\−1

 ふと、ナマエは心臓の痛みが徐々に引いていくのを感じた。それと同時に身体が活力を取り戻していくかのような、奇妙な感覚に襲われる。ベッドの縁から恐る恐る身体を持ち上げてみれば、まだ少し引き攣ったような痛みはしたものの、動けないほどではなかった。彼女はベッドの上から足を下ろし、立ち上がる。靴が見当たらなかったため裸足のまま救護室を出た。ヘルムの砦ではローハンの民が忙しなく動き回っている。ゆっくりと歩きながら、ナマエは陽の光を浴びようと外へ出た。

 冷たい風が吹き抜ける。彼女は歩いた。そこかしこにオークやウルクハイ、そしてエルフやローハンの兵の死体が転がっている。未だ作業中なのだろう、ローハンの民や兵士はその死体を運んでいた。まだ戦争が終わって二日足らずくらいだろうか。ナマエは尚も歩いた。目に飛び込んできたのは笑い合う親子、肩を叩き合う男達、両手いっぱいに薬草を運ぶ少女。ふと、戦の前のことを思い出す。私は、この光景が守れたら自分に意味があったように思えると、そう思ったのだ。いつの間にか着せられていた長いネグリジェのような服が風にはためく。一つ一つを目に焼き付けるように彼女は歩みを進めた。

「ナマエ、もう大丈夫なのですか」
「……エオウィンさん」

 崩れた砦の中から外を眺めていると、エオウィンに声を掛けられた。手に持つ籠の中には血に染まった包帯やあちこち穴が空いた衣服が入っている。ナマエはちらりとそれを視界に収め、また外を眺めた。

「もうすっかり元気です」
「……呪いの力は本当なんですね」
「はい。あ、もしかして信じてませんでした?」
「いえ、その様なことは、」
「いいんです。とても信じられることじゃない。私だって信じられなかった」

 包帯が巻かれた右手を空に伸ばしながらナマエは思う。信じたくなかった、が正しいのだ。

「ここは風が冷たい……傷に障ります。中へ入りましょう」
「そうですね。もう少しだけ散歩をしたら戻ります」

 彼女の言葉にエオウィンは眉を寄せたが、それ以上促すことはしなかった。その代わりに彼女はそっとナマエに近付いて、持っていた籠を地面に置き、少女の小さな手を取る。

「ナマエ、セオデン王に代わり貴女にお礼を申し上げます。ありがとう、ローハンの民を救ってくれて」
「そんな、大袈裟ですよ。私なんて全然役に立ってない」
「そんなことはありません。今朝、エディルという若者が私の元へ来ました。彼は貴女に救われたと言っていた。貴女はローハンのこれからを担う若者を救ったのです」
「……エディル」

 謝罪に来てくれた少年のことを思い出す。救われたのはこちらの方だとナマエは思った。

「そしてもう一つ、お詫びをしなければなりません」
「お詫び?」
「……その胸の傷」

 エオウィンの視線が、襟の間から覗く、胸に巻かれた包帯へ映る。包帯には血が滲み、元は白い筈のそれに赤い染みが広がっていた。

「ローハンの騎士が貴女に槍を突き刺したと聞きました」
「えっと……あの、ローハンの騎士はその時すべきことをしたまで……です」
「いいえ、いいえ。たとえその姿が恐ろしく見えたとしても、決してしてはならなかったことです」
「いや、彼には私が敵に見えたんです! 私だってあんな化け物の姿を見たらそうします! だから、これは仕方ないことなんです!」
「だからと言って、許されることではありません」
「えっと、あの、わ、私が許します! やられた張本人が言うんだから! ね! どうか、槍を刺した人に罰を与えないでください!」
「ですが、」
「エオウィンさん。彼は祖国を守ろうとしたんです。ローハンの民を、その笑顔を、温もりを、守ろうとしただけなんです」

 懇願するようなナマエの目にエオウィンは浅く息を吐く。そしてその瞳を見つめ返した。

「……分かっています。元より罰を与える気はありません。ただ、貴女にお詫びがしたかった」
「もう十分頂きましたよ。ここまで歩いてくる途中、たくさんの安らかな顔を見ました。それだけで、私には十分すぎるほどです」

 ナマエはにこりと笑って自身の手を握るエオウィンの綺麗な細指をそっと握り返す。それから散歩してきます、と一言置いて背を向けて歩き出した。エオウィンは少女の小さくなる背中をずっと見つめていた。ありがとう、と胸の中で零しながら。

 螺旋階段を登り、ナマエはヘルムの角笛の前までやってきた。大きく捻れたような形のそれは、陽の光に反射して鈍い色を放っている。そっと触れればひんやりとした固い感触が指に伝わってきた。ほぅ、と息を吐き出して、一つの戦争が終わったのだと実感する。けれど、まだ全てが終わったわけではない。自分が生きていることが、ナマエには何よりもそう感じさせた。

「ナマエ、探したぞ」
「……レゴラス」
「ガンダルフを呼んでくると私は言った筈だが?」

 振り返った先に眉根を寄せたレゴラスがいて、その低い声色に怒っているのだということが分かる。ビクリと身体を小さくさせた少女は、言い訳をする様に空を指差した。

「あの、えっと、外の空気が吸いたくなって、」
「病室からこの様な遠くへまでか?」
「……ごめんなさい」

 有無を言わせぬレゴラスの態度にナマエは謝罪の言葉をぽつりと落とす。レゴラスは彼女から目を逸らさずに続けた。その目は厳しい色を宿している。

「何をしている?」
「歩いてたの。戦いがあった場所を見て、ローハンの民を見て、私のしたことに意味はあったんだって、確かめたかったんだと思う」
「……彼等の笑顔は君が守ったものだよ」

 その言葉は優しかった。ナマエは苦笑を浮かべ、そうだったらいい、と溢した。

「ナマエ、話してくれないか」

 硬くなったレゴラスの声。その声に何のことを示しているのか彼女には分かった。浅く息を吐き、少しだけ考える。何から話そうか。胸に手を当てればじんわりと血が滲む。この傷のことから話さなければならないだろう。貫かれた心臓が、どうして今も尚、脈打っているのかを。つまりそれは、呪いのことだ。ねぇレゴラス、とナマエは声をかけた。

「呪いのこと覚えてる? この右手の呪い。これはね、魔狼カルハロスにかけられたサウロンの呪いなの。一つの指輪が作られた後、指輪を媒介にしてかけられたこの呪いは、指輪の持ち主である者の……『盾』となること」

 レゴラスは黙ったまま聞いている。彼女は言葉を続けた。

「『盾』の役目は、指輪の主が負うあらゆる苦痛を肩代わりすること。外傷も心の傷もすべて。その代わりに『盾』は死ぬことができない。唯一、指輪の主に殺されない限り。だからね、私はどんな怪我を負っても死なないんだ。腕を切られても、腹を裂かれても、心臓を貫かれても……他にも色々あるんだけどね、とりあえず心臓を貫かれても死ななかったのはこういう理由です。えっと……黙っていて、ごめんなさい」

 なんだか居たたまれなくなりレゴラスから目を逸らす。その時、風がざぁっと吹き荒んだ。長い髪が顔にかかり、鬱陶しい。そっとレゴラスが近付いてきて、ナマエの顔にかかる髪を避けてやる。彼女の耳に髪をかけ、伸びたな、と溢した。それからナマエの瞳を真っ直ぐに見つめる。アイスブルーのそれは見透かす様に少女を見ていた。形の良い唇がゆっくりと開く。

「本当は知っていたんだ」
「え、」
「ただ、君の口から真実を聞きたかった」

 レゴラスの目に光が見える。ナマエは眩しそうに目を細めた。

「アラゴルンに聞いたんだ。君が心臓を貫かれた後、どうしても納得できなかったから」

 そう言ってあの時のことを思い出しているのか、レゴラスの顔が苦々しいものに変わる。ナマエはなぜか心に温かいものを感じた。愛しい女性の姿が脳裏をよぎる。

「私にはね、愛する人がいたの。ううん、今でもずっと愛してる。真っ暗闇の憎悪と飢えと苦しみの世界から、彼女は私を救い出してくれた。初めて知ったんだ。温かい太陽の木漏れ日、優しく頬を撫でるそよ風、光が差し込むような柔らかな笑顔。ファンゴルンの森の中を飽きることなく一日中駆け回ったよ。彼女と一緒なら目に映るものすべてが輝いて見えた……裏切られる、その時までは」

 ナマエ、とレゴラスが名前を呼ぶ。それから彼女はすべてを話した。ガラドリエルから話し聞かされたこと、思い出したこと、そのすべてを。

「愛する者をこの手にかけた。呪いはきっと罰なんだ。私への罰。私はもう二度と彼女以外を愛さないと誓った筈なのに、それを破ってしまった」
「何を愛したんだ」
「父と母、家族と呼べる者、友人、そして優しく平和なあの世界」
「異界のことか」
「……もう思い出すことはできないけどね。記憶は全部なくなっちゃったから」

 ナマエは遠くを見つめながら言葉を紡ぐ。十数年だけ生きた、あの世界のことを思い出すかのように。けれど、以前の記憶はさざ波のように引いていってしまう。もう何も思い出すことはできなかった。きっと居たのだろう父も母も友人も、何もかも。それでも、フアンだけが、彼女だけが脳裏に焼きつくようにナマエの記憶の中でいつまでも輝いている。

「愛してはいけなかった。恋してはいけなかった。それは、赦されることではなかった」

 エオウィンの言葉を思い出す。愛することを美徳だと言ってくれた彼女の言葉を。私の思いは決して美徳なんかではない。邪悪なものでしかないのだ。

「ナマエ」

 レゴラスがそっとナマエの腕を引く。朝陽に包まれ微笑む彼女は儚くて、今にも消えてしまいそうだと思った。

「レゴラス、私はいなくならなければならないんだ」
「それは……しかし、」
「話を聞いたんなら分かるよね。もし指輪を奪われてサウロンの手に渡ったら、私は奴の痛みを背負うことになる。それはきっとこの世界の生きとし生けるものを殺め、美しい森林や海原は見る影もなく破壊され、世界はサウロンの手に落ちる。そんなこと、絶対に許されちゃいけない」

 ナマエは腕を掴むレゴラスの手にそっと自身の手を乗せ、優しく外す。そして愛おしむように目前に広がる大地を見た。

「指輪が葬られた時、きっと私も消える。そうすれば、世界に平和が訪れる」
「しかし、君はどうなるのだ。それでいいのか」
「私は永遠に眠れるんだよ。フアンの横で」

 思いを馳せ、無意識に笑みを浮かべる。しかしレゴラスはナマエの肩を捕まえ、強引に己の方へ振り向かせた。真摯なその瞳には、驚いたように目を見開く自分の姿が映っている。

「私の横に、いてはくれないのか。私やギムリ、アラゴルン、旅の仲間と共に。いてはくれないのか」

 力強く告げられたその言葉に今度は眉根を寄せる。これ以上どうしろと言うのだろう。そんな夢物語は叶えたくても叶えられない望みなのだ。気が付けばナマエは怒鳴り返していた。

「私だって、私だって出来ればそうしたい! けど、駄目なんだ。無理なんだ。私の命は指輪と共にある!」
「ならば、」
「お願いだよレゴラス。私はもう誰も愛したくないんだ。怖い、怖いんだよ。誰かを愛することも、裏切られることも。愛することで私はきっと弱くなる。今よりもずっと弱くなってしまう!」
「弱くなればいい。誰も君に強さなど望んではいない」
「なんで、なんでそんなこと言うの!」
「……君は大切な仲間だ。仲間の命をどうして見殺しになんかできる?」
「でも仕方のないことなの!」
「なら、笑え。仕方のないことなら笑って運命を受け入れればいい。けれど、君は泣いているじゃないか。その涙が君の本当の気持ちなんじゃないのか」
「……レゴラス」

 いつの間にかナマエの瞳からは涙が溢れ出ていた。レゴラスはその涙を優しく指の腹で拭い、少女の頬を両手で包み込む。まるで逃がさないとでも言うように、彼女の瞳の中に入り込んで視線を逸らさなかった。

「最期の時まで共にいるよ。指輪が葬られ、君の命が消えてしまうと言うのなら、その時まで……友の隣に、私はいよう」

 どうしてだろう。もう何も愛したくないのに。神はそれすらもお許しにならない。これも私に与えられた罰なのだろうか。フロド、早く指輪を葬って。私はきっと愛してしまう。この冷たくて温かい世界を。目の前にいる友を。旅の仲間を。

 ーーすべてを、愛してしまう。

prve    index    next



×