小さな幸福

「コンニャロー!」
「うわぁあー!」
 怒号と悲鳴が晴れ渡った空に響いた。
 のび太がジャイアンに虐められる事など日常茶飯事で誰も気に止めない。
 今日もまたジャイアンに追い掛けられていたのび太だが、かけっこやマラソンは苦手でも、こう言う時逃げ足だけは異常に速かった。必死に腕を振り道路を蹴り上げて捕まってたまるかと踏ん張る。
 追われている理由は単純かつ明細。
 むしゃくしゃする。
 一発殴らせろ、と。
 どうせまた母ちゃんに叱られたのだろう。どうしてとばっちりを受けなければならないのか理不尽に思いながら、掴まれる寸前で玄関に滑り込みセーフ。のび太は難を逃れた。
「畜生! 覚えてろよのび太ぁ!」
 ジャイアンの捨て台詞がドア越しに痛く耳に入る。そのままへたり込んだのび太は、安堵と嫌気の溜息をついた。のたのたと重い足を引きずるように歩き、部屋へ向かった。ふすまを開けると、ドラえもんが呑気に漫画を読みながらドラヤキを食べていた。
「お帰りのび太くん」
「はぁ……」
 のび太はそのまま床に座り、また溜息をつく。落ち込んでいる様子にドラえもんも気にかけ、漫画を閉じた。
「どうしたの? しずかちゃん留守だった?」
 のび太は横目にドラえもんを見た。
 そうなのだ。本来ならのび太はしずかの家に遊びに行くはずだった。
「それがさ、ジャイアンに……」
 ばったり鉢合わせし、この様である。
 毎度お馴染みながらの理不尽な理由。緯を話すのび太にドラえもんは溜息をついた。
「まったく。君も悪くないならないで、やり返したらどうだい」
 そんな事はのび太には無理だと判っていても、言わずにはいられない。のび太は案の定「そんなの無理に決まってる」と言い捨て、二つ折りにした座布団を枕に寝転んだ。そして天井を見詰めながら、ふと呟いた。
「ジャイアンはさ、本当は僕の事大嫌いだと思うんだ」
「何言ってるの。友達じゃない。そりゃちょっと乱暴かも知れないけど」
 眉を寄せつつも笑いながら言うドラえもんにのび太はムッとした。
「毎日虐められる僕の身にもなってよ。嫌いだから、虐めてくるんだ。僕が嫌で嫌いで仕方ないんだ。そうに決まってる」
 ムスッとして背を向けた。
(あーあ。また始まった。変に頑固何だから……)
 ドラえもんは呆れた。しかしジャイアンもジャイアンだ。暴力を奮うのは良くない。
 何か道具を出してやろうかと思ったが、それではのび太の為にならない。此処は一つ、自分が体を張ってジャイアンに抗議しに行ってやろう。
 ドラえもんは四次元ポケットからタケコプターを取り出し、出掛けた。

「はあぁ……」
 ジャイアンは自分の部屋で何をするでもなく、深く大きな溜息をついた。
 今日もまた、のび太を虐めてしまった。罪悪感に苛まれる。別に、のび太が嫌いで虐めたい訳ではない。ただ、のび太を見ていると、上手く接せられない。だから、つい……。
「うおー! 俺の馬鹿馬鹿!」
 自分で自分の頭を殴る。
 嫌われていても仕方ない。落ち込んでいると、ジャイ子がやって来た。
「お兄ちゃん。ドラえもんさんが来てるわよ」
「……ドラえもんが?」
 疑問に思いながらも心当たりは山ほどある。勿論のび太の事。また道具で懲らしめられるのではないかと気が気ではない。玄関に行くと、ドラえもんが立っていた。
「どうしたんだ? ドラえもん」
 その顔は決して穏やかではない。
「君に抗議しに来たんだ」
「抗議?」
「そう。のび太くんの事で」
 のび太と言われ、ジャイアンはドキッとした後、溜息と共に頭を垂れた。
 何だか様子が変だと気付いたドラえもんは強く言い出しづらくなった。
「のび太……怒ってたか?」
「え? いや、それはまあ」
「やっぱりな」
 いつものジャイアンらしくない。と言うか、こんなジャイアン見たことない。ドラえもんは不思議に思った。
「のび太くんは君が自分の事を嫌いだから虐めると思い込んじゃってるよ」
「何ィ!」
 ジャイアンの声がより一層でかくなった。心なしか青ざめる顔色。そして観念したように話し始めた。
「なあドラえもん。俺、どうしたらいいかな。別にのび太を虐めたい訳じゃないんだよ」
 どういう風の吹き回しか知らないが、更正する気になったのかと、ドラえもんも信じられない顔でジャイアンを見る。
「他人を思いやる優しさを持たなくちゃ」
 優しさ。
 ジャイアンは戸惑いがちに頷いた。

 変な気分だった。
 のび太はジャイアンの顔を覗き込む。
「……何だよ」
「いや、べ、別に」
 最近、ジャイアンが怒らないのだ。今日もたまたまジャイアンの家の前を通り掛かったら、母ちゃんに店番を頼まれていた所に遭遇した。いつもなら野球、サッカーがあるだのと店番を無理矢理押し付けられそうなのだが、ジャイアンはのび太を見て「よお」と一言発しただけだった。早々に過ぎ去ろうとした足は縺れたように歩みを止めた。もう既にジャイアンの眼中は何処か遠くを見ている。のび太は何となく、自分でも変だと思いながら手伝いを買って出た。
 そして、店先で二人で座っていた。お客はなく、ただ静かに流れる時間。
「あーあ、暇だな」
 ジャイアンは大きな欠伸をした。
 手伝うと言った時、ジャイアンは一瞬呆れたような顔をした。店番を手伝うと言っても、お客が来なければ特にする事もない。それでも良いと、のび太はジャイアンの隣に座った。
 またジャイアンの顔を覗き込んだ。
「どうかしたの?」
 そっと問い掛けると、ジャイアンはこちらを見た。
「何が?」
「最近、怒らないから」
「そ、そうか」
 気恥ずかしそうにジャイアンは視線を反らす。
「優しくなったよ。皆言ってる」
 まるで聞いていないように頭を掻くジャイアン。何だか照れてのび太の顔を見れない。
「僕、優しいジャイアンが好きだよ」
「え」
 今、なんつった?
 ドキリとジャイアンが振り返ると、そう言って微笑むのび太の顔が。ジャイアンは思わず顔を真っ赤にした。
 優しいジャイアンが好き。
 それは何よりも嬉しくて、またつい。
「な、何だよ。のび太のくせに」
 ふん、とそっぽを向く。こんな仕打ちは堪えられない。もう耳まで赤く染め上がっていた。そんな態度は今はのび太を笑わせるばかりだった。
(俺がおまえを嫌いな訳ないだろう)
 友達でいられる幸せ。
(これからも傍にいてやるんだ。有り難く思えよ)
 一緒にいられるこの上ない幸せ。
「くっそ、明日っから覚悟しとけよ」
「えええ!」
 いきなりの宣戦布告に、のび太はまた逃げ回る日々が始まるのだと、うんざりするのだった。

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