最古の記憶は、5歳の時には既に孤児院という施設にいた事だった。モンクは両親の顔は疎か存在すら知らずに育ったが、それが当たり前だと思っていた為に淋しいとは感じなかった。会いたいとも思わず恨んだりもせず。今で定かではない両親の生死など気にもしない。もはや関係なかった。
孤児院のおばさんはとても優しかったが、怒ると怖かった。やんちゃで良いことも悪いこともたくさんした。泣いたり笑ったり、ずっとこのまま此処にいるのだと信じて疑わなかった。
そんな9歳になったモンクを引き取っりたいと言ってくれたのは、初老の男だった。名をとサイモンと言い、落ち着いた雰囲気で温かみのある顔。身嗜みはしっかりとし、実に紳士的であった。おばさんに紹介され、顔を合わせたモンクは何処か他人事のように思う。そして、サイモンはモンクに言い放つ。
「私の、支えになってくれませんか?」
それがどういう意味か、義父になってくれるのとはまた違うのか、理解出来ずまごついていると、優しく頭を撫でてくれた。初めて、親というものを意識した時だった。
何故今更昔の夢を見たのだろうか。
まだ起きるには早い時間に目覚めたモンクは、ぼんやりテントの天井を眺める。違和感は感じていた。
(風邪を、引いてしまいましたか……)
怠く熱っぽい体を起こし、荷物から薬を探す。が、こんな時に限って切らしている。仕方なく水分補給だけをした。
(私としたことが、気の緩みですね)
怠惰だと恥じ、いくらかでも回復を図ろうと再び横になった。迷惑だけはかけたくない。もう、子供ではないのだから。
正式にサイモンに引き取られる日、モンクは緊張と不安の中、長年過ごした孤児院を去った。馬車からだんだん遠くなる孤児院を黙って見つめる。悲しくはなかったがやはり寂しい。そんな思いを汲み取ってか、サイモンは自身の事をぽつぽつ話してくれた。それは彼を知ると同時にモンクの心を徐々に解きほぐす。
やがて目的地に着くと、そこは辺りを緑に囲まれた別荘地のようであった。しかしサイモンの家は一般的な煉瓦作りで、モンクがいた孤児院とあまり変わらない。
「今日から、此処が君の家ですよ」
中を案内される。一人暮らしで持て余している所も多かったようで、使っていない部屋もあり、その一つの一番良い部屋をモンクの個室に宛行ってくれた。
「君の部屋です。どうですか?」
孤児院にいた時にはなかった、初めての自分の部屋。気持ちが一気に舞い上がる。
「あ、ありがとうございます。サイモンさん」
モンクはお礼を言って少ない自分の荷物を広げる。サイモンも手伝ってくれた。すっかり自分の部屋仕様になると、これからの生活に希望を抱いた。
サイモンはにっこり微笑み、最初に出会った時のように頭を撫でてくれた。
「何かあったらいつでも言って下さい。遠慮はいりませんからね」
頷くモンクは、いよいよ親となってくれたからには、いつまでもよそよそしくしては申し訳ないと思い、なるべく親しく接しようと努めた。
誰かが体を揺すっているのに気付き、戦士は目が覚めた。見ると脇にちょこんと黒魔がいたが、その顔は今にも泣きそうだった。いつもなら早起きのモンクと一緒に起きて朝食を作るのを微睡みながら見ているのだが。
「どうした……?」
「モンク、が」
絞り出すような声で言う。戦士はいよいよ異変に気付いた。もう起きていていてもおかしくないモンクがまだ寝ている。
「おい」
近付いてみれば、顔が赤く苦しそうに呼吸をしていた。黒魔は戦士にしがみついて一緒に様子を窺っている。額に手を当て行えば、かっかとして高熱なのは明らかだった。
「モンク、モンク」
そっと起こすと、モンクは怠そうに戦士を見た。
「おまえ、風邪か」
「……そのよう、です」
結局回復するどころか悪化してしまった。熱に浮かされる感覚に小さく溜息をつく。そして心配そうにしている黒魔に微笑んだ。
「大丈夫、ですよ。ただの風邪、ですから」
頷く黒魔。モンクに言われてだいぶ落ち着いたようだ。
今日のところは休養して戦士達に任せるしかないと、モンクが申し訳なさそうに頼んだら、困ったような笑みが返ってきた。
「おまえはゆっくり寝てろ」
そう言ってもらえて、モンクは再び眠りについた。
日はすっかり昇り、いつもと変わらない日差しが降り注ぐ。
林の近くに張られたテントの前から大声が響いた。
「ええ! モンク風邪引いたの」
寝坊した赤魔、正確には戦士に起こすのを忘れられていたのだが、驚きながら朝食のパンを受け取る。どうりでまだ寝てる訳だと納得した。もし朝が苦手な赤魔がモンクより早く起きるとすれば、徹夜でもしない限り無理な話である。それぐらいモンクは規則正しく起きていた。
「おまえみたいなのがいたら、そりゃモンクも疲れる訳さ」
「何それ酷い!」
戦士に言われ、酒乱の事かと言い返せない赤魔は少し項垂れた。確かに迷惑かけっぱなしだが、モンクは一度とて邪険した事はない。それにすっかり甘えているのだが。
そしてさっきから何やらゴソゴソと支度をしていた戦士は何処かに出掛けるらしい。
「で、どっか行くの?」
「薬草調達してくる。黒魔も行くから、モンク頼むな。飯食ったらケアルでもかけてやってくれ。少しは楽になるだろうから」
「分かった」
手を振る黒魔に応えつつ、二人を見送った後、朝食を平らげた。
今日は此処で足止めかと、少しだけのんびり出来そうかなと思いながら、モンクの様子を見にテントの中へ入った。
サイモンとの生活は良好そのもの。主に身の回りの手伝いをし、孤児院にいた時とあまり変わらないと感じた。一つ気になる事と言えば、サイモンは誰でも、子供のモンクにすらいつも敬語で話しかけてくる。それがなんだか不思議でいつの間にか自分もそうしなければと敬語で喋っていた。一種の礼儀でもあり、影響でもあった。それにサイモンは温かい眼差しを向ける。
日課の一つであるお茶の時間には様々な話をしてくれた。世間話から物語、子供にはまだ難しい人生観まで。「常に真摯でいなさい」それが口癖。
これまで感じた事のない思い。
幸せ、だった。
その幸せはモンクが二十歳になった時、突然足元から壊れはじめた。サイモンが病気にかかり、寝たきりになってしまった。静かに奪われていく体力。死期を悟ったのか、サイモンは何も言わない。モンクは必死に看病をした。
そんな毎日がとうとう半年ほど。
ある日の晩の事だった。珍しくサイモンが側にいてくれと頼んできた。モンクは椅子に腰掛け、黙ってその容姿を見詰める。もう随分頬が痩けた顔に、僅かに赤みがさす。
「モンク。私に聞きたい事があるのではないですか?」
「え?」
突然言われ、モンクは戸惑う。まるで見透かされている。確かに、あった。それはもう心の奥深くに封印していた思い。言うべきか迷った。今更聞いて、今までの関係が壊れてしまうほど安っぽい紲ではない。それでも躊躇したのは、やはり恐れていたからだとモンクは伏し目に体を震わせた。
サイモンは優しい瞳を向けたまま、その口が開かれるのを待っている。
モンクはとうとう沈黙を破った。
「どうして……私を引き取ったのですか?」
ずっと気になってはいたが、結局聞けずにいた。たくさんいる子供の中から自分を選んだ理由を知りたかった。存在意義与えてくれた、訳を。
サイモンは微笑んだ。
「君を一目見た時、直感したのです。ああ、私はこの子と生涯を共にするのだと。人はそれを運命と言うのでしょうね。だから、君でなくては駄目でした。
モンク。私は、寂しかったのです。君に会うまでずっと……」
モンクの頬にサイモンの手が触れる。
「でも今は、寂しくありません。これ程、幸せな事はないのですから。今まで私を支えてくれて、有難う……」
そしてその手は、潤んだモンクの頭を優しく撫で上げた。温かなぬくもり。最後まで、モンクを見つめた瞳は静かに瞼を閉じた。
「サイモンさん、私を……置いていかないで、下さいッ……!」
また、独りになってしまった。
赤魔はそっとモンクを覗き込んだ。
「モンク〜。起きてる……?」
寝入っているらしく返事はない。赤魔は静かに隣に座り、容態を窺う。規則正しい呼吸が時折苦しそうで、熱で汗ばんだ体がじっとりとして衣服が窮屈そうだった。体を拭いてあげた方がいいのだろうか。赤魔はシャツを脱がそうと手をかけて止まった。
「あっと、先に、ケアルかけてあげるね」
何だか急に気恥ずかしくなり、慌てて手をかざした。
「……で」
「え?」
不意にモンクの声が聞こえ、赤魔はケアル詠唱を中断した。だが、起きた訳ではなかった。
「……、私を置いて、いかないで……」
繰り返す譫言に涙が流れていた。
赤魔は一体何事かと困惑した。いつも頼っていた大きな存在が、今はこんなにも小さく弱々しい。無意識とはいえ見た事のないモンクに、何だか現実味がわかなかった。
強さの裏に隠れた、弱さの部分。誰もが抱えている。決して人には見せたくないと。
赤魔は衝動的にモンクを抱きしめた。風邪が移ろうが構いやしなかった。
「大丈夫。置いていかない。ずっと側にいるから……」
体が熱い。この熱さはモンクの体温のせいではなく、自分の中で何かが滾っているせいだと赤魔は思った。
(……さん、……)
モンクは空ろに、懐かしい体温を感じていた。夢うつつ、寝顔はもう安らかだった。
次の日の朝。モンクはスッキリとした目覚めをし、体調が戻っていると分かった。熱は苦しかったが、それと同時に昔懐かしい夢心地にも浸れた。
(私は、もう独りではないのでしたね)
皆が看病してくれたのを覚えている。赤魔は付き添ってくれ、戦士と黒魔は薬草を取って来てくれた。感謝で一杯だった。
そっと起き上がり、黒魔の寝顔を覗き込む。今日は朝まで寝かせておいてあげようと起こさなかった。そして一番心配をかけたであろうと、町に入ったらお礼のおやつでも買ってあげようと思った。
それから皆を起こさないようにテントを出たが、焚き火の前に赤魔が座っていて驚愕した。
「あ、赤魔……まだ明け方ですよ?」
信じられないと近付くと、物凄く眠そうだった。じっとモンクを見上げる。
「あたしも、手伝う……」
ぽつりと言うも、こんな今にも二度寝しそうな赤魔に手伝われては、逆に何か仕出かされるかも知れないと困った。
「赤魔は寝てていいんですよ」
テントに促そうとするも、嫌々と動かない。
「……じゃあ見てる」
と、横になり、見ると言った側から寝入ってしまった。赤魔なりにいつも寝坊しているのを反省した結果が、コレらしい。
「仕方のない人ですね」
これでは黒魔と変わらないと、呆れて笑いながら毛布をかける。しかし酔っ払った時よりは苦ではないと、また笑う。
「有難うございます。赤魔」
そっと呟く。その目が愛しいものを見る、かつての義父と同じ色をしているのを、モンクは知らない。
(いつか……話してくれる日が、くるよね……)
赤魔はモンクの穏やかな気配を感じながら、夢路に思う。微かな幸福感と共に。