ベイブと別れた次の日は雨だった。抜け殻同然であったドランプは家にも帰らずスラムをただひたすら歩いていた。
いくら体が濡れても、渇いた心にその潤いは届かない。
いつの間にか路地の行き止まりに当たり立ち止まる。そこにはたむろしている人があり、獲物を捕らえるかのような視線を向けられた。
「ドランプじゃないか」
その三人の中で声をかけたのは、かつての悪友だった。顔見知りでなければ確実に酷い目にあっていた所だ。だが、野球を始めてから暫く会っていない連中。ニヤニヤとドランプを見ている。今更不良を気取る気もなかったドランプは挨拶もそこそこに立ち去ろうとした。
「待てよ。久々だってのにつれないな」
肩を掴まれる。引き止められる理由などなかった。今はただ一人になり何も考えたくない。
「……放せよ」
ドランプは欝陶しく感じたその手を払った。それが、不良の気に障ったらしく、胸倉を掴まれた。
「俺達裏切って、暢気に野球なんかしてんじゃねーよ!」
次の瞬間、ドランプの顔に拳が飛んだ。一発喰らって地面に叩き付けられ、激痛に顔を歪める。しかし肉体的な痛みより精神的な痛みの方がずっと大きく、胸が締め付けられていた。
何も殴る事ないじゃないか。器量が小さい奴ら。
ドランプは応戦しようと構えた。しかし三対一では分が悪い。一方的にらやれっぱなしで、もうやり返す気力もなくぶん殴られ続けた。
この痛みはベイブの痛みに比べたらずっと、
(軽い……)
暫くして、気が済んだ不良達がいなくなった後、ドランプは動けずその場に倒れ込んでいた。こんな所では誰かが助けてくれる訳もなく、痛みが治まるまでじっとしていたが。
「大丈夫?」
不意に聞こえた優しい声。信じられなくて少し顔を上げて見ると、心配そうにこちら見ている帽子を被り眼鏡をかけた青年がいた。その風貌からどう見てもこの場所に不釣り合いの人間に思えた。情けなどかけて欲しくなかったドランプは、押し黙った。
「酷い怪我。ちょっとまって」
青年は持っていた鞄を開けて何やら取り出した。中には医療器具が詰まっていた。
「僕、これでも医者なんだ」
そう言ってドランプの怪我の手当てをした。ドランプは何だか信じられなかったが、慣れた手つきで丁寧にしっかりとしていた。まさに完璧。これなら医者だと認めざるを得ない。
「……!」
ドランプは鞄の中に野球のボールが入っていたのが目に見えた。
「これでよし」
青年は手当てし終わって、ドランプに微笑みかけた。
「……野球、やるのか?」
「え? ああ、元々は野球選手になりたかったんだけどね」
ボールを手に取り、愛おしそうに見詰める。それでこの青年がどれだけ野球を愛しているのかが伝わってきた。
「人を救う事の素晴らしさも知っているからね。でも両立出来ないだろ? 医療とスポーツなんて。だから医療の道を選んだんだ」
好きならば、失わないように掴んでいなければこぼれ落ちてしまう。気持ちに違いはあれど、同じ思いはドランプを掻き立てた。
なら、もう一度掴めばいい。たったそれだけの事なのに、気付けなかった。
「出来るさ……」
「え?」
「医者と野球を一遍にさせてやるよ」
「キミは……」
青年は驚いたままドランプを見ていた。揺れ動いた心情が目に見えた。ドランプは立ち上がり笑った。
「オレはドランプ。野球チームのメンバーを集めてる」
ベイブの言葉が自然と目標へと変わった。
「それも世界一のチームだ」
「へえ……それで今、メンバーは?」
「あんたがスカウト第一号さ」
興味深そうに聞いた青年だったが、ドランプのチームはまだ人数が揃っていないのに世界一だの何だかおかしくて笑いが止まらなくなった。
「っはは、何だ。まだ誰もいないんだね」
今がどんなに格好悪くても、貫く信念は変わらない。
「これからだ。すぐに9人集めてみせる。その為にもまず、あんたが必要だ」
途方も無い夢を見がちな猫型ロボット。だがそんな夢も悪くないと青年は思った。
「選手兼、チームドクターって訳だね」
青年は差し出されたドランプの手を握った。
「僕はマーク。宜しく、ドランプ」
「ああ!」
最初の仲間は、偶然の出会いから立ち上がるきっかけを与えてくれた。
もう振り返らない。前を向いて行く。果たさなければならない夢がそこにある限り。