突然、窓ガラスが割れたと思ったら知らない男性がゴロゴロと転がり込んできた。日曜の昼下がり、テレビを見ていたなまえは口に含んでいたコーヒーを盛大に噴き出した。

「ぎゃ、」
「叫ぶな!」

 大声を出そうとした瞬間、素早く動いた男に手で口を押さえ付けられる。「んー! んー!」と唸りながら男を叩いたが屈強な腕はビクともせず、ていうか機械で、なまえは「あ、死んだわこれ」と思った。

 いきなり現れた黒髪の男性は、自分を押さえ付けながら窓の外を気にしている。ヘリコプターが飛ぶ時のバラバラとした音が響いていて、なまえは何がなんだが分からず目尻に涙を浮かべた。すると、さっきまで見ていたテレビがニュース速報を流し出す。そこには逃げる男の映像がアップで映されていて、今自分の口を押さえている男と大変似ていた。なまえはやっぱり「あ、死んだわ私」と思った。

「すまない、こうするしかなかったんだ」

 どのくらい時間が経ったのかわからないが、男は暫くすると彼女の口元から手を離した。なまえはごほごほと噎せながら、恐怖に怯えつつ男を見る。テレビは既に他のニュースを流していて、彼が気付くことはなかった。
 なまえは何でもいいから早く出て行ってくれ、と思った。謝罪をした男性はバツが悪そうな顔をしていて、噎せる彼女を「大丈夫か?」と気遣ってくる。意外にも紳士的な男に、これ以上の危害は加えられそうになかった。いやわからないけど。だって明らかに犯罪者だし。と考え、だとしたら彼を刺激するようなことはせず大人しく帰ってもらうのが一番だろうと彼女は思った。
 なぜかその場を動かない男になまえは極力優しい声を出しながら、そっと玄関を指差す。

「あ、の、お出口はあちらです……よ?」
「ああ、すまないが水を一杯もらえるか?」
「は、はい!」

 え、居座る気!? なわけないよね? 水を飲んだら出てってくれるよね!? そう心の中で叫び、なまえは泣きそうになりながらキッチンへ駆け込んだ。警察に電話をしようと思ったが、間の悪いことに携帯電話は男の居るリビングにある。何これ、マジで無理ゲーじゃね。と思いつつ、ゲーム脳の彼女は震える手でコップに水を入れ、リビングに居る男の元へ向かった。
 リビングに入ると、男はソファーに腰掛けていた。え? 嘘でしょ? 水を飲んだら出て行ってくれると思っていたなまえはソファーに座る男を見て、マジで卒倒しかける。いや、ダメだ。下手に刺激したら何をされるかわからない。彼女は水の入ったコップをゆっくりと見ず知らずの男に手渡した。

「ありがとう、えっと君は、」
「え? あ、ああ、なまえ・みょうじです」
「そうか。私はジェームズ・ブキャナン・バーンズ。親しい者からはバッキーと呼ばれている」
「ど、どうも」

 なんでナチュラルに自己紹介!? なまえには意味がわからなかった。しかし刺激してはいけない、と己に言い聞かせ、なんとか平静を保つ。男は水をグビグビと飲み干し、コップをテーブルの上に置いた。それから怯えている彼女を見る。

「迷惑をかけて申し訳ない。もう一つ頼みがあるんだが、」
「え、な、なんですか?」
「少し仮眠を取らせてもらえないか?」
「仮眠…?」

 え、居座るの? 男の発言に驚きすぎてなまえは頭が真っ白になった。彼女は昔から人に仕事を押し付けられたり、なかなか自分の意見を言えなかったり、消極的な人間であるため損をすることが多かった。ノーと言えない人種である彼女の性格を男が見抜いたのかは分からないが、結局なまえは首を縦に振った。

「あ、あの…ベッドはこちらです」
「いや、ここで問題ない。ベッドまで使わせてもらうのは気が引ける」

 いや気が引けるって、あなた私の家の窓ガラスぶっ壊してんだけど!? と思ったが、ノーと言えない彼女は「そうですか」と苦笑いを浮かべた。

「あの、じゃあ毛布持ってきますね」
「助かる」

 寝室へ向かいながら、なまえはなんでこんなことになったんだ? と答えの出ないことを考えた。とにかく、さっさと、出て行ってほしい。警察に連絡をしたいが、携帯電話は男の座るソファーの上に置いてある。なんでだよちくしょう! せめてテーブルに置いておけば良かった…! しかし、今は過去を悔やんだところで状況が変わるわけじゃない。男が寝入ったところで携帯電話を回収、または外に出て助けを呼ぼうと決め、なまえは毛布を持ってリビングへ戻った。

「これ、どうぞ」
「本当に助かる。ありがとうなまえ」
「い、いえ」

 よく見ると、なかなかどうしてイイ男じゃないか。毛布を受け取った彼が僅かに浮かべた笑顔になまえは驚いた。しかし騙されるな自分。この人は犯罪者だ。こうしている間にも私を殺そうと考えているかもしれない。彼女はごくりと唾を飲み込み、男を見やる。一方、彼もなまえを見ていて申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「それと…すまないが、何か軽く食べられるものはないか?」
「あ、えっと、サンドイッチとかでいいですか?」
「ああ」

 思わず答えてしまったが、この人どんだけ注文してくるの!? となまえは思った。しかし彼女はノーと言えない人種。心の中で泣き叫びながら、そのままキッチンへ向かった。

「私…何してんだ…」

 自分があまりにも不甲斐なく、キッチンでぽつりと呟く。いやでも、食べ物を渡さないとキレて殺されるかもしれないし。うん。
 そうして彼女はサンドイッチを作り始めた。具はトマトとキュウリとツナ缶とマヨネーズの物と、あとは炒り卵とレタスでいいか、などと考えるなまえはとても流されやすい人間だった。

 サンドイッチを作り終え、リビングへ向かう。ソファーに寝転がっている男を覗き込むと、スースーと寝息を立てていた。起こさないよう慎重に皿をテーブルの上に置き、毛布が剥がれていたのでそっと肩にかける。いや、私なにしてんの? 自分の行動に心の中でツッコミを入れてから、なまえは携帯電話のことを思い出した。そうだ、警察に連絡しよう! と考えるが、いや待て、もし彼が逃げ延びて通報した私に復讐をしにきたらどうする!? と思い至る。起きてサンドイッチを食べてそのまま帰ってくれれば事なきを得るのでは? そうだ、それしかない。なまえは手をポンっと叩いて彼に背を向けた。彼女は昔から問題と直面するのが苦手だった。

「寝室に行こう。私も寝よう。それしかない」

 寝て起きたら彼が居なくなっていることを願い、危機管理能力の低い彼女はそのままベッドルームへ向かった。鍵を掛け、布団に潜り込む。これは最早夢だったことにしてしまおうと、なまえはそのまま目を瞑った。



「なまえ、起きてくれ」
「ん…あと5分…」
「すまない、時間がないんだ」
「む、り」
「私はもう行かなければならない。頼む、起きてくれ」
「ん……かぎ、これ」
「あ、ああ。わかった。鍵を掛けて行く。また来る」

 夢うつつで誰かと話をしている。寝起きの悪いなまえは、友人が泊まりにきた時など鍵を渡して帰ってもらうことが多い。今日は誰が泊まりに来ていたんだっけ、と考えながらゆっくりと目を開ける。いや待て。今日は誰も来ていない! 少なくとも友人は! ガバリと起き上がり、目の前を見る。そこには誰もいなかった。そして突然現れた男のことを思い出してサッと顔が青くなる。もしかしてさっきの、あの人じゃないよね!?
 ベッドサイドに置いてある家の鍵は忽然と姿を消していた。嘘でしょ、と思いながら寝室から出る。因みに寝室のドアはなぜか壊れていた。

「い、いない…!」

 リビングに男の姿はなかった。それは嬉しいことなのだが、先程のやり取りを思い出すと不安でたまらない。テーブルの上の皿は空になっていて、その横にメモが置いてあるのをなまえは発見した。慌てて手に取ると、そこには綺麗な筆記体で文章が書かれている。

『サンドイッチをどうもありがとう。とても美味かった。色々と迷惑をかけてすまない。窓ガラスは必ず弁償する。バッキー』

 な、なんだこれ。弁償とかもういいから、絶対に来ないでくれ。となまえは思った。それから鍵のことを思い出し、彼女はサンダルを履いて慌てて外へ出る。アパートのポストを確認すれば、そこにはチラシしか入っておらず鍵はなかった。まさか持って行ったの!? 彼女は絶叫した。ポストに入れて帰ってくれれば良かったものを、なんで持って帰ってんの!?

「……鍵、替えよう。今すぐ」

 そう思い至り、部屋に戻ってからすぐにアパートの管理人と鍵の会社に電話をする。3日くらいしてようやく鍵を取り替えることが出来たのだが、この時点でなまえは忘れていた。相手は、窓からいつでも侵入可能な犯罪者なのである。



 それから時を経て3ヶ月後、もう既に忘れていた彼女の元へバッキーは現れた。

「なまえ、久しぶりだな」
「ど、どうも」

 自宅の呼び鈴が鳴り、頼んでいた中華料理が届いたのだと思い込んだなまえが玄関を開けると、目の前には3ヶ月前に窓ガラスをぶち破った男がいた。彼女は意識が遠のきかけた。

「再び眠りに着く前に、君にどうしても会いたかったんだ」
「え、眠り…? え?」
「1ヶ月だけ許可を貰ってきた。この1ヶ月で君にお礼とお詫びがしたい」
「1ヶ月…? え?」
「すまないが、私には家がない。ここに住まわせてもらえるか?」
「え、いや、あの?」

 なまえはノーと言えない人種。我が物顔でずかずかと部屋の中へ入ってくる男を追い出すことなど、彼女には到底できなかった。


190610

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