U−1

 裂け谷について少々の説明を受けた後、ナマエはふらりと眩暈を感じた。自身の足元がぐにゃりと歪んでいるように見える。まるで此処に立っていることが信じられないと言うように、綺麗な石畳みを見つめていると吐き気がした。
 話を聞きながら、所々説明中に分からない単語が出てきたので質問をすれば、エルロンドというエルフは丁寧に教えてくれた。どうやら自分は本当におとぎ話の世界に足を踏み入れてしまったらしい。此処がアリスの世界だったらどんなに良かったことだろう。幼い頃に読んだ童話を思い出して項垂れる。私にはアリスのような好奇心も勇気もない。それに、アリスの世界ほど此処は優しくないように思えた。実際その通りだ。彼女は既に何度か命の危機に脅かされていた。

 彼等が言うには、どうやら此の世界にはとてつもなく大きな危機が訪れているらしい。冥王サウロンという悪者が復活しようとしているとかなんとか。まあよくある話だな、などと思うのは、ナマエがまだ其れ等を自分とはまるで関係の無いものだと思っていたからだ。夢とはもう思えないが、現実逃避はしていた。人とはそういう生き物なのである。
 その冥王サウロンの復活を阻止するにはどうしたらいいか、会議をするべく格種族の長や遣いの者が此処、裂け谷に集まったという。裂け谷とはエルロンド卿が治めるエルフの部族の一つだと聞いた。ナマエが現れたのはまさにその会議の終盤だったらしく、突然光の中から現れた彼女に、集まった者達は敵襲が現れたのかと驚いたらしい。弓矢や剣を向けられたことを思い出し、ナマエは自分の置かれていた状況にゾクリと背筋を粟立たせた。
 話の概要はなんとか理解することができたが、何故そんな世界が破滅するかしないかの物騒なところに自分が居るのかが分からない。夢にしてはリアル過ぎるし、私はこんなに想像力豊かではない。やはりナマエにはこの事態を飲み込むことはできなかった。まだ難しい数学の問題を目の前に出された方がマシだとさえ思った。少なくとも、答えはある。

「あの、」
「なんじゃ?」

 ナマエは取り敢えず先程から考えていた気掛かりな事を一つ、訊いてみることにした。しかし、自分では既にその答えが分かっている。それでも聞かなければ気が済まなかった。まだ望みはあるのだと、そう思いたかった。誰かにそう言って欲しかった。ナマエには理解できていた。何故かは分からない。先程ガンダルフを目にした時と同じ感覚だ。けれどそれを納得するには、彼女はまだ幼かった。ガンダルフという名前の本人曰く魔法使いらしい老人に話し掛け、不安に揺れる心を押さえながら怖々と口を開いた。

「私、帰りたいんですけど……」
「ふむ、そうじゃのう」
「ど、どうやったら帰れますか?」
「分からぬ」
「……分から、ない」
「寧ろ、お主は帰ってきたのじゃよ」

 分かっている。何が分かっているのか自分でもよく分からないが、けれど分かっていた。震え出す身体を抑えようと鞄を抱き締める。中に入っていた化粧ポーチの角が胸に当たって痛かったが、それどころではなかった。取り敢えず落ち着こう、とナマエは意思とは反対に益々早くなる動悸を抑えようと試みる。しかし動悸が治まることはない。
 帰れないことは分かっていた。なぜなら、分かるからだ。説明することのできない初めての感覚に気分が悪くなる。自身の奥底でこれが真実なのだと、今までの人生すべてがまやかしなのだと、全身が訴えている。けれど納得することはできない。愛する家族、友人、尊い思い出の数々が、己の胸の内に確かに息づいている。それなのに、納得することなどできやしない。頭の中をガンガンと金槌で打たれているような感覚に陥る。頭が割れそうに痛かった。

「……帰ることは、できない」
「そうじゃ」

 独り言のように落とした言葉に間髪入れず返事がなされる。ナマエはガンダルフを見つめた。そもそも別の世界とか元の世界とかの括りがおかしい。そこだけは理解ができないのである。彼女の中で世界は一つなのだ。日本やアメリカがあり、オリンピックやワールドカップなどの世界的なイベントがあり、テレビや車などの電子機器や移動手段がある。便利で、平和な世界。こんなお伽話のような世界があるわけがない。ある筈がない。有り得ない。ナマエは出来の悪い映画の中にでもいるような気分であった。ガンダルフは愕然とした表情を浮かべるナマエを見つめ眉尻を下げたかと思うと、彼女の肩に手を置き二人にしか聞こえぬようそっと小声で話し出した。

「よく聞くのじゃ。お主は……人間ではない。儂らイスタリの魔法使いに近い、いや同じと言ってもよい。マイアールなのじゃ。それ故、殺すことはない」

 安心するがよい、と言ってガンダルフは微笑んで肩から手を離した。目の前の老人はいったい何を言っているのだろう? 人間ではない? イスタリ? マイアール? 言葉の意味が不明すぎる。何に安心すればいいのかも分からない。一体どういうことなんだ、きちんと意味が分かるように説明してくれよ! と叫びそうになる一歩手前のところでナマエは決壊しそうな自身の感情を押し止めた。小声で話された意味を考える。これは、他の者に悟られてはいけないことなのだろう。ぐるぐると混乱する頭の中で、それでも冷静な部分があった。その部分だけがすっと冷めていて、彼女に考えることを強要する。ナマエはそれに従った。

「……私は、これからどうすれば」
「行くのじゃ。その身に帯びた使命を果たさねばならぬ。異界渡りをした者は何か意味を背負ってその地に馳せる。お主もそれを果たすのじゃ」

 帰ってきた、とナマエは漠然と思った。そしてまた一つ理解した。自分は此の世界に何か意味持って帰ってきたのだと。頭の中ではっきりと声がする。自分は此処に帰ってきたのだ。使命を果たすために。しかし、心の中では元いた世界のことばかりが浮かんだ。家族や友達がいる大切な場所。大切な世界。私はもう別の世界で大切なものを作ってしまったのだ。ああ、なんてことをしてしまったんだろう。大切なものはもう二度と作らないとあれほど心に誓った筈なのに。なぜそんな愚かなことをしてしまったのか。悔やんでも悔やんでも、生きてきたすべてを消し去ってしまうことなどできはしない。すまない、すまない、と心の中で誰かに謝罪する。誰への謝罪なのだろう。ナマエは考えたが分からなかった。私は今、誰に謝ったのだろう。大切なものって何なのだろう。誰に誓ったのだろう。まるでそれが悪いことだとでも言うように、謝罪したのは何故なんだろう。

「……私の使命とは、何なんでしょう」
「儂には分からぬ。しかし、此の場所に、此の時にお主が現れたのは、運命と言えよう」
「なぜ、ですか?」
「指輪を棄てる旅。儂にはお主が此処にいる意味のように思う。まるで此の旅に沿うようにお主は異界渡りをしてきたのじゃ」

 周りを見渡してふと思う。この人達は何でこんなに冷静でいられるのだろう、とか、私みたいなのがいきなり現れて不審に思わないのかな、とか、焦っている筈なのに妙に落ち着いた自分がいて、ナマエの脳裏に疑問ばかりが浮上する。ああ、冗談だったらどんなに良いだろう、とナマエは大人しく聞き耳を立てている周りを視界に入れて思った。無遠慮なその視線の数々にカッと身体が燃えるように熱くなる。気が付けば、言葉を放っていた。

「わからない……私には分からないっ、此処にいることをなぜ当然のように思うのか、なぜ帰ってきたと思うのか、どうして後悔しているのか! 誰に謝っているのか! 私には何も分からない、分からないんだよ!」

 人前でこんなに叫んだことはない。支離滅裂な言葉を、自分でも訳の分からないことを。ちゃんと心は落ち着いている筈なのに頭の中はぐちゃぐちゃで、津波のように不安と恐怖が一気に自分を襲うように押し寄せて来て、なんだか酷く気持ちが悪い。ああ、本気で泣くかもしれない。もうここ何年も泣いてなんかいないのに、こんな大勢の前で泣くことになるなんて羞恥で死ねる気がする、なんて思っていたら瞳が水の膜を張ったようにナマエの視界を邪魔しだした。

「何も、分からないん、だよっ」

 吐き捨てるように言う。一旦涙が出てしまうともう何も考えることはできなくなり、緊張が極限に達していた身体はそれを示唆するように突然震えだした。ガタカダと一目見て分かるほど震えている身体に足が体重を支え切れず、膝がガクンと勢いよく折れ曲がる。

「うぁっ」

 ふっ、と足の力が抜けてしまったかと思えばガタリと後ろにあった石の台座になだれ込み、ナマエは慌てて手を付いた。手の平にひんやりとした物を感じた瞬間、灼熱に燃えるような熱い何かが自身の手を襲った。

「ッ……!」

 突然手の平に強烈な熱が走り、ナマエは顔を歪め思わずその物体を弾き飛ばした。どうやらそれは金色の輪っか状の物だったようで、コロコロと転がったかと思うと音も無くその場に横たわった。高熱で焼けた後のように、筆記体で書かれた何かの文字が赤く毒々しく光を発している。

「大丈夫か!?」
「あ、は……はい」

 茫然としていた彼女に駆け寄ってきたのは、黒髪にウェーブが掛かった人間の男で、ナマエは瞠目しながらも返事をした。今のは一体なんだったのだろう? いい知れない不安がまた彼女を襲う。直接的ではないけれど、先程よりもその不安はいくらか膨張しているようだった。

「怪我をしているッ……エルロンド卿!」

 男の野太い声に驚いて目線を下に降ろせば、金色の輪っかに触れた右の手の平が赤く黒ずんだ焼跡を作っていた。傷跡を視界に入れた瞬間ズキズキと痛み出し、自らの意志で熱を持ったように熱くなるのを感じる。

(何これっ……苦しい……! )

 息の仕方を忘れたように呼吸が苦しくなり、焼けるような痛みに目の前がぼやけて見えなくなるのを意識の中で感じた。その瞬間、頭の中で獰猛な獣の遠吠えが鳴り響く。酷く懐かしいその声に、安堵と共に憎悪が募った。憎悪と共に愛しさが募った。そして遠ざかっていってしまう。初めての感覚だったけれどナマエは理解することができた。このままでは意識を失う、と。

「っ……い、た……いっ!」
「アラゴルン、その者を地面に寝かせるのだ! 決して傷に触れてはならぬ」
「ガンダルフ!」
「フロド、指輪を」
「う、うん、分かった」

 騒めき出す周りの者を黙らせ的確に指示を出し、ガンダルフは苦しみ喘ぐナマエの元へ走り寄った。手の平にくっきりと浮かぶ焼跡を見て顔を歪ませたかと思うと、静かにそっと呪文のようなものを唱え出す。ナマエには何を言っているのかよく分からなかったが、ガンダルフの紡ぐ言葉を聞くと不思議と痛みや苦しみが自然に和らいでいくのを意識の片隅で感じた。

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