた気分だった。
父、那河禰の部屋へ向かう。なんの話かは分かっている。縁談、だ。早く落ち着いてくれと言わんばかりに。それは分かるが、母礼は暗い面持ちになる。何度言われても答えは同じなのだ。
「俺は、誰かと一緒になる気はない」
目の前の那河禰に向かって、強い口調で突っぱねる。
「またそれか。跡継ぎのおまえがそうでは困る」
母礼の態度に那河禰は殆呆れていた。いくら勧めても、嫌だの一点張りで埒が明かない。
「もしや、女子より男に興味があるのではあるまいな」
「まさか」
「じゃあ何が不満だ。理由を聞いておろう」
「時がくれば、分かる」
「その時と言うのは、いつくるのだ?」
「……」
黙り込む母礼に那河禰は溜め息をつく。
暫くして、もうよいと、母礼は解放された。部屋を出て重い足取りで歩いていると、佳奈が立っていた。
「また、喧嘩なさったのですか?」
人事だと思って、くすくすと笑っている。
「兄さまがさっさと身を固めないからですよ。無下にしてばかりでは、女達も可哀相です」
「だから俺は」
「ならば、私が兄さまのお相手になりましょうか?」
「馬鹿を言え」
冗談を言って腕を組まれた母礼は、そのまま館の外まで連れて行かれた。
そうだ。普通ならばこんな風に女に寄られれば、悪い気はしない男はいない。
厩に来たところで離された。佳奈は近くにいた馬に飛び乗る。一緒に狩りに行く約束だったのを思い出した。
「次に親父は、おまえに言ってくるぞ」
「わたしはいいのです。好いた方がいますもの」
はにかんで言った佳奈に、母礼は耳を疑った。そんな事は初耳である。
「だ、誰なのだ?」
質すも、佳奈は笑うだけで答えてくれなかった。いつの間に、と。
母礼も馬に乗り、後に続いた。
ついでに黒石の長もなりたいとは思わない。
そう、うっかり口を滑らせそうになった。さすがにこれを言ってしまえば、激怒されるに違いなかった。
時はいつくる?
(まだ。まだなのだ、親父)
阿弖流為が必要としてくれるまで。
分からない、焦がれた思いだけが燻り続けていた。
いつも佳奈は収穫祭の時は来なかったのに、今年は行きたいらしい。我が妹ながら、女と言うのは気まぐれだな、ぐらいにしか母礼は思っていなかった。だが、違ったのだ。
胆沢の人達と挨拶を交わし、感謝の儀式を執り行う。後は酒や食べ物が振る舞われる。
ふと母礼が佳奈に目をやると、その視線が無言で阿弖流為へ向けられているのが分かった。周りの人達と笑い合う阿弖流為。
母礼は思い出した。胆沢での婚礼に招かれた時、那河禰は自分と佳奈を連れて行った。佳奈は阿弖流為を見て、母礼に尋ねたのだ。「兄さま、あの方は?」と。阿久斗どのの息子の阿弖流為どのだ、そう答えると、佳奈は頬を赤らめているように見えた。
(そうか)
母礼は理解した。自分が駄目でも佳奈がいる。ならば問題ない。口元を笑わせ、酒を一口煽った。
それからの母礼は、合間を縫ってはあの手この手で阿弖流為と佳奈をくっつけようとした。
そして781年の戦いから、大きな戦もなく平穏が続いた中、阿弖流為と佳奈は夫婦となった。
勿論母礼は共に戦ってきた阿弖流為が、佳奈が幸せになるのは嬉しかった。しかし、その一方で胸に違和感を覚えていた。その正体は分からなかった。
「阿弖流為。佳奈をよろしく頼むぞ。幸せにしてやってくれ」
「ああ」
母礼の言葉に、阿弖流為は力強く頷いた。蝦夷で一番の男になら、安心して嫁にやれると那河禰も泣いて喜んだ。
阿弖流為と佳奈がみんなに祝福されている姿を遠くから見た時、母礼はこの違和感の意味が分かった。
……ああ、俺は、阿弖流為が好きだったのか。
初めて阿弖流為と出会った時の衝撃は、心が揺さぶられたのは、愛する運命の相手と巡り逢えた狂喜だった。
母礼は絶望に唖然した。一気に奈落の底に叩き落とされる。
この想いは、虚無と消えるしかない。
ついさっきまで二人を祝っていたのに一転、自分の気持ちに気付いた愚かな自分を嘲った。
阿弖流為……、
阿弖流為、
阿弖流為!
ずっと片時も離れず側にいたのは誰だ。
何故、俺ではない?
俺は……──。
母礼は、人知れず涙した。いつかこの燃えるような想いが、穏やかに流れる風なる事を願う。
十数年後。
何故女房を貰わなかった。
阿弖流為が聞いてきた。阿弖流為がそれを言うのはあまりにも残酷で、締めつけられる。それでも、変わらない、変えられない。
「俺は、昔から弱かったのだ」
阿弖流為と伊佐西古に、母礼は笑った。