口に出そうとして、どうにも躊躇われるその言葉。なまえは何度も何度も音にしようと試みたが、やはり溢れる音は眉根を寄せるもので、彼女は諦めたように浅く息を吐いた。そして、目の前でこちらを懇願するように見つめながら手を握ってくる男を、マジ勘弁してほしいと思いながら睨みつける。
「本当に言いづらいのよ、あんたの名前」
「そう言わずに。ほれ、もう一度」
「嫌よ。それよりレゴラスはどこ? 私の可愛いレゴラスは」
「私の名を呼んでくれるまで会わせることはできぬ」
ふん、と鼻息を鳴らして言った男になまえは怒りを通り越して呆れを感じる。こいつは馬鹿なんじゃないのか、と本気で思った。
「なんで私が私の息子に会うためにあんたの許可が必要なのよ」
「それはあやつが私の息子でもあるからだ」
「なんで私はあんたなんかと結婚したんだろう」
「それは其方が私のことを愛しているからであろう」
スランドゥイルのその言い草になまえは目を見張った。どうやら彼は事実を捻じ曲げて捉えてしまっているらしい。なまえは親切にも夢から目を覚まさせてやるように言った。
「あんたが結婚してくれなければ私の一族を滅ぼすって脅したからでしょ、この腐れ闇の森のエルフめが」
「なまえ、口が悪いぞ」
「はあ、実家に帰りたい」
「それはならぬ。もしもう一度実家に帰るなどと口にしたら、私はお前の実家を焼き払わなければならなくなる」
「本当マジ頼むから勘弁して」
この男はやると言ったらやる男だ。葡萄酒と財宝に目がない知能指数の低い男だが、その力だけは本物である。でなければ、自分は今頃ここにはいない。本当こいつ絞め殺したろか、となまえが本気で考え始めた時、幼い息子が欠伸をしながらやって来た。
「母上、父上、レゴラスはもう五つでございます。そろそろ母上と寝所(しんじょ)を別にしたいと思っております」
「まあ、何を言うのですかレゴラス! 母はまだ其方のことが心配です」
「なまえ、レゴラスもこう言うておるのだ。そろそろ別れて寝たらどうだ? ん? 寂しければ私が一緒に其方と寝てやろうというのに」
なまえは気持ちの悪いものでも見るような目で夫を見た。それからまるで馬鹿は黙ってろ、とでも言うように吐き棄てる。
「私はそれが嫌なのです、スラ、スランドゥイル。ああ言いづらい。ほんっと忌々しいわ。ほらレゴラス、お父様の名前を呼んでごらん? もし呼べたら今日から新しい寝所をお前に与えてあげよう」
「分かりました母上。えっと、スラ、スラヌ、スラニィ、ディ、えっと、」
スランドゥイルはレゴラスに頑張れ、頑張れ息子よ、と声援を送ったが、息子が父の名前を呼ぶことはとうとうできなかった。
「レゴラス、お前にはまだ早かったようですね。そら、寝る支度をしてきなさい」
「……はい、母上」
落ち込んで肩を落とした息子がとてとて歩いて行ってしまうと、スランドゥイルはその場に崩れ落ちた。四つん這いになり、悔しそうに大理石のような床を叩いている。
「残念ね、私はレゴラスと寝ます。あなたもあまり葡萄酒ばかり飲んでいないで偶には早くお休みになったらいかが」
「なまえが隣で寝てくれるのであれば喜んでそうしよう」
「葡萄酒でも飲んでなさい。おやすみ」
闇の森の奥方は手厳しい。スランドゥイルは今日もキツいアルコール度数の葡萄酒に慰められるのであった。
「母上はどうして父上にそう厳しいのです?」
レゴラスはベッドに寝転がりながら、自分を寝かしつけようとしている母に不思議そうに尋ねた。なまえは微笑みを浮かべ、レゴラスの問いに答える。
「お父様はね、結婚記念日に私にラスガレンの白い首飾りをドワーフの名工に頼んで作らせてプレゼントしてくれると約束したのに、やっと出来たその首飾りをドワーフなんかと喧嘩して持ち帰ってこなかったのよ」
「それだけ?」
「ラスガレンはシンダール語で「緑の葉」という意味を持ちます。レゴラス、お前の名は「緑葉」という意味を持ちますね? 母はその首飾りをお前のように大切にし、いつかお前の妻になる女性に贈りたかったのですよ」
「ですが母上、そこまで父上に冷たくしなくても……」
「レゴラス、女性とは怖い生き物なのです。もし女性と約束をするならしっかりと覚えておくのですよ。女の恨みは冥王より恐ろしい、と」
レゴラスは考えたが、よく分からなかったので眠ることにした。彼が愛を知るのは、これからずっと先のお話である。
「父上の名を呼んであげないのもまだ怒っているからですか?」
「いいえ、それは単に呼びづらいからです」
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楽しかった。スラ様ファンの方ごめんなさい。