彼女はノーと言えないの続き

 ▽1日目

 狭いアパートの中でも一際存在感がある三人掛けのソファー。そこに座るイカつい男は、つい先日窓ガラスをぶち破って現れた侵入者だ。まさか並んで座るわけにもいかず、なまえはキラキラした笑顔を浮かべる男の正面に小さな椅子を置いて座っていた。家主であるはずの彼女はとても臆病な上に長いものには巻かれる主義の人間で、自分の頭蓋骨など軽く握り潰せそうな男にまさかハートの形をした背もたれの椅子を勧めるわけにもいかず、やむなくソファーに座らせたのだ。もちろん先日彼が図々しくも仮眠を取ったソファーである。体重が何キロあるのか知らないが、お気に入りのソファーの一部は彼の腕の形に凹んでいた。
 ちら、と腕を見てすぐに目を逸らすなまえ。男が着ている大きめのシャツの下に、絶対に忘れられそうにない見た目をした機械仕掛けの腕はまだあるのだろうか。今は洋服のお陰で見えていないが、頼むから絶対に袖を捲らないでくれと彼女は神に祈った。もはやあれはトラウマである。
 ビクビクと怯えつつ男が口火を切るのを待つ。まるで圧迫面接のような心地に襲われながら、なまえは肩を寄せて体を縮こませた。なんだか息が苦しいのだが、未知の機械とかで部屋の酸素でも奪われているのだろうか。もしかしたら彼は生物兵器なのかもしれない。意思を持ってしまったが故に実験中に研究所から逃げ出し、政府に追われる羽目になって、それで……。

「なまえ」
「は、はい!」

 アホみたいなことを考えていた彼女は、突然名前を呼ばれて慌てて返事をする。目が合った男はにこりと微笑んだ。う、やっぱり顔がいいな。なんて思った彼女は現金な女である。バッキーは怯えるなまえに気付いているのかいないのか、キッチンを指差してこう告げた。

「お湯、沸いてるみたいだ」
「あ!」

 お茶を淹れるためにお湯を沸かしていたことをすっかり忘れていた。自分のために沸かしていたのだが、ここは客人(?)にもお茶を勧めるべきだろうか? 勧めたくないな。長居してほしくないな。さっさと帰ってほしいな。なんて心の中で願いを唱えながら、一応礼儀として聞いてみる。

「あの、お茶、飲みますか……?(断れ断れ断れ)」
「ありがとう、是非もらおうかな」
「……はい」

 お茶淹れてきますね……と、か細い声で断りながらなまえはハートの形をした背もたれの椅子から腰を持ち上げた。キッチンに逃げ込んだ彼女は、無意識に止めていた息をゆっくりと吐き出す。緊張からか生命の危機からかその両方なのだろうが、知らず知らずのうちに呼吸を止めていたらしい。どうにも息苦しいと思った。

 突然の来訪に驚いてしまったのもあるが、我が物顔でずかずかと家の中へ入ってくる男を止めることなど彼女には出来なかった。家に入られてすぐに警察を呼ぼうと思ったが、肝心のスマートフォンは男が向かう先のリビングに置いてきてしまったのだ。だったら外に逃げ出せば、と考えたなまえは廊下を歩く男に背を向けるようくるりと方向転換。そのまま玄関に向かおうとすれば、後ろからグッと肩を掴まれた。

「どうした? 買い物か?」
「ひっ。い、いえ、あの、」

 右肩からミシリと音がした。ちょっと待って。肩が。肩がなくなる。

「す、スリッパを……! 私、家ではスリッパ派でして!」
「スリッパ? そうなのか。これは失礼なことをした」

 なまえの足元を見て申し訳なさそうに頭を下げる男。家ではスリッパに履き替えるようにしていて良かったと彼女は心の底から思った。慌てて玄関の靴棚から来客用のスリッパを取り出し、男の足元に置く。彼はおとなしく靴を脱いでスリッパを履いてくれた。それが10分ほど前の出来事だ。

 なまえはリビングに戻りたくないなと思いながら、ゆっくりと丁寧に時間をかけまくってお茶を淹れた。トレーに乗せて、ぷるぷると震えながらリビングに戻る。それからマグカップをそっとバッキーの前のテーブルに置いた。

「ありがとう。良い香りだな」
「は、はい。あの、アールグレイです」
「紅茶なんて久しぶりに飲むよ」
「ひっ。おおおお嫌いでしたか?」
「いや、嫌いじゃない。あまり飲む機会に恵まれなくてな」

 飲む機会に恵まれないってなんだ。紅茶なんてどこでだって飲めるだろう。と彼女は思ったが、何も言わなかった。

「今後1ヶ月はこんなに美味しい紅茶が飲めるのかと思うと嬉しいよ」
「そ、それは良かったです…………え?」
「ん?」

 男の発言の意味がよくわからず、フリーズするなまえ。そういえば家の中へ入ってくる前もよくわからないことを言っていたな。再び眠りに着く前にとか、1ヶ月だけ許可を貰ってきたとか、家がないからここに住まわせてくれないか、とか。家がないから……ここに住まわせてくれ?

「え。えええ!」
「どうしたんだ?」

 慌てて立ち上がったなまえに首を傾げるバッキー。う、顔がいいな。って、いやいやそうじゃなくて。驚きと恐怖で今の今までよく理解できていなかったのだが、まさか本当にここに住むつもりなの!? あまりにもな出来事にはくはくと口を開けたり閉じたりするなまえ。言葉が出てこないとは正にこのことだ。そんな彼女に対し、バッキーは大丈夫か? と眉を寄せて心配そうに見つめてくる。何も言えず魚のように口をパクパクしている彼女に、おろおろしながら手を伸ばしてくるが触ってはこない。根は紳士なのだろう。いやでもさっき肩を思いっきり掴まれた気がする。

「あの、ちょっと、ちょっと待ってください」
「ああ。大丈夫か? 顔が真っ青だ。横になった方がいい」

 血の気が引いてるのはお前のせいだよ、とは口が裂けても言えなかった。

「こっちへ」
「うぇ?」

 腕を優しく引かれ、ソファーに腰を落ち着かせられる。それからなぜか頭を掴まれて、男の硬い膝の上に乗せられた。え。なにこれなにこれなにこれ。

「よし、これでいい」

 なんでこの人、膝枕してんの。

「なまえ? 大丈夫か?」
「あ、は、はいっ。大丈夫……です」
「顔色が悪いから、少し横になっている方がいいだろう。このまま寝てしまっても構わないぞ」
「え、いやでも、」
「大丈夫だ。体調が良くなかったのに快く迎え入れてくれて感謝する。君のことは俺がしっかり面倒を見るからどうか頼ってくれ」

 こんなに話が噛み合ってないこともあるんだな……と寝心地が悪すぎる膝の上でなまえは思った。ゴツゴツしていて硬いせいかほっぺたの肉が痛いよと悲鳴をあげている。それに、男の膝の位置が高いせいで首が引っ張られる。だけど本人は善意でしてるっぽいから、なかなかどうして断るのも難しい。というより、彼女は人生で何かを断れたことがほとんどない。
 なんとか帰ってくれないかなとなまえは思った。前回も寝て起きたらいなくなってたし、またそのパターンを期待しちゃダメかな。面倒を見るとか頼ってくれとか言われても、嫌な予感しかしない。だって窓ガラスぶち割って侵入してきた人だよ? 腕も機械だったし、ニュースで流れてたし、絶対に一般人じゃないよね。眠りに着くとか許可をもらってきたとかいうのもすごく怪しいし……やっぱり絶対に帰ってもらわないと。 そうしてなまえは、彼女には大変珍しく男の申し出を断ることにした。だが、彼女はノーと言えない人種。断り方を考えるのにも一苦労した。

 えっと、警察は……最後の手段にしよう。悪い人じゃないのはなんとなくわかる。だったら、同居できない理由を作っちゃうのはどうかな!? 例えば、えーと……えーと……えーと……そうだ! 彼氏がいるから同居はできない、とか。これだったら完璧じゃない!? 怪しまれたらお兄ちゃんに事情を説明して彼氏のフリをしてもらおう。

「あ、あの……」
「ん? なんだ?」
「私、その……申し訳ないんですけど、か、かれ、かれちがいてっ」
「かれち」

 か、噛んだぁあ。「かれち」ってなんだよかれちって。恥ずかしくて顔が真っ赤になるなまえに「かれちとは?」と真顔で聞いてくる空気の読めない男アメリカ代表のバッキー。心の中でひぃひぃ言いながら、彼女は穴があったら飛び込んで入口を塞いで来年の春まで冬眠してしまいたいと思った。

「な、なんでもないです」
「そうか」

 なんでもなくない! なんでもなくないんだよぉ!! でも、言い出せる雰囲気ではなくなまえは羞恥で顔を火照らしたまま黙り込むしかなかった。そんな彼女を見て何を思ったのか、勘違い天然男U.S.A.代表のバッキーが突然グッと顔を近付けてきた。

「へ! な、なんですか!?」
「顔が赤い。熱があるかもしれない」

 そう言ってなまえの前髪と自分の前髪を掻き上げるバッキー。驚いて目を見開き硬直するなまえ。そんな彼女にはお構いなしに、男はおでこをくっつけてきた。

「ん、熱はないな」

 ひぃいいいい!! 声にならない叫びを上げて、なまえは己の心臓辺りを鷲掴んだ。ぎゅうっと服を握り締めて、息を止める。そんな初(うぶ)な反応をする彼女にバッキーは目尻を下げてふわりと微笑んだ。

「これからよろしくな、なまえ」

 し、死ぬ。よろしくしたくない。

 ーーそんなこんなで始まった同居生活1日目。


20240312

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