「……意味がわからん」
「? どうしたのー?」
甘えるようにしな垂れかかる女の背中に腕を回しながら、「いや、こっちの話」と誤魔化した。女の髪油の香りが今日はやけに鼻をつく。
女が自分の胸にすり寄るのを放っておきながら、煙管を吹かした。紫煙が口からふわりと立ち上る。
ふと女が顔を上げて、自分の顔を凝視している。煙管を立てかけて、何だと問えば、女が頬を撫ぜてきた。女の指が予想以上に冷たくて、肩が跳ねる。
「も…あ、違った。なんか美命の頬、腫れてない?」
「……」
化粧で綺麗に隠したつもりだったが、甘かったらしい。確かに、手加減なしに殴りつけられて口の中も少し切れていたから、大分腫れてはいるのだろう。手で触れて、ため息をつく。
「……俺を見ると、怯えた目をする女がいるんだ」
「あら、私の相手してる時に別の女の話?」
すねた口調で言いながらも、女の目は面白そうに輝いている。こんな場所で、なんて場違いな会話だろうと思いながら、話すべきか迷う。
――どうしたらいいのかわからないのが、本音で。
女なんて吐いて捨てるほど相手をしてきたが、ああいう女は初めてだ。これだから。いつまでたっても俺は妙なところが初心で困る。
少々腹をくくって、口を開いた。
「俺は…、その…、どうすりゃあいい?」
「どうすればって…、ほっとけば? 怖がられてるんでしょ?」
「……」
女が呆れ顔で、あっさりと言う。ああ、そうかと即座に返事をしかねて、俺は思わず黙った。すると、女が俺の胸から離れて、俺の煙管を奪い取った。止めようと手を伸ばした俺を交わして、肌蹴るのも構わずに立ち上がる。
女が何もかも承知したように、にやにやと笑っていて、気分が悪い。
「……ははーん。あんた、その子が気になるんだ?」
「きっ、」
――気になる? この俺が?
俺は一瞬、唖然と固まった後、つっかえながら否定した。思考がついていかない。
「な、なんで、あんな暴力女…」
「藍屋の太夫様が人並みに恋ね。かわいー」
「……触んな」
くすぐるように触れてきた女の指を払って、俺は立ち上がった。不機嫌そのものの俺を見た女が煙管を弄びながら、俺の背中に声をかけた。
「出ていくんなら、代わりの誰か寄越してよ。こっちは高い店代払って来てるんだから。――あ、紅蓮ちゃんがいいな」
「……あいつは駄目だ。客はまだ取れねえ」
「えー。あの子、馴れてないし、初心だし、可愛いわよねぇ」
俺はくすくす笑う女を横目で見ながら、戸を開けた。音もなく、するりと滑るように開いた隙間から、濁った紫煙が薄ら寒い廊下へと流れていく。廊下へと足を踏み入れようとしたその時、後ろから声がして女が俺を引き止めた。
「美命太夫。一つ、忠告しとくわ」
「?」
俺は怪訝そうな顔で振り返った。この女とは新造の頃からの顔見知りだ。相当な遊び女で、昼間からここに入り浸って湯水のごとく金を使う、正真正銘の金持ち。だが、そんな遊び方を長年していても、一向に止める人間がいないということは、こいつも寂しい人間なのだろう。
女は紫煙を吐き出して、目を細めた。
「その子がもし、私達のような世界の人間じゃないなら、深入りはしないこと」
「!」
「その子に、穢れてほしくないでしょ」
――大切なら。
俺は少しの間、女と向き合っていた。そして、お互い何事もなかったかのように別れた。
俺達の世界は綺麗であるとはどうしたっていえない。俺の手も体も、蔑まれる対象でしかない。
――だからなのか。あいつが怯えるのは。俺を怖がるのは。
……触るなと拒絶するのは。
妙な気分だった。頭からあいつが出て行かない。泣いた顔が消えない。それは、
――どうしてだ?
俺はぴたりと足を止め、振り返る。長く続く、派手な赤い壁の廊下。
――俺は、この世界の住人だ。巣立っていくことすら許されない。
そして、鳥の籠へ足を踏み入れたのは、他でもない俺自身。誰に強制されたわけではない、俺の意志。
あの女もおかしなことを言う。あいつをこっちの世界に引っ張り込もうなんて、これっぽっちも思っていない。俺の商売道具に傷をつけた、その嫌がらせの為に白菊の補佐にした。ただ、それだけ――
俺は肩をすくめて、歩き出す。
俺の気が済むまで、働いてもらえばそれで十分。せいぜい、こき使われて泣けばいい。熱を持った頬に手をやって、俺は静かに笑った。
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