「っぷ、」
「――え?」
しんと静まり返った空気を破ったのは、堪え切れなくなって吹き出した桃の笑い声だった。白菊が咎めるような目で桃を牽制したが、桃は構わずに続けた。
「ここで働く? お前が?」
「な、なんで、笑うんですか!?」
決死の覚悟で言ったのに、笑われるとは心外だ。大体、連れてきたのは誰だ。私は真っ赤になった。
「あ、貴方は知らないかもしれませんが、私、店番くらいまともにやってるんです! 笑われる筋合いなんてありません!」
「――桃、その辺にしときなよ」
困ったように整った眉をハの字に下げて、申し訳ないとばかりに白菊は向き直った。
「その気持ちは嬉しいけど、その…、女性はちょっと…」
「?」
やけに、白菊の歯切れが悪い。そして、言いにくそうに続けた。
「――きみ、どこを通ってきたの?」
「どこって…。どこに連れて行かれるんだろうって気が気じゃなくて、周りを見ている余裕なんて…、なので、よく――」
「人を人さらいみたいに言うんじゃねえ」
気が済んだのか笑うのを止めて、桃は面白そうに身を乗り出した。
「とんだ世間知らずのおひいさまみたいだから、教えてやるよ。――ここは、藍の世」
「あいの、よ?」
聞いたことのない言葉に私は眉間に皺を寄せた。嫌な予感がする。桃がにやにやと笑うのも気にくわない。
「やっぱ、知らねえのか。――男遊郭だよ、おひいさま」
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「じゃ、俺は紅蓮(こうれん)に呼び出されてっから」
「いってらっしゃい」
桃を見送り、「さて、」と白菊は私に向き直った。
「――落ち着いた?」
「は、はい…」
私はぎこちなく頷いた。白菊は湯呑にお茶を注ぎ足して、微笑んだ。
「お気になさらず。驚いたでしょう」
「すみません…」
私は肩をすくめた。驚いたというか、どうしたらいいのか、どういう顔をしたらいいのかわからなくて困っているのだ。
ここは陰間茶屋の一帯で、男遊郭、藍の門の中なのだと知らされて、私は卒倒しそうになった。私のような、しがない団子屋の娘には全く縁のない世界だし、話に聞いても別の世界の物語か何かのようだと思う程度でしかなかったのだから。
この数刻の間に、私は何もなければ一生お目に掛かれなかったであろう、藍の世で一と騒がれた元太夫、白菊と、現太夫、桃に会っている。しかも、その桃に助けられた。
――男嫌いな、この私が。
「顔色が悪いけど、大丈夫?」
「へ、平気です!」
滑るようにしていつの間にか、近づいてきた白菊から逃げるようにして、私は後ずさった。白菊はきょとんとしつつ、足を止める。
「本当に?」
「はいっ」
「……まあ、いいでしょう」
白菊は何かを察したように微笑むと、箪笥から何かを取り出して私に差し出した。
「ここで働くとなれば、その格好では不味い。これに着替えもらえるかな?」
「あの、これって…」
赤錆色の縦縞。これは、明らかに男物の着物だった。
「太夫を退いて番頭になったものの、僕目当てにくるお客様は未だに多いから」
苦笑して、白菊はぽつりと呟くように言った。軽く結った髪が揺れる。
「あ、あのー…、話がよく…」
「ここの使用人は男ばかりなので、女性が一人では目立つし…、それにちょうどいい牽制になるかと思ったので」
「は?」
「一石二鳥でしょう?」
それに合わせて、髪も結い直してくださいね。白菊は、着替えたら声をかけるようにと言い置いて、出ていく。
――一石二鳥、とは何のことだろう? 私は首を傾げながら、男物の着物に袖を通した。
男遊郭だろうとなんであろうと、約束は約束だ。それに、桃にこれ以上、世間知らずのお姫様だと馬鹿にされたくない。
私は帯をきつく締め、気合を入れ直した。
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