その傷付いた肌を目にした瞬間、嘘でしょ、と思わず言葉が滑り落ちた。なまえはどうするこもできず、フロドの裸をただただ見つめる。そこに刻まれた夥しい数の傷痕が、彼の体を歪な形に見せていた。

「フロド、なにこれ」
「なにって……うーんと、傷?」
「そうじゃなくて、なんでこんなに傷があるわけ? 一体どこへ旅に行ってたの。何なのこれは」

 なまえには意味がわからなかった。一年と少し前のこと、ビルボの誕生日祝いの後フロドの誕生日もお祝いするために彼女は袋小路屋敷へ遊びに訪れた。しかし、肝心のフロドはサムと一緒に旅へ出掛けるところで、ゆっくりと祝うことなど出来なかった。因みにその旅はブリー村というホビット庄から少し離れた場所に行くだけのもので、二、三週間足らずで行って帰ってこられる筈であった。少なくとも、十三ヶ月もかからない。それなのに、フロドを筆頭にサムもメリーもピピンも、彼らは一年以上もホビット庄を留守にしたのだ。毎年一緒に春は苺を摘みに行き、夏は川遊びをして、秋には栗のイガイガを投げ合い、冬は穴の中で過ごした。それなのに、フロドは帰ってこなかった。彼のいない日々はまるで色褪せた絵画のようで、なまえにとってそれは地獄とも呼べるような世界であった。
 それがやっと帰ってきたかと思えば、コレだ。身体は傷だらけ、瞳には少し暗い影が差し、なんだか口数も減った。雰囲気の変わった彼を心配して毎日のように袋小路屋敷へ訪れなければ、この身体の傷にも気付かなかっただろう。なまえはちょうどフロドの着替え途中に屋敷へ押し入ってきたのだった。

「そうだな…色々と不思議なことが起こったんだ。話しても信じてもらえるかどうか…」
「なにそれ。信じるよ。フロドの言うことだったらなんでも信じる」
「はは。そうだね、なまえは信じるね。これには色々と深いわけがあって……詳しくは、今この本に書いてるんだ」
「何これ。『ホビットの冒険 ビルボ・バギンズ著』? これビルボの冒険譚じゃない。フロドのじゃないでしょ」
「うん。これの後にね、僕の冒険も記してる途中なんだ」
「あっそう。じゃあ貸して、今から読むから」
「まだ出来ていないよ」
「途中でもいい。私は今すぐその傷の理由も長かった旅の訳も知りたいの」

 なまえはフロドから重厚な本をむしり取り、『ホビットの冒険』を飛ばしてフロドの章から読み始めた。黙々と読み進めるその姿にフロドはどぎまぎとしていたが、彼女の読むスピードは早く、あっという間にページが捲られていく。そしてまだ書きかけのそれを読み終わったかと思うと、猛然とフロドに詰め寄った。

「それで? これはモリアの坑道でガンダルフがバルログと戦って深い闇の中へ落ちてしまう所までしか書いてないけど、この後どうなったの? その一つの指輪とかいうやつを破壊できたわけ?」
「そう。だから僕はここへ帰ってきたんだよ」
「……フロド」

 なまえは目眩がしたのか、フラリと足を躓かせてフロドの身体に凭れかかってきた。上半身裸の彼は驚いて彼女の肩を掴む。

「え、なまえ? ど、どうしたの!?」
「ちょっと暫くこのままで」

 はあ、となまえは溜息をついた。その声には安堵だとか心配だとか様々な想いが詰まっていたが、それよりもフロドは自身の耳を掠める彼女の息に身体が熱くなるのを感じた。なまえの体温が伝わってきて、どんどん身体が火照ってくる。フロドは唐突にサムの言っていた言葉を思い出す。彼は自分が結婚するならローズしかいないと言っていたが、フロドにとってそれはなまえしかいなかった。なまえ、と名前を呼んでそっと彼女の身体を離す。顔を見れば、彼女は瞳に涙を堪えフロドを一心に見つめていた。

「フロド、お願いだから私に何も言わずもう何処にもいかないで」
「うん、ごめん。なまえにこんな顔をさせるなんて、僕はなんてことをしてしまったんだろう」
「……過去のことはもういい。でも会えなかった十三ヶ月分、ぎゅってして」

 彼女にしては珍しく甘えた態度に、フロドは少し顔を綻ばせた。そしてご要望通り、その背中に腕を回す。

「なまえ……僕はね、指輪を葬った後、君のことを一番初めに思い出した。なまえと苺を摘みに行ったこと、森の中を一日中駆け回ったこと、ビルボの書斎で飽きることなく本を読んだよね」
「ふふ。そうそう、ビルボったら私達が本の配列をぐちゃぐちゃにしたー! ってカンカンになって怒ってたっけ」
「なまえ、君がいなければ僕は指輪を葬れなかったよ。いつも心の中には君がいた」
「……フロド」

 フロドはなまえの顔にそっと己の顔を近付ける。それから彼女の苺のように赤くてぷっくりとした唇に、自身のそれを押し付けた。

「やわらかい」
「そんなこと言うなんて、ムードも何もない男ね」
「ごめんよ。でも僕は今、上半身裸の体を晒す滑稽な男なんだ」
「それもそうね。じゃあ許す」

 くすりと笑って小鳥が啄むようなキスをする。フロドの中に、旅の間には感じられなかった温かみがじんわりと広がっていく。幸せ≠ニいう感情に包まれたのは、とても久しぶりのことであった。

「となると、この傷はフロドが世界を救った証なんだね」
「そうなるのかな?」
「痛い?」
「まだ少し痛むことはあるよ。でも、今はこんな傷の話なんかより、なまえともっとキスがしたい」

 驚いて真っ赤になるなまえにくすりと笑い、フロドは彼女の頬を両手で包み込んだ。そしてまるで愛おしむかのように何度も何度も口付けを交わした。サム、もしかしたら僕の方が早く子供ができるかもしれないね、と心の中でこぼせば、なまえが身動ぎをして身体を離す。

「フ、フロド、息が続かないよ、もう少し手加減して」

 なんて可愛いことを言うのだろう。りんごのように赤くなった頬にちゅっと軽くキスを落とす。なまえは嬉しそうにフロドの指に己の指を絡ませ、それから彼の身体に痛々しく残る傷痕に唇を寄せた。

「なまえ?」
「なんだか男らしくなったフロドにドキドキしちゃう。どうしよう心臓が持たないかも」

 サム、どうやら僕の命は目の前の彼女に握られているらしい。こんなに可愛い生き物が存在しただなんて、世界はやはり捨てたもんじゃない。フロドはなまえをひょいっと横抱きにして、驚く彼女を寝室へ連れて行く。なまえは口をパクパクと魚のように開閉させていたが、フロドがキスをしてそれを閉じさせた。

「フ、フロド?」
「君がいけないんだよ。男の着替え中に入ってなんかくるから」
「どうしたのフロド、なんだかあなたらしくないようだけど」
「旅をして、僕は少し変わったんだ」
「どんな風に?」
「少しだけ、強引になったんだよ」

 バタン。扉が閉まる。さあ、ここからは二人だけの大人の時間。なまえが信じられないという思いでフロドを見やれば、彼は綺麗な顔でにやりと笑った。



After all, life is just like a dream.
結局、人生とは夢のようなものさ


190524
title by ニルヴァーナ

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