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 皆が皆、辺りを見回すが、音は益々大きくなるだけで未だその正体を現さない。けれど、灰色の魔法使いだけはその正体を知っていた。宮殿の奥底へ目を凝らしながら、ガンダルフはボロミアの問いに静かに答えた。

「バルログじゃ……古代に生まれた悪鬼……お主らの手には負えぬ、逃げろ!」

 そして一行は再び出口へ向かって走り出す。フロドはナマエをその胸に抱え、不安を押し潰すかのように力を込めた。未だ目覚める気配のない小さな狼は両の瞼をしっかりと閉じている。このまま目を覚まさないのでは? という思いがフロドの頭を過ぎるが、ガンダルフは彼女が目を覚ますまでと言ったのだ。目覚めない筈がない。フロドはナマエに対し、不思議な感覚を持っていた。戦闘になり、彼女は人が変わったようにその戦いに身を投じ信じられない力を発揮するのをこの目で見た。普通の女の子だと思っていた彼女は、普通ではなかった。そしてその姿に、フロドは言いようのない安堵を覚えたのだ。ナマエが近くにいると、不安や恐怖がすっとさざ波のように引いていくのを感じた。そして彼女が気絶してしまった今、以前のように不安が彼を襲うのに変わりはなく足が縺れ転びそうになりながらも、フロドは懸命に走った。


 夢を見ていた。ナマエは己が大きな狼の姿をしていることに気が付いた。そして暖かい白に包まれた世界で、最愛の者と共にいる。唄声はやはり優しく、闇に覆われた心をゆっくりと溶かしていく。ぼんやりとした視界の中で、その手に頬を撫でられた気がした。ふわりと心が軽くなり、むず痒くて居心地が悪い筈なのに、それは不思議と嫌ではなく。地獄の炎と苦悶と飢えだけを注ぎ込まれて育った己にとって、それは初めての感情で、愛しい、恋しい、と知ってしまった時にはもう遅かった。愛さずにはいられなかった。惹かれない筈がなかった。愛を育み、満ち足りた世界の中で、それが主君への裏切りだとは露ほどにも思わなかった。己にも誰かを愛する権利があるのだと、愚かにも勘違いしていたのだ。
 ーー愛は、粉々に砕け散った。


 ハッと、ナマエは目を覚ます。一行は階段に差し掛かり、また不運に見回れているところであった。あろうことか下り階段の一部が崩壊していたのだ。身軽なレゴラスが先頭をきり、その後にガンダルフ、そしてボロミアがメリーとピピンを抱えて飛び移った。サムを投げ渡し、ギムリと続いたところで階段と階段の空間が運悪くさらに広がり、その上バルログにまで追い付かれてしまった。フロドとアラゴルン、そしてフロドの腕の中にいるナマエは不安定な足場のせいで絶体絶命だ。
 ナマエはブルリと震えた。それは恐怖からでも歓喜からでもなく、ただの生理現象であった。フロドの胸元から外に飛び出し、驚いた彼が何かを言う前にもう一度ブルリと震える。頭の中ではイメージが出来ていた。夢の中での己の姿。邪悪な大狼。その瞬間、ナマエは馬のように大きな狼の姿になった。そうして驚愕に目を見開いたフロドとアラゴルンに背に乗るようにと身を屈める。意図に気づいたアラゴルンはフロドを掴んでナマエの上にひらりと飛び乗った。そしてその巨体は大して助走を付けることもなく、軽々と段下へ飛び移る。

「助かった!」

 ピピンが叫ぶ。後ろで階段が崩れていくのを地響きと共に感じながら、必死に炎に包まれた悪鬼から逃げ惑う。バルログ。ウドゥンの焔。ナマエには分かった。奴とて昔はマイアールだったのだ。ナマエにはマイアールが何かも既に分かっていた。いや、頭で理解したのではない。魂が、そう言っている。
 フロドとアラゴルンが背から滑り落ちる。ナマエはそれに気付かなかった。そして自分がもう既に犬ほどの大きさでしかないことにも。折れている筈の左腕はいつの間にか治っており、その他の裂傷も既に跡すらない。ぐっ、と吐き気がしたかと思えば、喉に迫り上がってきた物を抑えきれず口から吐き出す。どす黒い血の塊。それを確認したところで、視界が急に高くなるのを感じた。身体がカッと熱くなり、心臓がドクンと大きく脈打つ。ナマエは人間の姿に戻っていた。呆然としていると、力強く手を引かれる。フロドだ。意識がはっきりとし、引かれるままに走り出す。けれど、人間の足と悪魔の足ではどうしたって距離を稼ぐどころか逃げ切ることなんて出来やしない。そうして橋に到達し皆が渡りきったところで、

「ガンダルフッ!」

 フロドが叫んだ。

 バルログが火の鞭を振り上げガンダルフに打ち付ける。しかしガンダルフはその攻撃を止め、更に反撃を繰り出した。悪魔は一瞬怯むが、それでもガンダルフに襲い掛かろうと橋に足をかける。その時、細く脆い橋が悪魔の重さに耐え切れず勢いを付けて崩れ落ちていく。そして炎の悪鬼バルログは暗闇の底へ沈んだ。


 ガンダルフと、共に。


 落ちたかと思った瞬間、しぶくとくもバルログは道連れにガンダルフの足に火の鞭を巻き付けたのだ。足を掬われたガンダルは為す術を無くし、そして――

「行け馬鹿者」

 フロドにそう言い残し、自ら手を離した。泣き叫び戻ろうとするフロドを止め、ボロミアがその小さな身体を抱えて走り出す。一行はモリアの坑道を抜け出した。

 かけがえのない、大きな犠牲を払って。

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