これ以上客を待たせていたら、流石に不味いと出ていきかけた桃がふと足を止めた。
「――ところで、お前、名前は?」
「……桃」
そういえば、お互い、名乗っていなかったことを思い出す。桃の言葉に、白菊が呆れたように目を細めた。それを見た桃が肩をすくめる。
「い、いいじゃねえか、別に。そんな暇なかったし、それに、詫びに働くとはいってもそんな長くいるわけじゃ、」
「……その間、彼女を"オイ"とか"てめえ"とか呼ぶつもりだった、なんて、言ったら承知しないからね」
「う、うるせえな。小姑かよ…」
「小姑で結構だよ」
それに、と白菊が鋭く睨んだ。
「――どうして、ここにいるの? 客室は逆方向なのに」
「……うっせえ。どうしようと俺の勝手だろーが」
桃が気まずそうに眼を反らしたのを白菊は見逃さなかった。気まずい雰囲気に、私はどうしたもんかと所在なげに立っていることしかできない。
白菊はため息をついた。
「……こんなこと言いたくないけど、もう好き勝手に出来る立場じゃない。そう、この間も話したろう?」
「……」
「今日も廓から出て、外をふらふらしていたみたいだし」
ちらりと白菊が私に視線をやったのが感じられる。桃が何をしていたかは知らないけれど、彼が廓から出て、外を散策していたから、私は救われ、ここにいるわけだ。桃の方をちらりと見ると、子どものようにそっぽを向いていた。
「――一体、どこに……、まさか!」
白菊の顔色が変わった。桃に詰め寄るようにして、迫る。ふんわり穏やかな彼に似合わぬ、どこか怒ったような響きだった。
「――まさか、孝太の奉公先に行ったんじゃないだろうね? ……そうなの? 桃!」
「……違え」
否定したものの、桃は目をそらしたままだった。白菊と決して目を合わせようとしない桃に、私は直感的に感じた。
――嘘だ。
……桃は、孝太って人の奉公先に行ったんだ。
私ですら気が付く真っ赤な嘘に、私が言うまでもなく、白菊も気が付いただろう。だが、白菊は何も言わずに自室の戸に手をかけた。
「……行かなかったなら、それでいいよ。これ以上、お客様を待たせるわけにはいかないし」
「分かってる」
踵を返そうとしていた桃の足が再び止まった。顔だけをこちらに向けて、やけに真面目な顔で言った。
「――忘れちまうとこだった。お前、名前は?」
「ま、真琴…」
「真琴、か。俺の名前はもう知ってんだろうが、一応言っとく」
――桃、だよ。太夫になったから、本当は美命(みこと)なんだけどな。
そう言って、桃は去っていった。その背中を見送りながら、私はさっき見た彼の横顔を思い出していた。
笑ってはいたけれど、何だか寂しそうに見えた。
どういう顔をしたらいいのか、分からないから、笑っておこう。泣きたいけれど、笑っておこう。怒りたいけど、笑っておこう。
そういう類の、どこか疲れた、我慢したような、取り繕うための笑顔。そんな風に見えた。
「――真琴さん」
白菊は何か思いつめたような顔をしていた。そして、申し訳なさそうに笑みを作る。
「頼みがあるんですけど」
「?」
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「――で?」
「……」
桃は渋面を作って、こちらを見る。私はぐっと詰まった。
……私だって、困ってるし、本当は逃げ出したい。ぎらぎら光る桃の目に怯みながら、笑って誤魔化した。
「てめえ…、白菊の手伝いはどうした?」
「し、白菊番頭がこっちを手伝えって…」
「……あいつ…」
桃が額に手をやり、深くため息をついた。
「ったく、見張りのつもりかよ…」
「い、要らないなら、わた、いや俺は、失礼します!」
慌てて立ち上がって、私はじりじりと後ずさった。戸を開けた瞬間、部屋の中から漂ってきた、いかにも体に悪そうな煙草の匂いから一刻も早く逃れたいとばかりに、私は背を向ける。
……勘弁してほしい。
確かに、そういうことをする場所だというのは、百も承知だけれど、この部屋の中で何が展開されているなんて、知りたくもない。
「――おい、待て」
「きゃっ!」
後ろから肩を掴まれて、私はつんのめるようにして立ち止まった。恐る恐る振り返ると、片手に徳利を持っている桃と目があう。
「な、なんでしょう?」
「酒。それと、」
徳利を渡す桃が顔を寄せてきたので、私は飛び退いた。それに怪訝そうな顔をして、桃はじっと私を見つめてきた。
「な、何…?」
「別に。過剰すぎなんだよ、馬鹿」
「っ! 煩い!」
からかうような軽い口調の桃に一喝して、私は早足で廊下をずんずん歩いた。桃の忍び笑いがあっという間に遠ざかっていく。歩みの勢いを戻した足に、鋭い痛みが走る。
歩みを止めて、裾を軽く翻し、足の裏を見ると、何かが刺さって血が出ていた。どうやら、割れた陶器の欠片を踏んでしまったようだ。
仕方なく、ぎこちないながらも、何とか歩いていると、足元が陰って誰かが私の横に並んだ。見上げると、見知らぬ男が立っていた。
私はぎくりと身を固くする。勿論、男嫌いなのもあるが、それだけではない。
「――そんなところで、何してる?」
「い、いや、ちょっと足を切っただけなので…」
「切った?」
眉を寄せる、その顔はやや神経質そうな印象を与えるが、桃や白菊と同じく、驚くほど綺麗に整っていた。短い黒髪に、普段ではお目にかかれないような、銀の刺繍で龍をあしらった派手な衣から見て、桃達と同業者なのかもしれない。
そんなことよりも、何より私を驚かせたのは、彼の"青い"目だ。吸い込まれそうな、深い青。
「見せてみろ」
「え、いや、あの…」
「……」
彼は無言で辺りを見渡し、手近にあった襖を開けた。彼の体の脇から辛うじて見えた中は真っ暗で、人気はない。私は彼が何をしたいのか分からず、呆気にとられた。
「? えーと、」
「――入れ」
「は?」
いいから、とでもいうように、彼は私の背を押し、私を部屋に入れると、後ろ手で襖を閉めた。完全に真っ暗になる。見えるのは、細い隙間から漏れる光だけ。
その内に、何かが擦れる音がして、行灯に明かりが灯った。薄闇に揺れる、見知らぬ彼が手招いているのが見える。
――私は、固まった。薄暗い部屋に、見知らぬ男と二人きりだ。
私は我に返って、後ずさった。
「い、いいです! 大丈夫です! 大したことないし!」
「小さな傷だからと放っておくと、痛い目を見るぞ」
「おっ、お気になさら、……痛!」
つい忘れて足を普通に地面について、私は痛みに顔をしかめた。なおさら、深く刺さった気がする。
「それ見ろ」
「……」
私は観念して、片足で軽く跳ねながら、彼に近づいた。彼はどこから取り出したのか、包帯と消毒薬でも入っているらしい小瓶を手にしている。
「座ってじっとしてろ」
「はい…」
足を預けるのは気が引けたが、そうもいっていられない。私は腰を下ろして、足を男の前に出した。
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「あ、ありがとうございました」
「別にいい」
どうも、無口らしい彼に私は礼を言った。彼はというと、聞いているのかいないのかよく分からないが、どうでも良さげだ。
手当も終わったことだし、礼もそこそこに立ち去ろうとした私の腕を彼は掴んだ。
「な、ななな何でしょう?」
「――名前」
「な、名前…?」
やけに名前を聞かれる日だなと思いながら、真剣そのものの目に負けて、私は仕方なしに答えた。
「――ま、真琴ですけど…」
「お、」
「……花霞(はなかすみ)」
彼が何かを話そうというのを遮るようにして、唸るような低い声が響いた。その声に、花霞と呼ばれた青い双眸の彼も顔を上げる。
「――ああ、お前か」
――美命。
そこには桃が立っていた。私を真ん中に、二つの見えない視線が絡み合う。何か敵意のような、そんな雰囲気を含ませながら。
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