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 ナマエはアラゴルンに教えられることすべてを話した。フロドとの会話を聞かれてしまった以上、もう誤魔化すこともシラを切ることも彼女には出来なかったのだ。話を聞いている時のアラゴルンの目は厳しく、少しでも何かを隠そうものなら殺されそうな勢いに、ナマエは呪いのこと、そして前世が魔狼カルハロスであることを彼に話さなければならなかった。

「このことは他言せぬ方が良いだろう」

 すべてを聞き終わった後、アラゴルンは眉間に皺を寄せ難しい表情を浮かべてそう言った。

「でも、旅をしていく上で皆に隠し通せる自信がないよ」
「指輪の呪いに関してだけだ。お前が魔狼カルハロスの魂を持った生まれ変わりであることは、話すべきだろう。呪いのことは不安材料にしかならないが、魔狼が味方になったと思えば力強い。その上、モリアでのことも説明できるだろう」

 ナマエもその意見には賛成であったし、指輪の呪いのことは彼女とアラゴルンの二人ーーフロドを含めると三人ーーの秘密となった。ふと彼を見やれば、神妙な面持ちのアラゴルンと目がかち合う。

「魔狼カルハロス……か」
「意外でしょう? こんなに可愛い女の子があのアンファウグリアだなんて」
「……私はその頃まだ生まれていないのだ。是非見てみたかったものだよ、本物の貪欲なる赤き胃を」

 そう言ってアラゴルンはにやりと笑った。ナマエの冗談に返すだけのユーモアのセンスはあるらしい。アラゴルンはこれ以上なにも話す気はないのか、「行くぞ」と背を向けて歩き始めてしまったのでナマエもおとなしく付いていくことしかできなかった。

 アラゴルンは呪いに関すること以外を旅の仲間に説明した。アラゴルンのお陰でナマエは説明の手間が省けたので大いに助かった。アラゴルンが呪いについて話さなかったことに対し、フロドが何を思ったのかは分からない。ナマエがアラゴルンにそのことを話してないと思ったのかもしれないし、アラゴルンがあえて話していないと分かっていたのかもしれない。しかし、それを聞くことは憚られた。









 一行はロスロリエンの森を旅立った。エルフのマントを被り、小さな小舟に三頭分かれて見たこともない大きな河を下っていく。森を発つ際、ナマエはガラドリエルに心の中で声をかけられた。道を選ぶのは、自分次第だと。フロドと話がしたかったが、乗る船が分かれてしまった為なかなかそれは難しそうだった。それに例え同じ船だったとしてもこの話題には触れられないだろう。フロドと、落ち着いてゆっくり話がしたい。はやく陸へ着かないかな、と溜め息を吐きながらナマエは乗り合わせたギムリのドワーフ豆知識とやらをぼんやりと聞いていた。後ろではレゴラスが櫂を漕いでる。

 途中、アルゴナスの石像と呼ばれるなんでもアラゴルンの先祖だというとてつもなく巨大な二体の石像を通り過ぎ、一行は漸く陸へ船を停めた。今日はここで野宿をするのだろうか。きょろきょろと辺りを見回していたナマエは、二人のホビットに両側から挟み討ちされたことに気付かなかった。

「わ、メリー、ピピン、驚いた。どうしたの?」
「なぁなぁ、ナマエってさ、めちゃくちゃ大きい狼なんだろ!」
「えっと、前世はね」
「すごいや! 僕たちナマエがモリアで馬くらいの大きさの狼になる所を見たんだけど、それって今もできるの?」
「やろうと思えば……たぶん」
「見たい!!」
「え、」
「見たい! 狼見たい! 背に乗りたい!」

 突如騒ぎ出したホビット二人にナマエは当惑する。助けを求めて周りを見れば、興味深そうにこちらを見る視線がちらほら。なるほど、今ばかりはこのホビット達を止める者は誰もいないらしい。皆、ナマエが変身する所に興味があるのだろう。居心地の悪さを感じながら、ナマエは小さく溜息をついた。選択肢は一つしかない。ぐっと力を込めて己の姿をイメージする。大きさは……ホビットが二人乗れるくらいでいいだろう。ごくりと唾を飲み込む音が耳にするりと入り込む。五感がやけに冴えている。狼の姿になると、成る程、人の形をしている時とは比べものにならないほど全てが研ぎ澄まされるらしい。

「これで満足かな?」
「わ、喋った!」

 ピピンが驚いて飛び退いた。それに笑いを漏らしながら、ナマエは言葉を続けた。

「そりゃ、喋るよ。なんだと思ってるの」
「だって、狼の姿なんだぜ! 端から見たら驚きもんだって!」

 興奮したようにぴょんぴょん跳ねながらメリーが叫ぶ。それから恐る恐るナマエに近づいてきた。

「さ、触ってみてもいい?」
「いいよ。それより、背に乗りたいんじゃなかったの?」

 からかうようにナマエが言えば、メリーは「まずは触ってからだ」と言った。アラゴルンもレゴラスもホビット達の行動に笑っている。ギムリは斧を構えていて、警戒しているのが分かった。少し前までだったらショックを受けそうな行動だが、今はなんだかそれすらも可笑しく見えた。メリーが乗りやすいよう、黒狼となった身を屈めてやる。しかそ、その時、ふと嫌な心地がナマエを襲った。以前にも体験したことがあるそれは、不安、焦燥、恐怖、猜疑心などに溢れたフロドの心。ナマエの心へ直に伝えてくる無意識の救援信号。

 フロドが、危ない……?

「ーッ!」

 気が付くと、ナマエは一目散に走り出していた。なんの因果か呪いがすべてを教えてくれる。フロドの居場所を、フロドの恐怖を、フロドの悲しみを。はやく、はやく彼を助けなければ。ーーフロドが死ぬような目に遭ったら、私が痛い目に合うから? いや、違う。私はただ、友達を助けたいのだ。運命共同体と言ってくれた彼を、自分を守りたいと言ってくれた彼を、絶対に死なせやしない。これは贖罪だ。

「ーーッ! ーー!」

 ボロミアが叫んでいる声が聞こえる。野太いそれは狂ったように懺悔と憎悪が込められていた。フロドの匂いはそのすぐ近くにあった。五感が優れた今のナマエには手に取るように分かる。取り敢えずそちらへ向かおうと足を進めれば、先程のフロドの感情は、ボロミアに向けられたものなのだろうことが分かった。彼への恐怖が痛い程に伝わってきたのだ。
 ああ、まさか、そんな筈はないと思いたくても、フロドの心がすべてを教えてくれる。しかしボロミアは、ボロミアは心優しい人間なのだ。まだ魔狼だと明かす前、ロスロリエンの森で敵が味方かも分からない私の話を聞いてくれて、大切な故郷の話をしてくれた。そんな優しい心を持った彼が、どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。ボロミアは優しすぎたのだ。優しい心はゴンドールという国をその肩に背負った彼を蝕んだ。そしてその優しさに指輪は漬け込んだのだ。ああ、憎い。指輪が憎い。サウロンが憎い。殺してやりたい、と思ったその時、ドクン、と心臓が一際大きな脈を打った。

「フロド? だめだ、その眼は……駄目ッ!」

 彼から流れ込んできたのは感情ではなく映像だった。瞼のない炎に縁取られた大きな大きな眼がフロドの前に立ちはだかるナマエを無視してその後ろにいるフロドを、いや、指輪を見ていた。足が意志を持ったように突然動き出す。フロドの元へ風を切るように、自分でも驚くほど速く森を駆け抜けた。

「フロドッ!」
「ナマエ……!?」

 森を駆け下りていくフロドを見つけ大声で彼を呼ぶ。フロドは一瞬、狼の姿をしたナマエに気を取られたが、何を言うでもなくまた走り出した。

「待って、フロド! お願い!」

 彼女を無視して駆け下りていくフロド。何があったのかは分からないけれど、その必死な形相と闇の気配から危険が迫っていることだけは理解できた。ならば、私は指輪の主である彼を守ることに徹しなければならない。彼の側から離れることはできない。例え呪いが増長しようとも、私を殺すことができるのは唯一、フロドだけなのだから。もし指輪が闇の勢力に奪われるようなことがあれば、その瞬間、私はフロドに殺してもらわなければならない。でなければ、私はサウロンの『盾』になってしまうのだから。

「フロド! 走りながらでいい、聞いて! 私は此の世界で、あなたの為だけに存在する。決してサウロンの為なんかじゃない。奴は己の為だけに私に呪いを掛けたんだろうけど、でも運命の悪戯で私は奴ではなくフロドと運命共同体になったんだ! あなたが好きで指輪を持ってるわけじゃないことも分かってる。でも、それでも私達は繋がっている! 私はあなたの為に生きている! あなたには私を使う権利がある!」

 フロドは前を向いたまま駆け下りていく。ナマエは走ってそれを追い掛ける。狼の姿をした今なら、簡単に追い付くことができた。ナマエはフロドの目前に躍り出る。

「フロド聞いて。私は、あなたを、フロドを守りたい。私みたいな貧弱な奴にそんなこと言われても迷惑かもしれないけど、でも、私ほら、魔狼カルハロスの生まれ変わりって奴で、実は結構強いらしいし、フロドが疲れたら背に乗せて何処までも駆けることだってできる。一緒にいて絶対に損はさせないよ。フロドの重荷を私も一緒に背負える。それがサウロンのかけた呪いっていうのがちょっと気に入らないけど、でも、奴は自分がかけたその呪いのせいで私達に協力しているただの馬鹿なんだよ。ねぇ、フロド。あなたは私にとっても優しくしてくれたよね。見ず知らずの私を、運命共同体だって、守るって、言ってくれたよね。嬉しかったの。自分の命ばかり考えていた私にとっては、本当に本当に涙が出るほど嬉しかった! だから、私はあなたを守りたい!」
「ナマエッ……!」

 下を向いていたフロドが漸くナマエを見た。その表情は複雑で、様々な感情が入り交じり読み取ることができない。それでも、心が教えてくれた。彼の本当の気持ちが彼女の中へ溢れ出す。

「ナマエ! 僕も、僕も君のことを友達だと思ってる! 僕だって君を守りたいんだよ! 僕のせいで友達が傷付くところなんて見たくない! 僕のせいで苦しい思いをさせたくない! ナマエ、言ったでしょう。君は女の子で、僕は男だ。女の子は男が守ってあげなくちゃ。それに僕には、君を殺すことなんて絶対に出来ないよ。だったら、なるべく遠くにいて、そこから僕の痛みを少しだけ背負ってほしい……だから、だから僕は一人で行かなくちゃ!」

 澱みのない真っ直ぐな視線で本音をぶつけてくれるフロド。ナマエは涙が出そうになった。やはり私はこの世界に来てからだいぶ涙腺がゆるくなったらしい。また行ってしまいそうになるフロドにナマエは慌てて声を掛けた。

「フロド! 辛くなったら心の中で私を呼んで。私とあなたは繋がっているから、遠くにいてもきっと声が聞こえるよ! あなたの重荷の半分でいい、私にも背負わせて……!」
「ありがとう……ナマエ」

 フロドは最後に寂しそうに微笑んだかと思えば、また急いで船のある方へ駆け下りて行ってしまった。

 森の中が闇の気配で犇いている。私が生きている限り、指輪の主であるフロドは死なない。たとえフロドが大きな怪我を負ったとしても、その半分は私が引き受けるからきっと大丈夫。そして、私を殺すことができるのは、この世界で唯一フロドだけ。よし、完璧だ。フロドは生きているだけで私を守ってくれていることになるし、私もフロドを守れていることになる。こんなに素晴らしい関係は他のどこを探したってないだろう。愛より深い関係って、私とフロドのことを言うのかもしれない。なんて、冗談を言う余裕も漸く出てきた。戦うのはまだ怖いけど、仲間を失うことに比べたらどうってことない。近付いてくる闇の気配に、醜い雄叫び。ほんの少しだけ震える手を気合いで押し止め、ナマエは人間の姿に戻る。そして、アルウェンからもらったエルフの剣を勢いよく引き抜いた。

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