今昔に想いを馳せて | ナノ

*社会人設定



午後4時32分。デスクトップとのにらめっこで固くなった身体を伸ばしたちょうどその時、机に放置していた携帯が震えた。
『8時。いつもの店。』
まったくこいつは。絵文字どころかお疲れの一言すら無いのか。苦笑をこぼし、主任席、いわゆるお誕生日席で後輩を叱るみょうじを見やった。
「これだとだめ。予算に収まらない。ちゃんと過去のデータ見て」
すっかり萎縮する後輩に淡々と理詰めで話すみょうじ。にこりとでもすれば後輩もさぞやりやすいだろうにと同情する。
クール。冷淡。美人。まさに女王様。同僚たちが彼女をそう評していた。中には踏まれたいなんて野郎もいたから、その女王様ぶりは伊達じゃないようだ。
冗談言うなよ。俺は内心呟いて、了解と返信した。



「遅いわよ、小堀ー!」
指定の居酒屋に着いたのは約束の時間より十分も早かったが、すでに酔っぱらいに成り下がっているみょうじにはそんな意見は通用しない。涙と鼻水で化粧が落ちかけている酷い顔のみょうじをとりあえず未使用のおしぼりで拭く。されるがままになっているみょうじには女王様の欠片もない。どちらかというと大きな幼稚園児だ。
「どうしようどうしようどうしよう!後輩くん絶対傷ついたよね!もう何であたしあんな言い方しかできないんだろう!グズだよあたし!」
拭う先から涙が溢れてくる。鼻水まで垂れて美人が台無しだ。
「あー、はいはい。大丈夫だって。あいつだってそんなに打たれ弱くないから。な?」
「……そう、かな?」
「そうだって。それにみょうじの指摘だって理にかなってたし、アドバイスもあの後しただろ?」
「アドバイスは主に小堀じゃん……」
「俺はお前の言ったこと翻訳しただけ。アドバイスをしたのはお前だよ」
そうかなぁ。そうだよ。
このやり取りを二、三度繰り返し、みょうじの涙はようやく止まった。化粧で汚れたおしぼりを新しいものに変え、真っ赤な目を冷やす。
「小堀?」
「ん?」
「ありがと」
にこりともへらりともつかない笑みが悩殺的にかわいいと思えるんだからもう末期だ。
こいつが女王様?冗談じゃない。
こんな繊細で不器用で泣き虫な女王様いるかよ。



こいつの愚痴を聞きながら酒を飲むのも今年で三年目になる。発端はやはり酒が絡む。三年前、年末の忘年会でのこと、偶然帰り道が同じになったみょうじに強引に飲み直しに付き合わされたときのことだ。
「小堀くんに聞きたいことがあるの」
完全に据わった目でこちらを見るみょうじは、なまじ美人であることも加え、迫力がある。俺は薄いウーロンハイを口に含み先を促した。
「あたしって怖い?」
「は?」
「だから、顔とか、怖い?」
笑ってはいけない。本人はいたって真面目なのだ。
「まあ、正直怖い」
みょうじは肩を落とした。うそだーとかまじかーなどといった呻きが聞こえてくる。
別にみょうじは顔が厳つくて怖いなどといった訳ではない。美人が笑わないと怖いというのは摂理だ。
「もっと笑えばいいのになとは思うよ」
恨めしそうにこちらを見るみょうじは、それが出来たら苦労しないと呟いた。
「笑おうとか思った瞬間、緊張して表情筋が固まるのよ」
あまりに深刻そうなので、思わず吹き出してしまった。
「何で緊張すんだよ。同じ職場の人間だろ」
「私にも分かんないわよ」
ぶすくれるみょうじに、こういう顔を見せたら皆とも打ち解けられるんじゃないかと言おうとしたが止めた。
今思えば、それは独占欲の萌芽だった気がする。



話を続ければ話題はどんどん広がった。職場の上司について。休日の過ごし方。旨い居酒屋。バスケの話。
驚いたことにみょうじも学生時代にバスケをやっていたという。本人はウィンターカップまで出た小堀には恥ずかしくて言えないような弱小校だと言ったが、それでも本気でバスケをしていたというのは話していて分かる。
初めて飲んだ相手とは思えないほど話が進んだ。気づいたら、アドレス交換をしてまた来週飲もうと約束し、お互い帰ろうとするところだった。
「みょうじ」
「なに?」
「出来るだけフォローするよ」
何の話かはお互い認識済みだ。
「本当に助かる」
また気の抜ける笑いを浮かべるみょうじに手を降り帰路に着く。
やばい、やばい。完璧に落ちた。ちょっと軽すぎやしないか、俺。
そんなことを思ってももう遅かった。



「いつまで学生みたいな甘酸っぱい恋愛してるんスか。もう三十路も手前でしょうに」
レジを打つ呆れ顔の黄瀬にうるさいと返した。黄瀬の目線の先には酔いつぶれて待ち合いのイスで船を漕ぐみょうじだ。
この店は黄瀬がオーナーをしている店だ。高校のときからすでにとんでもない人気を誇っていたモデル様はその後、俳優、バラエティーまで進出し、最近はこういった店まで経営してる。この世界って何でもやらないと生き残れないんっスよ、と語る黄瀬はどことなく精悍な顔つきになった気がする。
この店がオープンして以来、みょうじと二人でよく飲みにくる。最初は黄瀬に誘われてきてたのだが、今ではすっかりこの店で出される料理の虜だ。黄瀬は本来、接客しないのだが俺たちが来た時だけレジ打ちをする。
おそらくは俺の恋路を見物するため。
「この間、海常の皆と飲んだときも言いましたけど、先輩からアクション起こさないと進展しないっスよー」
はい、お釣りの856円でっす。小銭とともにありがたくアドバイスを頂戴する。
振り向くとみょうじは完全に寝落ちている。こうなったみょうじを家まで送り届けるのももうお約束だ。
「普通、毎回寝落ちた女送り届けてたら、何かしらの過ちが起こってもいいんスけどね。小堀センパイ、もしかして不能?」
「シバくぞ黄瀬」
「笠松センパイみたいなこと言わないで!」
みょうじをおぶり外に出る。秋風に火照った顔が冷えた。
「みょうじがデザート旨かったって」
「本当っスか。中学の時の友達が作ったやつ出したんスよ」
高校生のときとは変わったが、笑った顔は変わらない。
じゃあ、がんばれよ。そう声をかけた。
センパイこそ。
むかつくくらいかっこいい、いまいち憎めない後輩はそう返した。



「小堀はさぁ、優しすぎんだってぇ」
この間、海常の皆と飲んだときの森山の発言だ。
「優しすぎて身動き取れなくなってんじゃねぇか。優しさなんぞトイレに流しちまえ! そんなんじゃ他の男に取られるぞ!」
違う。俺は優しくなんかない。ただ怖いんだ。
背中のみょうじをそっと見やる。こいつの全てを預けたような寝顔は、俺とこいつの間にある友情の上にあるのだ。俺はそれを失いたくない。だから関係を進められない。
みょうじは優しいが、残酷だ。きっと俺が未練を残さぬよう、俺の気持ちをばっさりと切るだろう。その一方で、今までのように求めるのだ。優しい、友達としての、俺を。
「ずりぃよ、みょうじ」
通りがかった公園のベンチにみょうじを座らせ、俺もその横に座った。骨が無くなったようにしなだれてきたみょうじに肩を貸す。
いいよ。お前がどんなにずるくても。どうやったって、どうせ俺はお前を嫌いになれないんだから。
好きと伝えられなくても、こうして側にいれるなら、俺は構わないから。
力無く開かれた掌を取り、白く柔らかなそこに、乾いた唇を狂おしく押し付けた。