▼ Inside story:我の宝珠(リクエストNo.1)
「わんっ」
我が採った果物を美味しそうに頬張る。
その赤い果物はそれほど美味なのか、いや我の娘が美味そうに食っているだけか。ほのかに赤い汁を口のあたりにつけ、満足そうに息を吐く。
もう満腹なのか、すこしぷっくりとした腹を上にして寝ている。そんな娘の口周りを丁寧に舐め上げた。
擽ったそうに身を捩り、我にその白き毛並みを摺り寄せる。
やがて眠くなったのか、微睡みの世界へと意識を落としていった。
横向けに寝転がり小さく息を立てる。
我の娘は、愛(う)い。
我(わたし)の名は響生(ひびき)。
響いて生きると書いて『ひびき』と読む、白狼の長である。
小高い丘に聳え立つこの学園の守り人をして幾年になるのか、長いこといるような気がしてならない。
人間よりは長く生きる我ら白狼という種族は、人間が感じる時の感覚と違うあまりに自身の時を覚えることが難しい。
ただ、ある人間とのかかわりから、その人間の成長を観察することで自身の時を覚えるようになった。
その人間はやけに優秀で、動物好きで、冷めた男だった。
そしてどうしようもない程勉学にしか興味をもたず、男女関係には目もくれなかった。
我ら白狼は優秀な人間をより好む。それは意志の疎通に関して、優秀なものほど理解が早いからだ。
白狼の仔は適齢になるとパートナーを探し、決めて、その人間が学園を卒業し関係を断つまで続ける。
人間によって一生パートナーでいるものもいれば、学園を卒業してすぐに関係を断つものもいる。我(わたし)の場合は前者で、その人間とは長い付き合いになる。
その人間の名は廉(れん)と言った。
廉は孤高を好んだ。
人間は群れる生き物だと認識していた我にとっては、とても目新しい存在でもあった。
彼ら人間の美醜はよくはわからないが、廉は所謂美形というものであった。短く切り揃えられた髪、鋭く、でもどこか気だるげな瞳、鼻梁はすっととおっていて顔には一点の汚れもない
背丈もそれなりに、人間ではかなりの長身であるようで、その顔立ちは少しだけ厳つく見える男前。
眉目秀麗、成績優秀、冷静沈着、どこをみても完璧と謳われた男。でも我からしてみれば欠点だらけの、駄目男だった。
廉はいつでも群れに入ることを拒んでいた。それが我にとっては非常に寂しく感じられ、また誰かと居ることの楽しさを知らない廉が非常に残念に思えた。
その当時の我には愛すべき雌がいた。自分よりも小さな身体であるのにとても活発で、いつでも爛々とした瞳を輝かせていた。
我が隣にいてほしいと、初めて願った雌だった。彼女は小柄ではあるものの、その知能は我と同等にあった。
つややかな毛並みは手入れが行き届いていて、でもところどころに見られるお転婆さが彼女の本質であることは理解していた。
そしてそんな活発でお転婆な彼女ではあったが、如何せん彼女は身体が弱かった。所謂虚弱体質というもので、彼女はすぐに病にかかったりもした。
でも我らは白狼。ひとより長い生命力をもち、免疫力も回復能力も遙かにもった生き物だ。
彼女は罹(かか)って治りそしてまた罹ってを繰り返していた。そんな彼女ではあったが、それでも笑顔を絶やすことは無かった。
そんな彼女とツガイになって早幾年、我の愛する彼女はどの雌よりもなお美しく気高かった。
その彼女との間に仔ができたことを知ったのは、今まで最も桜が美しく咲いた、ある春のことだった。
愛した彼女との間に仔ができた。それ以上の喜びはなかった。
普段はあまり感情をあらわにしない我だが、その日ばかりは昂らずにはいられなかった。
我のパートナーである廉に報告し、学園内に住まう生き物すべてに通達する。
この学園の護りを一手に司る我の、その気高き血を引き継ぐ仔が生れるのだ。最高峰の白狼と謳われたこの我の、血を継ぐ仔が!
我は嬉しくてたまらなかった。身籠って神経質になっている彼女を興奮させないように、我は暫くのあいだ廉のところにいたのだが、廉にもずいぶんと迷惑をかけた。
2、3年前になってから漸くツガイらしき女を見つけたらしい廉は、ここ最近どこか我のように浮かれていた。うむ、よくわかる。
我もツガイかもしれない彼女と出会ったときは、今の廉のように浮かれに浮かれ、父白狼に五月蠅いと吠えられたものだ。
長い付き合いとなるパートナーにツガイらしき女が現れ、そして我には新たな生命の誕生が待ち受け、幸せに満ちていた。
そんな我らが住まう学園もまた、暖かい雰囲気に包まれいてた。
暖かい学園の雰囲気が変わったのは、それから間もなくしてのことだった。
あからさまに変わったわけではなかったが、暖かく包まれていた学園内が少しだけ濁り、亀裂ができたように思えた。
我の愛する彼女はその影響を受けるように体調を崩し、どこか落ち着かない様子を見せた。廉も少しだけ疲れたようにため息を吐いては、ツガイらしき女と会えないことを嘆いていた。
学園に入った亀裂はさらに深く伸び、劇的に学園が変わったのは、梅雨入りを間近に控えた日のことだった。
我の愛する彼女は産気づき、朝から苦し気に唸っていた。
そして午前9時になったころ、我と彼女の第一子となる雄の白狼が生れた。それは元気に鳴き声を上げて、彼女の祝福を受けていた。
白狼夫婦に生まれるのはたいていが雄であり、雌はなかなか生まれない。それゆえに今の学園内に住まう白狼の雌も、限りがあるのだ。
我は彼女を手に入れるために、彼女の親に何度も申し込みを続けやっとのこと手に入れた口である。
そんな彼女との間に生まれた仔は、どれも等しく可愛らしい。
第一子が生れてからは、順に間をあけながら生まれた。天候は我らに味方したのか、暑すぎることもなく寒すぎるこもない中での出産のであった。
途中までは母子とも健康体で、次の仔も順調に生まれるだろうと思っていた。
だが我の愛する彼女の容体が急変し、天候も悪くなっていく一方で、次の仔も生まれない。
そこからは、難産になった。
最後の仔が生れたのは、それから1時間以上も後のことになった。
息絶え絶えの彼女は、弱弱しい力で仔を撫でた。その仔は、雌だった。
初めての雌の仔に、その時の我は浮かれていた。雌の仔、我の仔、彼女によくにた、我らの仔。
でもその浮かれも、あたり一面に漂った血の臭いに全て吹き飛ばされた。
弱弱しく喘いでいた彼女も、その血の臭いを感じ取ったのだろう。落ち着きなく鳴いて、自分の懐に生まれた仔たちを囲いだした。
その姿は弱弱しくも我が仔を守る母白狼の立派な姿で、我はそんな彼女を労うように舐め上げ、血の臭いの発生源を探した。
この学園の護りをつかさどる我の嗅覚にかかれば、こんなに強い臭いだ。探すなんて簡単なことだった。
その臭いの発生源は、彼女の出産場所のすぐ近くだった。
我が護るこの学園は、小高い丘の上に聳え立っていた。その下は急斜面の崖になっており、その前に立ち入り禁止の看板が貼られているはずなのだ。
そもそも立ち入り禁止区域になっている中庭には特定の生徒、たとえば成績優秀者や白狼をパートナーとするものしか入れない。
なのになぜ、この崖の下から血の臭いが、こんなにも強く漂ってくるのだろうか。答えは簡単だ。
崖の下にいる人物が、強く臭うほどの大量の血を流していたらからだ。
まるで血の水たまりかのようで、その人物の周りを満たしていた。小さく空気を吸う。臭いは、鉄味を強く帯びていた。
そして我は人間特有の、我ら獣にしかわからない生の香りが、そこにはなかった。
空は一面のアカ。彼(・)を連れて降りた崖は、煉獄の炎を感じさせるほどの殺意に満ちていた。
彼(・)を案内し終えた我は、彼女のもとに急いで戻った。
我はもちろん、彼(・)のことも気にはなる。なんせ長年の付き合いだ。
だが、今の我にとっては、なによりも愛する彼女と、その間に生まれた仔が一番大事だった。他の生き物たちは、そんな我を非常な生物だと思うだろうか。
そう思われても仕方がない、そう我は自身でも思っていた。思っていても、その時の我にとって最優先されるのは家族なのだ。
急いで駆ける。木の合間を素早く切り抜けて、薄暗くなった道を風のように跳んだ。
薄暗くなった縄張りの奥に、丸まった彼女とその傍らに仔を見た。
仔たちは元気よく鳴き、柔らかな母のそれに吸い付いていた。
そんな仔たちとは反対に、彼女は今にも消えそうな鳴き声で必死に叫んでいた。
彼女の赤い果実のような舌が、生まれたての仔を舐めている。一番最後に生まれた、雌の仔だった。
身体は微かに上下に動き、でもその他の動作は一切しなかった。彼女は不安げに何度も何度も仔を舐めた。
あたためているのだろう。だけどその仔は立ち上がらない。
白狼の仔は早熟だ。他の生き物と違って、生まれて暫く母白狼の祝福を受けて立ち上がる。
現に他の仔らは立ち上がり、元気よく糧を食してる。
自身の足でまっすぐと立ち、輝かしい生命を見せてくれた。
だがこの雌の仔はどうだろう。身体が上下すること以外は動きもせず、どんな仕草も返さない。
他の仔よりも祝福を受けているというのに、まったく立ち上がりもしないのだ。
とうとう悲哀を混ぜた鳴き声になった彼女の姿を目に映し、我も急いで雌の仔に駆け寄った。
他の仔らよりも小さな身体の、それはそれは彼女によくにた仔だった。
開いた口からは微かに息がもれ、覗く舌は小さく伸びている。散々舐めたからだろうか、雌の仔の身体は濡れに濡れて、まるで水浴びをしたかのようだった。
出産の疲労と不安で、体力が底をつきかけている彼女。そんな彼女を労うように舐める。
小さな鳴き声を上げた彼女は、何度かこちらを振り返ったが、迷うことなく他の仔らのもとへといった。
彼女が他の仔らの方へ行ったのを見届けた我は、自身の傍らで横たわる雌の仔を見やった。
苦しそうにあえぐ雌の仔を眺めて、その頭を軽く撫でつけた。
そして苦しくないように後ろ首を摘まみ、彼女からなるべく遠い所へとつれていく。心配そうに鳴く彼女に大事ない首を縦に振り、駆け足でその場を去った。
辿り着いた場所は泉だった。
神聖な、この学園に古くからある泉。透明度の高い水は見るものの心を癒し、また実際に浸かったり飲んだりすることで身体を癒す。
我ら白狼の水浴び場でもあり、心身ともに癒す場でもあるのだ。
その泉に、まずは我が入った。薄暗いあたりは、闇夜になりかけた空と同調して、泉までもを暗く染め上げていた。
我が入る頃には星までが空に輝き、その星々が泉にも爛々ときらめいている。
そんな星くずの泉の一番浅い場所に、雌の仔をそっと横たわらせた。丁度身体の半分まで浸かる程度で、時折風に揺られて押し寄せてくる波があるだけ。
雌の仔の身体を舐めた。泉の水を押し上げるように、染み渡るように、丁寧に、丁寧に。
やがて雌の仔の首までが泉に浸かると、空から一筋の光が射した。雲の隙間から顔を出した月が、その光の正体だった。
その光のおかげで、ようやく雌の仔の容貌がはっきりした。薄暗く、よく見えなかった雌の仔の容貌は、我によく似ていた。
生まれたての頃は彼女によく似ていると思ったが、こうしてはっきりとした場で見ると彼女よりは我に似ていたのだ。毛並みが少しだけ内巻きなのは彼女に似ていたが、その他は我だ。
微かに息をしたいた雌の仔が、ぴくり、息をすること以外で初めて動作を返した。
ゆるやかに前足を動かす。徐々に徐々にその動作は大きくなっていき、ぐっと前足を伸ばして止まった。
息は先ほどよりは軽くなったのか、苦し気にあえぐ姿はなくなり、一定の調子を刻みながら息をしている。
泉に浸からせたおかげなのか、少しだけ調子が良くなった様子が、我の張りつめていた緊張をとかす。ゆるやかな動作で、雌の仔の隣に横たわった。
時折鼻から息を出し、なんとも間抜け染みた寝息が聞こえる。それに安心した。それに救われた。
我の仔は、我と彼女の間に生まれた雌の仔は、ちゃんと生きている。
たとえ微かであろうとも、その生命の伊吹を、こうして我に見せてくれた。
これからだ。これからでいい。
この雌の仔がゆるやかにであろうと、どんなに遅かろうと、着実に健康に、不調なく成長すれば、それ以外の喜びはないだろう。
安らかに眠る雌の仔を優しく摘まみながら、彼女と仔らとのもとへと向かう。
早く安心させねば、と行くよりも早い速度で駆けた。もちろん、摘まんだ雌の仔が起きないように細心の注意ははらっている。
我ら白狼は本来、夜はあまり目がきかない。やろうと思えばできなくもないが、その後は酷い目の痛みに悩まされる。慣れればどうってことないのだろうが。
今回は幸い月の明かりがあったおかげで目を酷使することなく、無事に素早く彼女たちのもとへと帰れた。
月明かりに照らされていたのは彼女たちも同じで、その明かりのもとに彼女たちはいた。
彼女は仔らは順番に舐めているのか、他の仔らはその腹の傍らに、舐めてもらっている仔は気持ちよさそうに微睡んでいる。
そんな仔らを眺める彼女の目は確かに柔らかに、だけど不安と心配で揺れていた。
我はそんな彼女のまえに素早く降り立った。
気配を感じられなかったのか、いや感じる程の余裕がなかったのか、彼女は目を大きく開けて我をみた。
そしてその視線を我が摘まんでいる雌の仔へと移り、微かに安定した息をする様子を目に映すと、とたんに彼女の目が潤んだ。
毛並みに吸い込まれるように、零れ落ちた水は流れていった。
彼女の顔を舐める。そっと目を閉じた彼女は、安心したように一鳴きした。それは、歓喜の色も含まれていた。
歓喜の遠吠えをし終えた彼女は、そっと地面に降ろした雌の仔をしっかりと舐め上げた。そして月明かりに照らされたその愛い顔を見て、幸せそうに喉を鳴らした。
暫くしてそれを終えると、今度は順に仔らを舐め始めた。微睡んでいる仔らは気持ちよさげに鳴き、彼女を舐め返す。
彼女はそれに幸せそうにまた喉を鳴らして、我の方を向いた。我の横にいる雌の仔は健やかに眠っている。
雌の仔の傍にいる我に近づくと、そっと頬をすり合わせた。彼女がよくやる愛情表現でもあった。
我もそれを彼女に返すと、照れ臭そうにそっぽを向いた。でももう一度、いや何度でも、彼女は我にそれを繰り返して行った。
我もそれを何度も返した。彼女はやっぱり照れ臭そうにするけれど、嫌そうなそぶりは一切見せなかった。
暫くそれを続けていると、目が醒めたのか少しぼんやりとした目つきで仔ら彼女に寄ってきた。彼女は仔らは腹の近くに抱き寄せると、雌の仔も一緒に包み込んだ。
そして我にも近くに来るように視線で促す。我はそれに確かに頷いて、彼女と仔らを包みこむようにして横たわった。
彼女はその様子に満足げに鼻を鳴らす。雌の仔は丁度我と彼女の間に挟まっているが、少し窮屈に身体をねじらせた。
そんな様子にさえ彼女は嬉しそうにしているのだ。彼女と我、そして仔らに囲まれた雌の仔は健やかに、ちゃんと生きている。
窮屈そうにしていた雌の仔が、ぐっと楽になるために彼女へとすり寄った。彼女は驚いたように、でも楽し気に抱き寄せる。
それをみた他の仔らも、彼女の方へとすり寄っていった。やはり仔は、父よりも母の方が好きなのだろう。
これは父の悲しき性なのだろうか。我も幼少期は母に甘えていたクチだ。実感せざるおえない。
楽し気にじゃれ合う彼女たちをみて、我も心底安心した。仔らは、こうして生きている。息をし、動き、鳴く。それだけで十分だ。
成長が遅くてもいい。ゆっくりでもいい。ただ、丈夫に生きてくれさえいれば、それだけで我ら親は嬉しいのだ。
家族のだんらん。それをゆるやかに過ごすことも、嬉しいのだ。そんなだんらんのなか、一匹の仔が大きく鳴き声を上げた。
それは仔らの中で一番最初に生まれた仔。一番奥にいた仔。
その仔が鳴き始めると、順番に二番目の仔、三番目の仔、と続いていった。
雌の仔の隣にいた仔が鳴き終えると、他の仔らは雌の仔をじーっと見つめた。鳴かないことに不満を抱いているのだろうか、いや、ただ単に待っているだけか。
一番身体が弱く、不調の雌の仔に鳴くことを要求するのは、些か難しいことではないか。と、そう思いこそすれ、期待している彼女の目をみると言い出せない。
そのなか、雌の仔が小さく動いた。他の仔らはその姿を見逃すまい、と目を動かしている。
我も雌の仔の様子を眺めていた。彼女だって同じだっただろう。眺めて暫く、我は自身の耳を疑った。
それは確かに鳴き声だった。他の仔ではない。正真正銘、雌の仔の鳴き声だ。
小さく、小さく、我らが白狼でなければ聞きのがしていただろうその声は、確かに雌の仔から発せられていた。
なんとも間抜けで、小さくて、幼くて、消えそうな、白狼だとは思えない弱弱しく儚げな声。
それでも雌の仔は、ちゃんと鳴いた。ちゃんと生きて、ちゃんと鳴いた。
彼女は雌の仔の鳴き声に同調するように、小さく鳴いた。雌の仔よりは低く、でも似通った鳴き方で。
雌の仔や他の仔らが鳴きつかれるまでそれは続いた。やがて仔らが全員眠りに落ちると、彼女はもう一度一匹ずつ舐めてから、先ほどよりは大きな声で鳴いた。
そしてゆっくりと、地面へと横たわる。
我は彼女の頭を何度か舐め上げた。彼女は嬉しそうに喉を鳴らして、我を舐め返した。
やがて彼女の瞼がゆっくりと降ろされていった。雌の仔の鳴き声が、また聞こえた気がして、彼女はぴくりと尾を揺らした。
静かに、風が吹く。柔らかな初夏の香りを纏って、その風は吹き抜けた。
彼女は眠っていた。深く遠い場所に、ゆっくりと、安らかに、眠りへと落ちていった。
月は大きく見えた。
丸く、リンと、そこに輝いていた。
すぅーっと、何かが流れているような気がした。水が落ちる音もして、何が起きたのだろうかと不思議に思う。
静かな音を立てて眠る雌の仔が濡れていることに気付いたのはずいぶん後で、その原因がわからなかった。
我は、おおきく、大きくないた。
その日の月は、満月だった。
あれから幾月か。
仔らはすくすくと成長した。
一番上の仔は身体も随分と大きくなり、一人で狩りをすることができるようになった。
そしてその後を追いかけるように、二番目、三番目の仔も狩りを始めていく。
仔によって違うが、やはり我と彼女の血を継いだだけはある。どれもこれもお転婆で、手が付けられないほどやんちゃだ。
長男は良識があってそれほどやんちゃではないが、如何せん後先見えなくなることが多い。
二番目に至っては狩りをすることに固執し、他の生物との争いを頻繁に起こす。
三番目以降はまだましで、でも兄弟内で喧嘩をすることも多いのだ。
そして一番下の仔。そう、雌の仔は、あれから3か月もの間、目が醒めることはなかった。
その間は、我のパートナーである廉が世話をし、糧も与えていた。だがそれをろくに口にすることもなかったためか、やはり病弱体となってしまった。
彼女からの遺伝もありうるだろうが、幼少期の栄養不足が引き起こしたということもあるだろう。
今年の一番暑い日に、雌の仔は目を醒ました。
それからの雌の仔はお転婆だった。
最初のころは、他の仔らをみても怯えてばかりで、我の傍にくることもほとんどなく、廉のほうに懐いていた。
それがいつの頃だっただろうか、だんだんと我にも懐き始めて、他の仔らとも交流も持つことも増えてきた。一番交流も持っているのは、長男の弦(ゆづる)であろうか。
弦は雌の仔が醒める幾月か前にパートナーを得て、名も得ていた。弦、とかいて『ゆづる』と読む。良い名だ。
長男である弦は、一番下の雌の仔に興味があったらしく、頻繁に果物を持って縄張りに現れる。
まだ独り立ちが不可能な雌の仔は我と共に暮らしていて、その縄張りに住んでいる。他の仔らも土産を持って現れては、雌の仔に懐かれようと必死だ。
土産もそうだが、仔らはいつも必死になって雌の仔に話しかけていた。
だが、ここで問題が起きた。我らと雌の仔は意志の疎通ができなかったのだ。
何故だかは解らなかった。他の仔らと我は意志の疎通ができたのに、何故かこの雌の仔だけはできなかったのだ。
だが人間の言葉は理解できるらしく、言語機能や意思の疎通そのものができない、なんてことは無いだろう。
そこで我が至った結論だが、幼少期から人間のもとで育てられたからではないか、というものだった。
幼少期から人間に囲まれることで、我らの言語が理解できなくなってしまったのではないか、と。人間の言葉を理解できているところからもみて、その可能性は高い。
仕草もどことなく人間臭いのは、それらの経歴があるからだろう。
環境が違えば育ち方も違う。雌の仔の体調を優先し、廉にすべてを任せた我の判断不足だ。
こんなことなら最初から手元で育てるべきだった。愛娘と共に過ごす時間を、こうして棒に振ってしまった。
完全に廉に懐いている愛娘を見ると、虚しくて仕方がない。唯一の雌の仔、我の愛娘は、すくすくと育っている。
廉が手ずから作った餌を美味そうに食す姿は本当に愛い。
愛い、が、食べているのが廉が作ったものだというのが気に食わない。我の取った果物もそれはまあ食すが、やはり簾のほうが安心するのか、何杯も口に運ぶ。
朝こそ廉の作ったものを口にするが、昼や夜は我か他の仔らが採った果物が主流だ。
昼と夜が我らのだんらんの時間であった。愛娘は他の仔らに遠慮しているのか、半分まで食べて採ったきた仔に渡す。
どうやら愛娘の中では、兄弟で食すというのが当たり前のようだった。だから兄弟たちは態と多く取ってきて、雌の仔に食わせる。
そこから徐々に慣れ始めたというのに、今度はその時間さえも奪われた。
廉から頼まれたのは、愛娘との仲が深まりつつあった時のことだった。
曰く学園のために愛娘を貸せ、とのことで、我の娘をある女生徒の護衛と精神的癒しとして夜の間だけ傍に居させる、ということだった。
廉が言うにはその女生徒は大変優秀で、我ら白狼が好む優秀者であるとのことだ。それなら別に構わん。傍にいることはな。
だが我がどうしても受け入れられなかったのは、愛娘との夜の時間まで取られることだ。
どうにかして愛娘を引き留めようとしたが、娘の方は乗り気で、女生徒の方へとついて行ってしまった。
あの日ほど簾を恨んだ日はない。
愛娘が女生徒と過ごすようになって数日。
我は愛娘が時々いなくなることに気付いた。
それは朝早くだったり、昼過ぎだったりで、夜には決して何もしなかった。
何をしているのか気になり、何度か愛娘のあとを追ったりもしたが、愛娘を途中で見失ってしまうのだ。
結局何をしているのか、わからずじまいのままである。
そして最近、他にも事件がある。
我の縄張り内に見知らぬ生徒が入り込んでくるようになった。
意志の疎通が出来なさそうな、そんな生徒だ。
成績は関係ない。ただ直感で、どうして合わないだろうことだけはわかった。
なにより愛娘が警戒しているし、受け入れることはできないだろう。我の娘は人一倍警戒心が強く、用心深いのだから。
そんな我の娘は、最近散歩に嵌っているらしく、兄弟たちの縄張りを転々としながら歩いている姿が目撃されている。
まだうまく走れない我が娘は、そうして走る練習をしているらしいのだ。
最初目が醒めた時も、よく足が絡まって縺れていたものだ。自身の足に引っかかっては転んだ。
今では転ぶこともなくなってきたが、やはりまだ走れない。
駆け足ならできてきたようだが、我や他の兄弟たちのように駆け走ることはまだできていない。
それが悔しいのだろうか、毎日駆け足で散歩をしている。
我はそれを微笑ましく感じていたし、他の仔らもそれを微笑ましく感じていただろう。
愛娘と我らの交流は進み、ほんの少しあった距離も縮まってきていた。
最近の愛娘は、女生徒が作る華やかな食に興味がわいているらしく、それを作ってもらうたびに輝いた目をしてる。
我はそれが微笑ましいが、少しだけ複雑だ。まあ、その女生徒が良い生徒であることはわかっているのだが。
娘は時々、食事用の皿に顔を突っ込ませることがある。
何かに驚いてなのか、食べているときの勢いを止められないのか、不意に目を離した瞬間にそれは起きる。
気づくと顔面が牛乳で濡れているのだ。その時の愛娘はどこか間抜けで、可愛らしいのだ。
目撃していた他の仔らも、笑いを耐えながら生暖かい目で見守っている。
果物に至っても同じで、うまく固定できない時に果物に鼻や口が直撃する。
そこも、本当に間抜けで可愛らしい。
意志疎通は今はまだできないが、その視線が訴えていることはなにであるか、それはわかるらしい。
我らは微笑まし気な表情をしていると、抗議するように鳴く。
生まれた頃ならば考えられないほどの大きな鳴き声だ。我は聞くたびに感動している。
あの雌の仔が、こんなに大きく鳴くことができるようになったか、と。
そのたびに感動して舐め上げてしまうのだが、どうか許してほしい。仕方ないのだ。娘が可愛くて仕方ないのは、親の性、なのだろうか。
日々成長していく姿を見るたびに、やはり我に似ているな、と思う。毛が内巻きなのは彼女に似ているが、色や形は我だろう。
だけどお転婆で、少しやんちゃで、散歩好きなのか彼女にそっくりだ。
蝶を追いかける愛娘を見やった。
その姿でさえ、我らの面影を見ることができた。
日に日に成長していく我らの仔。
その中でも少ない時間しか持てなかった愛娘の成長は真新しく、目が離せない。
少しずつ、少しずつ、娘との時間を増やしていこう。
愛らしい我が娘は、他の雄の白狼をも魅了しているらしい。別の場所に縄張りを持つ白狼で、適齢期の雄は頻繁に娘を見に来る。
そのたびに我と他の仔らで追い払っているのだが、見物するものは増すばかり。
娘をくれ、と言われたこともあったが、誰がやるものか。
この時になって、彼女の父がギリギリまで拒んでいた理由がわかってくる。
なるほど、こんな気持ちだったのか、と。確かにそうだ。まだまだ、娘といたい。
まだまだ共に過ごしたい。まだまだ、嫁にやれるものか。
微睡む娘に一鳴きする。
それは慈愛の一鳴きだったが、愛娘は深く眠っているのか身動ぎしない。
愛娘の白い毛並みに、黄色い蝶が降り立った。
その姿は綺麗な飾りをつけているようで、愛娘によく似合った。
我の可愛い娘。
どうかまだ嫁にはいかないでおくれ。
もうすこし、父の傍にいておくれ。
可愛いお前と、もうすこしだけ過ごさせておくれ。
健やかに寝息を立てる娘が、小さく鳴いた。
ぽっこりとした腹を上にして、口を間抜けに開ける。
間抜け染みた姿だが、やはり、愛(う)い。
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