義弟は言った。
"ミシディアの魔導師を尋ねろ!"、と。
俺には何の事だか理解し難いものだった。魔導師、ミシディア。分からない。
誰だ。
お前は一体……。
不躾だが、主に訊いてみようと思ったレオンハルトは、今頃書類に目を通しているであろうマティウスの書斎を訪ねた。
「何だ」
極めて無礼のないように声をかけたが、マティウスにはそんな事はどうでも良かったらしく、不機嫌に睨みつけてきた。あまり進み具合が良くないらしい。後はどうせ自分か他の部下に押し付けてしまうのだから、意味はないと思ったが。
「ミシディアの魔導師とやらに、心当たりはないでしょうか……?」
「……? 何の事だ」
質問はあっさりと質問として返ってきた。レオンハルトは僅かに気落ちした。てっきりマティウスは知っているかと思っていた。
「あの少年が、言っていました」
敢えて自分の義弟だと言う表現はしなかった。もう、袂を分かってから家族としての意識は薄れている。ただ優れた戦士としての価値はあった為、気に留めてはいた。
「何を言われたか知らんが、おまえは戯言を信じるのか?」
気に入らないのか、益々不機嫌になった。マティウスはレオンハルトがまだ与していないのではないかと疑っている。そんな筈はないのだと態度で示すしかない。
「いえ、少し気になっただけで」
まるで繕うような言い草。きっとそんな風に思っている。マティウスは静まった。冷たく暗い感情に包まれ嫌気がさす。
「おまえは、私の言う事だけ信じていれば良いのだ」
「……はい」
もう何も言えないレオンハルトは頭を下げた。
それから数ヶ月。忙しさの中で魔導師の事などすっかり忘れていた。
しかし、直ぐに思い出す事になる。
反乱軍が究極魔法の封印を解こうとしているとの情報がもたらされたのは、ミシディア制圧を進行している最中だった。
これは好都合と、一気に潰してしまえば阻む邪魔者はいなくなる。レオンハルトは先にミシディアの塔に向かう事にした。
更に聞き出した情報によると、反乱軍はまだ来てはいなかったが、何日か前に一人の魔導師が塔へ行ったと分かった。それが直感して、義弟が言っていたミシディアの魔導師だと思えた。
ぞわりとよだつ。
理性ではマティウスの言う通りなのだと言い聞かせていても、本能が訴えてくる。
魔導師に会わなければ。
裏腹な心は自身を混乱させていた。
翌日、レオンハルトは数人の部下を連れて塔の最上階を目指した。まだどっち付かずのまま、足取りは重かった。上に近付くにつれ、ひしひしと魔力を感じる。それがアルテマから放たれたものなのか、魔導師からなのかは判断出来兼ねた。ジリジリと焦がれている。レオンハルトは覚悟を決めた。
最後の扉の前で、部下に待機を命じた。中には自分一人で入ると。反論は認めず、扉を開けて静かに足を踏み入れた。
閉鎖的な空間の先に、階段とまた扉があり巨大で圧倒されたが、その前に佇む人影に心臓が跳ね上がり身体が強張る。
振り返らずとも判る。そこには確かに魔導師がいた。レオンハルトは努めて冷静を保ちながら口を開く。
「……おまえは、誰だ。ミシディアの、魔導師、か……」
魔導師は答えない。沈黙したまま、ゆっくりと振り向いた。頭の殆どをターバンとマスクで隠し、目元だけの表情は分かりづらい。物静かにレオンハルトを見ていたが、その眼光は鋭く全てを見透かされているような錯覚を起こした。
「……ああ、彼と同じ瞳をしていますね」
「彼?」
やっと喋ったかと思いきや、魔導師は一人で納得し頷く。
「あなたは私を尋ねた。それは彼に言われたからではなく、運命でした。黒の騎士よ」
それで漸く彼というのが義弟の事だと分かった。
一介の魔導師にしか見えない男に、義弟は何を得たのか。レオンハルトは自然と魔導師を睨みつける。
「おまえは、何を知る」
回りくどいのはいらない、と単刀直入に言った。魔導師はゆっくり階段を下りて来た。
「反する心で、いつまでもその繊細な心が持ちますか?」
「何だと!」
弱い者を見るような目で、すぐ前に立ち止まった魔導師。敵意を滲ませたレオンハルトに首を横に振る。
「いくら受け入れても、あなたは招かれざる者。それは打診されたにすぎません」
「何を言うか! 俺は」
皇帝陛下の……。
陛下、の?
急に分からなくなった。
「今の己に、確固たるものが何か一つでもありますか?」
ふざけた事を言うなと言い返してやりたいのに、出来ない。
信じたのは、冷めきったマティウスの目。それだけ。知らない。何も知らないのだ。マティウスが何を思って何を見ているのか。その隣に自分はいない。今まで何を見ていた?
レオンハルトは戦慄いた。どんなに否定しても拭えない。肯定がきかない。
「……おまえは、何者なんだ」
もうすっかり力が抜け、絶望に似た感情のまま弱々しく問い質す。
「私は……そう、一介の魔導師にすぎません」
魔導師は僅かに目元を笑わせた。
こうやって義弟も何かを見出だしたのか。真意は分からないまま。レオンハルトはじっと自分の手を見た。
うなだれた姿に魔導師は言い聞かせる。
「どんなに悪に染まろうと、虚しいだけです。あなたは救いを求めていた。彼には分かっていたのです。彼らを、悲しませない為に、剣を捨てなさい」
言霊のように耳に入る。
だが、それとは違う低く通った耳慣れた声が、頭の中に響く。
ダークナイト。
信じろ。
私だけを。
レオン、ハルト。
「……俺は、」
心底が渦巻く。
何を知るか。
誰を信じるか。
存在意義をくれたのはマティウスだけ。
「何者でもない、ダークナイトだ!」
刀を差し向け、叫んだ。肩で息をし、血走る目。揺らいだ、飢えた感情。レオンハルトの根底は魔導師を凌駕した。
魔導師は渋面で口を噤む。冷静さを失いかけ暴走するか、踏み止まるか。飛び掛かってくるものなら容赦せず一戦も辞さない構えだったが、レオンハルトは刀を鞘に収めた。迷いが露呈したのを恥じ、己を一喝したのだった。
「世迷言を言うな、ミシディアの魔導師。俺が求めるのは力だけ、全ては皇帝陛下の為に」
レオンハルトは不敵に笑いながら、あれだけ執着していた魔導師に情が冷めていた。どうせ封印など解けない。このまま捨て置いても問題はないと判断した。撤退しようと踵を返すも、立ち止まった。
「……一つだけ、聞いておこう。名は?」
「……宮廷魔導師、ミンウ」
ミンウは凛と、初めと変わらない声で答えた。
その名を覚えておいてやろう。いつか正しかったのは自分の方だったと言うまで。
レオンハルトはもう何も言わず去った。
静まり返る。また一人になったミンウは天井を見上げた。
「思った以上に、強力な呪縛だ」
だが、それが自覚出来たのなら断ち切れよう。長くは持つまい。
「フリオニール。君が解き放つきっかけだ」
ただ願う。少年らの行く末が希望である事を。
胸の仕えが取れたようで、すっきりと気分が良かった。足取りも軽く、後ろに連れた部下の存在も頼もしい。今自分は確実に力を得ている。あの頃とは違う。
あの魔導師との相見えたのも無駄ではなかったと言う事だろうか。
レオンハルトは感謝すらしていた。お陰で迷いは消え、こうして胸を張ってマティウスを見る事が出来る。
「陛下、御報告申し上げます」
そんなレオンハルトを、マティウスはただ口元を笑わせ、見詰めていた。まるで愛しいと言うかのように。
(また会う事もあろう、魔導師ミンウ)
黒く染まる、心情の螺旋。
誰ぞ知る運命。
旋律は静かに終息を呼んでいた。