ピーヒョロロロ――…


塀の外から僅かに風に乗って届けられる笛の音と微かな人々のざわめき。
江戸全体の興奮が此処まで伝わってくるような。


「あー、もうそんな時期かー」

「? 今日、城下町で何かあるんですか?」



道場では素振りの練習に励む黄瀬の横で黒子が用具の手入れを行っている。

ふうと一息ついて額の汗を拭うと、彼が汲んだばかりの綺麗な井戸水を竹筒に入れて渡してくれた。



「黒子っち知らないの?」

「城を出たことがないので…」



少し困ったように首を傾げる彼に、何か事情があるのかなんて余計な詮索はせず笑顔を作った。



「収穫祭っスよ。無事作物を収穫出来た祝いに御輿を担いだり、出店で遊んだり。あーまたあの林檎飴食べたかったな」

「………大奥に入った男達は死ぬまで此処を出られません」

「青峰っちとか堂々と夜遊びに出歩いてるじゃないっスか!」

「彼は自由人というか…一応御中臈ですし」

「じゃあ俺も御中臈になるっス!」

「そんな簡単に…」

「そしたら、黒子っち。此処を抜け出して一緒にお祭り行こっ」



そう言って満面の笑みを浮かべながら手を差し伸べると、琥珀色の瞳が大きくぱちくり。

御三の間の模範である彼からしたら、規則を破って外出なんて頭の片隅にも無かったのかもしれないが。

相変わらず何を考えてるかわからぬ表情のまま、それでも差し出した手に自ら手を重ねてくれて。



「……黄瀬くんなら、なんだか実現してしまいそうですね」

「ありがと。でもね…」



どすんと手を握ったまま彼の隣に腰を下ろし、小さなでも頼りある肩に自分の頭をちょこんと乗せる。

秋を感じさせるひんやりと冷たい風。
身体を動かした後の火照った身体には丁度良かった。



「……外出れなくても、黒子っちとこうしてるだけでなんか幸せなんスよ」

「……………」



言葉なくゆっくり流れる時間が愛おしい。

窓から差し込む陽射しは温かく、もう少しこのままでいたかったが、腹に力を込めて気合を入れ直した。



「よしっ。休憩おしまい。さ、練習しよ」

「……ええ」



よっと立ち上がり、繋いでいた黒子の手を引いて練習を誘おうとしたその時だった。




「――――おい、テメエが黄瀬か」



名前を呼ぶ声に反応して首を回せば、道場の入口にもたれ掛かる見覚えのない男が。
輝くような銀髪。袴を着崩し、口には匂いのきつい煙管を咥えて。
明らかにガラが悪く、蛇みたいな目つきで人を見下す態度に内心舌を出しつつも黄瀬は名を問うた。



「そうっスけど。あんたは…?」



黄瀬の問いは目の前の男ではなく隣から紡がれるか細い声で返ってきた。



「はい、ざきくん…」

「はいざき…?」

「最近調子乗ってる奴がいるっていうから来てみれば黒子の新しい妾かよ。相変わらずだなぁ」

「………ッ……」



無作法にも小指で耳を抉り、残った垢をふうっと此方に向かって吹きつける。
見た目だけでなく中身も腐っているよらしい。

軽蔑する様な眼差しで反論しようとした黒子を、制すように片手で遮った。



「黒子っちを侮辱するようなら俺が赦さないっスよ」

「おお、おお。新しい光とやらを拝んでやろうじゃねえか。元々気に入らねえ面なんだよ、お前」

「黄瀬くん、私闘は」

「此処まで言われて、黙ってられるか」



腹の底を燻られるようなちりちりした感覚。

自分のことはどう言われても構わない。
けれどこの男はあっさりと俺の琴線に触れた。
尊敬する、大好きな人を貶されて黙っていられるほど俺は大人ではないし、そう在りたいとも思わない。



「一本勝負でいいか?」

「俺は構わないっスよ」

「黄瀬くん!」

「黒子ォ、テメエは一人じゃ何も出来ないんだからすっこんでろッ」

「お前……ッ」



試合もまだ始まっていないのにもかかわらず、喧嘩を仲裁しようと間に入った黒子に、灰崎という男は嬉々としながら遠慮なく木刀を振り下ろす―――――かに見えた。



「バァカ」



黄瀬が黒子を庇うのを前以て解っていたであろう相手の刀は瞬時に方向を変え。

避ける間も無く黄瀬の利き足に見事に直撃した。



「ぐあああっ」

「黄瀬くん!!!」



打たれた足の激痛に呻く黄瀬に黒子が慌てて側に駆け寄ろうとするも、近づくなと震える右手を広げる。

これは意地だ。意地は武士の矜恃、そして生きていくために譲れない―――――――誇り。



「これは、俺とこいつとの勝負っス…」



(熱い)


骨が折れたのかもしれない。

痛みを超えた異常な熱さに脳が焼き切れそうな眩暈に襲われるが、此処で倒れる訳にはいかなかった。



「おお、その目。ヤル気は失くしてねぇみたいだな」

「……上等、っスよ」

「きせくん……」

「こういう時はおうえんしてよ、黒子っち」

「………っ」



心配そうにこちらを真っ直ぐ見つめる、あの琥珀色に溜まった大粒の涙が自分だけのものだと考えるだけで、身体中から士気が漲る。


人は人の為に、こんなにも頑張れるんだ。


この時既に、黄瀬の頭からは足の痛みなんてすっ飛んで目の前の相手を睨みつけていた。



『腰を落とせ 』

『視線を逸らすな』



いつも練習に付き合ってくれた青峰の声が脳内を反芻する。

やけに周りが静かだ。

今なら思い出せる――――荒い息遣い、筋肉の動く音、一瞬の隙も許されない張り詰めた空気……



『相手の目を見て次に来る攻撃を予測。それを紙一重でかわしてそのまま―――――』



「頑張れッッ、黄瀬くん!!!!!」



(懐へ突っ込む!!!!!)



「うおおおおおおおおおおッッッ」



負ける気なんてしなかった。

普段静かな彼から紡がれる力一杯の声に後押しされる様に、灰崎の腹に突き刺さる重い一突き。



「ぐええあ、っツ」



勝負はその一刀で決していた。



「…ッ、よっしゃあッッ」



突かれた腹を押さえ呻き回る灰崎にバランスを崩した黄瀬もそのまま彼の上に倒れ込む。

ところが

勝利に酔いしれる間も無く、灰崎が苦し紛れに呻いた言葉が黄瀬の耳にしっかりと届いていた。



「調子にのんなよ……ッ、どうせお前も赤司や青峰と一緒だ。あいつに誑かされて、出世の道具にされればいい…げふッッ、っ」

「それ以上言うな……」

「黄瀬くん??!」



ぷつり。

何かが切れた音がした。

先程とは打って変わり闘志とは相反する憎しみにも似た激しい感情が腹の内部を焼き尽くし。
黄瀬はそのまま己の拳で灰崎の顔を殴りつけていた。

どかっ、ばきっっ。

――――何度も何度も。


今思うと何かに取り憑かれていたような。

黒子の金切り声のような悲鳴を聞き、我に返ったときには、灰崎の大奥らしい整った顔は見る影も無く赤く腫れ爛れていた。



「黄瀬くん、戻りましょう…ッ」



さすがの黒子も青褪ており、事の重大さを知る。



(なんで………)


(ただ、キミを守りたかっただけなのに)



黒子に腕を引かれるまま道場を後に。

引きずる右脚にそういえば折れてるかもなんてぼんやりと考えながら、それでも頭の中は未だ灰崎の言葉が耳にこびりついていたままだった。




「―――――黄瀬くん、あんな暴力は駄目です」



連れて来られたのはどうやら医務室のようで。
医師は外出中らしく黒子が手慣れた様子で右足に挿し木を充て、いつの間にか切れていた頬の傷には消毒液を。

ああ、青峰の傷の手当てもこうしてしてあげてたんだろうなぁ、なんて。

最初から疑問ではあった。
御三の間の黒子が何故御中臈の青峰や御年寄の赤司と親しい関係にあることを。

同僚達も黒子にはどこか一線を引いたように距離を置いていたことも。



『あいつの身体、具合良かっただろォ?』



反芻する灰崎の言葉に、どす黒い気持ちがさらに色濃く胸中を支配する。



「………黒子っち、キスしていい?」



ぽつり、と言葉に出していた。



「え………?」



赤チンを握りながら動きを止め、いきなりどうしたんだと訝しげにこちらを見上げる黒子。
今はその表情すら泣きたいくらいの理不尽な苛立ちが募った。



「俺の気持ちなんてずっとわかってたっスよね? 好きなんだ。いいじゃん、させてよ……」

「ちょ、ふ…ふざけないでください…っッ」



ガシャアアアン。

無理矢理唇を寄せようとすると、力一杯拒まれ、その拍子にバランスを崩した黄瀬は医療器具と共に倒れ込む。



「す、すいません。黄瀬くん大丈夫です…」



そういえば黄瀬は怪我人だったと慌てた黒子が近寄ると一線が靡いた。


パァン。


乾いた音が個室に響く。



「え………」



黒子も何をされたか理解するのに、時間がかかった。

ジンジンと痛む頬。
唇が切れて零れた血が顎を伝う。



「………じゃあ上までのし上がってやる」

「……………え……」

「あいつらより身分が低くて駄目だっていうなら、俺が上までのし上がってやるよ」



少し、ほんの少しでも黄瀬に余裕があったなら気づいていただろう。

黒子が虚ろな瞳で叩かれた頬を押さえながら僅かに震えていたことを。


でも気づかなかった。



拒絶された事実で頭がいっぱいだった。




(俺は彼の特別じゃない)




その事実を。


















大奥
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