▼ Another eye:真白の陽だまり(リクエストNo.8)
「――― アンタなんか、いらないのよ」
突き付けられたことば。
胸を刺す痛み。焼き切るような熱。
鼓膜をふるわせて、脳の奥までとどくの。
目を強く閉じた。瞼の後ろ側がじわっと熱くなっていく。
茶色い地面に、丸い点がいくつもできた。
わたしがこの学園にきたのは、蒸し暑い8月のことだった。
家庭の事情で転校せざる負えなかったわたしは、親戚が経営を携わるというこの学園にやってきた。
親戚はとても優しいひとで、初めてあったのは今年の3月。卒業式のとき。
黒いスーツに身を包んだ背丈の高い男の人がわたしを呼んでいる。そう先生につれられて出会ったのが、親戚だっていうその人だ。
黒い髪をアシンメトリーにして、無表情の顔をわたしに向ける。冷たい仮面に、驚いた。
冷たいその無表情に驚いたんじゃない。彼のその佇まいに、雰囲気に、限りなく似ているひとを知っていた。
――― お父さん
そっくりだった。
髪型は違うけど、いつか見たお父さんの若い頃の写真にそっくりで、ときが止まった様だ。
固まったわたしに、彼は困った様な顔をして、そしてわたしの顔をじっくりながめると、小さく笑った。
――― 義姉さんにそっくりだな
そんな笑い方もお父さんに似ていて、彼の呟いた言葉もその声にも、ひどく泣きたくなるほど胸が熱くなった。
わたしのお父さんとお母さんは、小さい頃に事故でなくなった。
飛行機事故だった。海外出張の二人が帰るために乗った飛行機が、エンジントラブルで海に不時着水してそのまま燃えた。
海の中で燃えたから、火そのものはすぐに鎮火した。だけど、不安定なまま海に着水した飛行機は壊れ、多くのひとが海へと投げ出された。
そのショックと火災の所為で、飛行機に乗っていた7割以上のひとが亡くなった。世界に大きな衝撃を与えた、飛行機の墜落事故だった。
あの頃のわたしはまだ小さくて、お父さんとお母さんが帰ってくるのをひたすら待っていた。
だけど偶然みたテレビのニュースの映像、そして家政婦さんがお皿を落とした衝撃音で、何が起こったのかわかってしまった。
わかりたくなかった。わたしはまだ小さくて、認めたくなかったんだと思う。お父さんもお母さんもいないなんて、そんなの認めたくないって。
だけど現実はやさしくなんてなかった。真っ赤に燃える飛行機の映像が、今も頭にこびりついて離れない。
家政婦の嘉乃(よしの)さんがわたしをぎゅっと抱きしめてくれた、その暖かさだけがやさしかった。
そのあとのわたしは、どの親戚にも引き取られることはなかった。みんなそれぞれの家庭があったし、お母さんは孤児だったから親戚もいなかった。
お父さんの親戚はお母さんを認めてなくて、その子供であるわたしのことも、どこか厭うような目でみていた。
ある日、お父さんとお母さんが残してくれた家に、まるで我がもののように入ってきたひとがいた。
その人は「この家はあたしがもらった」と言って、わたしを摘まんで玄関まで放り投げた。
どこにも行くところのないわたしは、玄関で蹲っていた。そんなわたしを見た嘉乃さんが、その人に言い募った。
わたしはリビングに続く扉の前で、ずっと蹲ることしかできなかった。
そして、そこで忘れられない言葉を聞いた。
「いやよ。あんな子、誰がいるもんですか。いらないわ」
いらない。いらない。それが頭に響いて繰り返されて延々と続く。
目が熱くなった。水も飲んでないのに、プールにも入ってないのに、息ができないほどくるしくて、熱くて、とまらなくて。
暗くなった世界は、何処にも光りがなかった。
結局孤児院に預けられることになったわたし。
暮らしていた町からとても遠い、和やかな田舎の孤児院で、その親戚に会うまでを過ごした。
普通に小学校に行かせてもらって、中学校にも行かせてもらって。十二分に愛情をかけて育ててもらったと思う。
冷え切ったような眼差しの、嫌味な親戚たちよりも、くらべものにもならないくらい優しく、暖かく、包んでもらった。
そこにいた子供たちとは、兄妹のように育った。みんな優しくて、寄り添いながら生きてきた。
そんな孤児院にも、15歳になったら出ていかなきゃいけなくて、中学を卒業したら、あとは自分の力で生きる。
そう決意を固めたときに、あの人はきたんだ。
やっぱりお父さんに似たあの人は、一言、すまないとわたしに詫びた。
独りで生きていこうってそう思ってた。だけど、あたたかくて、やさしいね。
あの人は笑って、そうだなと言ってくれた。
そして、わたしは新しい世界をみれた。
あの人が手配した車に乗りながら、学園へと続く道を走っている。
専属の運転手さんが言うには、もうすでに学園の敷地内に入っているらし、のだけど、一向に建物が見えない。
「み、水野さんっ! ここ、ほんとうに学園内なんですか? なんか、一向に建物が見えないんですけど……」
「御心配なさらず、お嬢様。これからお嬢様が通われます奏宮(かなでみや)学園は、広大な敷地を持つ私立校でございますからねえ。校舎自体はこの奥にありますよ。もう数分で着きますのでしばし御辛抱を」
お茶のおかわりは如何でしょうか、とにこやかな笑顔で言う運転手の水野さん御年62歳。
わたしをお嬢様と呼ぶ水野さんは、あの人がうんと小さいころからお世話をしている、とってもにこやかで優しいひと。
本当はもう引退しているはずなんだけど、今日だけ特別に送ってもらっている。目元の皺が柔らかく、黒色のスーツがとてもよく似合う。
なんで専属の運転手さんなんているんだろう、って思ったけど、あの人は一代財閥の社長、というものだった。
日本でも有数のIT企業であるあの人の会社は、あの人が自分で作った会社らしい。もともといいところの出であるはずのあの人は、いつか自分で会社をつくるのが夢だったんだそうだ。
そんな夢をかなえ、この学園にも寄付などをしていると言っていた。
わたしは水野さんからお茶をもらいながら、なんとなく外を見た。景色は相変わらずの緑で、綺麗にざわざわと揺れていた。
熱いけど、晴れやかな青空がとても眩しかった。白い雲がゆっくりと泳いで、空気が綺麗なんだろうなって思う。
窓の外から室内へと視線をうつそうとしたとき、ふと目の端に白い何かが映った。
雲? ううん、それとは違う、別のしろ。首を傾げて考え込むわたしに、水野さんが不思議そうな顔で尋ねてきた。
「お嬢様?」
「あっ、いや、なんでもないです!」
慌てて顔を逸らして、首を振った。
――― 気のせい、だよね。
雲が別の何かに見えたんだろう。そう思って小さく息を吐いた。
そして視線を前へと向けた。水野さんが柔らかい声で私に告げる。
「さあ、着きましたよお嬢様。奏宮学園高等部前でございます」
どこかのお城のようなデザインの校舎が目に映った。
その前になかなかの広さ噴水があって、花道のような場所を進むと校舎だ。
小さい頃憧れていたお姫様が住んでそうな、キラキラした場所。
車から降りて見上げたそこは、もっとキラキラしてみえた。
「お嬢様。これから貴方様は、多くの方々と出会い、多くのことを体験なされるでしょう。期待と同じくらい不安も大きいでしょう。ですがご心配なさりますな!」
校舎を見上げるわたしのすぐ傍で、水野さんが謳うように言った。
ざわざわと揺れる葉が軽やかに舞った。
不思議と、胸がどきどきして高揚する。
「貴方様は神に選ばれたのです! どのような逆境も、全て良きものへと変わる。貴方様の歩む道に幸多からんことを!」
吹き荒れる風の音以外は、もう何も聞こえていなかった。
だけど何かに圧されるように、1歩、また1歩前へと進んでいく。
噴水を超え、校舎の前に立った時、噴水の水が高く高く飛び出た。
その勢いのある音に振り返ると、小さく虹かかっていた。
下を向いていたつぼみが花開く。ささやくようなフルートの旋律から始まり華やか音色が奏でられる。
それはすべてのはじまりで、すべてのきっかけだった。
◆◆◆
「こんな時期に転入なんて、お前も苦労するな」
「いいえ、そんな……」
今わたしがいるのは、奏宮学園校舎内の職員室だ。
吹き荒れていた風が収まると、昂ぶっていた気持ちもいつの間にか落ち着いていた。
不思議なことに、なんであんなにも昂ぶっていたのか。転入初日で、しかも憧れの学園へと転入だったから、かもしれない。
だけどそうではないような、本当に不思議な感じだ。
苦笑いの先生に、わたしも苦笑いで返した。
こんな時期に転入、とは、8月なんて中途半端な時期にってことだろう。
それは仕方がないのだ。わたしがあの人にこの学園にこないか、といわれたのは、卒業式で初対面の日だったんだから。
特待生として私立校への入学が決まっていたわたしは、いきなりこの学園に行くことはできなかった。
そこで、7月までは入学の決まった高校に在学して、そのあと奏宮にくる、ということで決定したのだ。
もうずいぶん前から支度されていたという奏宮の制服を、今日は初めてきてここに来た。
先生は事情は知っているんだろうけど、苦い言葉を混ぜられた。
苦笑いのわたしに、先生はすぐに謝ってくださったけど、先生の気持ちはわかる。
本来夏休みって時期に転入生がきたら、誰でも一言言いたくなるってね。
奏宮の敷地は本当に広くて、渡されたパンフレットには数々の施設が乗せられていた。
レストランみたいな広い食堂に、娯楽施設の数々、そして大きな寮。
お金持ちって、すごい。こんな施設が作れちゃうくらい、この学園がどれだけお金持ちなのか理解した。
あの人はこの学園に寄付してるんだっていうことも。
後退ってしまいそうになる足を叱って、先生のあとについて行った。
連れていかれた場所は学園長室だった。
「学園長」
「……入れ」
「失礼します」
「し、失礼しますっ」
転入初日に学園長に会うことになるなんて、誰が考えるんだろう。
豪華な部屋の向こう側には、明るい太陽を背負ったひとが立っていた。
「初めまして、日向(ひゅうが)優子(ゆうこ)さん」
低く落ち着いた声。
わたしの名前を呼ぶその声には、どこか悲しさが含まれているような気がしたが、学園長の声にハッとなったわたしは急いで返事を返した。
はい、という短い返事は小さくこぼれた。
そんなわたしを見る学園長は、どこか驚いた様子で、それでいて、悲し気に笑みを浮かべた。
わたしを見ているはずのその目は、遠い場所の別の誰かを、静かに映していた。
学園長との面会はすぐに終わった。
この面会はもともと学園長とあの人が友人だっていうことで、学園長の意向により行われたものだったからだ。
軽いあいさつみたいなそれは、学園長にかかった電話で幕を閉じた。
申し訳なさそうに眉を潜めた学園長にお辞儀をして、先生と一緒に学園長室を後にした。
ついた頃はまだ青かった空も、寮につくころには赤く染まり始めていた。
「それじゃ、ここから先は1人になっちまうけど迷わずに行けよ。迷いそうになったそこらへんのチャイム押して教えてもらえ」
そう言って手を振った先生は、来た道を戻っていった。
女子寮は男子禁制だから、たとえ先生でも入ることはできない。わたしは地図を眺めながら、女子寮へと入っていった。
シンプルだけど、優しい色合いが高貴さを高める寮内。ところどころ花々が飾られていて、有名な絵画がわたしを迎え入れる。
――― 角部屋個室(スペシャルルーム)001(まるまるひと)号室
特待生や成績優秀者に与えられる個室は、本来わたしは使えないはずだ。だけど今回開いている部屋がここしかなかったので、使わせてもらうことにしたのだ。
本来の持ち主に関しては、先生から聞いた。
不慮の事故で、と先生は言ってたけど、それを聞いたときの学園長はぐっと眉を潜めていた。
まるで不機嫌そうに、違うとでも言いたげに。そんな学園長の様子をみた先生は、すぐに話題を終えてしまった。
どうやら前の部屋の主は、複雑な事情があったようだった。一体何があったんだろうって、人並みに気になりはする。
だけど人には、聞いてはいけない事情が1つはあって、それはなにがあっても聞いてはいけない。その人の尊厳を奪い、失くしてしまうからだ。
数分歩いて、やっと目的の部屋を見つけた。001(まるまるひと)号室と書かれたプレートの扉。その横の壁には真新しく【日向 優子】というプレートが掲げられていた。
わたしは緊張しながら、その扉を開いた。すぅっと開いた扉の奥から、ふわりと本の香りがした。
「わぁ、きれい……」
白く薄いレース模様のカーテン。壁は柔らかいモダンホワイト。天井も、ベッドのシーツも、敷かれていたカーペットも、全部が白系統で統一されていた。
病的なほど白く感じられるけど、淡い色使いの枯れない花、造花が飾られているからか、清潔で柔らかく優しい雰囲気がした。
机の上に規則的に並べられた本たち。木目調の本棚に並べられているのは、どれもこれも気になる作家の小説ばかり。
中には重要な参考書も入っていて、この部屋のもとの主は、相当な勉強好きでとても勤勉で、すごく温かかったんだなって思う。
机のうえ、台所、ベッド、床、すこし埃をかぶっているけど、全然きれい。
部屋全体を見渡して、机の上に視線を移した時だった。白い箱に赤いリボンが付けられたそれを見つけたのは。
「【親愛なる家族へ、私より】……?」
その箱を持ち上げると、その下にもう1枚紙が置いてあることに気付いた。
そこには、【優子、その箱を開けてごらん。私から、君への転入祝いだ】と書かれている。
優子、とはわたしの名前だ。それじゃあこれは、わたし宛に?
するりとリボンをほどいて、白い箱をゆっくりと開けた。そこには、薄いピンクの平たい機械が静かにあった。
「これ、携帯?」
手に取ると、それは携帯だった。今話題の、スマートフォンというやつだ。
その携帯の上部が何やら点滅しているのに気付いて、【家】のマークが書かれたボタンを押した。
そうすると瞬く間に液晶が光って、メールが1件届いていると教えてくれる。今度は液晶の中の、メールのマークを押した。
用件
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入学おめでとう。
いや、この場合は転入祝いの方がいいだろうか。
とにかくおめでとう、優子。
私の親愛なる家族のために、君が欲しがっていた携帯をプレゼントしようと思う。
寂しかったら、いや、寂しくなくても、私に連絡してくれ。
時々、いや、できれば2日に1度は欲しいな。こないと、私から連絡してしまいそうだ。
心配なこと、不安なこと、したこと、全て言ってくれ。
君の望みは比較的かなえたいと思っている。ああ、学園に居たくない、と思った時もだ。
遠慮せず、君のしたいことを言ってほしいんだ。
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あの人からだ。
慣れない手つきで画面をスライドした。
白い画面をいくつか通って、バーが一番最後まで来た。
そこには、来てそうそうホームシックになりそうな言葉が書かれていた。
―――――
――――
私はいつでも、君の味方だということを、忘れないでほしい。
だから何かあったら、たとえなくても、いつでも帰っておいで。
短い間でも君と過ごしたあの家はもう、君の帰る場所なのだから。
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まったく、絶対ワザとだ。
帰りたくなってしまった。どうしようもなく、寂しくなってしまった。
震える手つきで返信の文字を打つ。
初めて打つ液晶の操作は難しくて、四苦八苦しながらの返信になってしまったけど、どうか届いてほしい。
わたしは今、とてもあなたに会いたいと。
いきなりホームシックになった日から数時間後、つまりは翌日。
前の主が残してくれた家具は、どれもこれもわたしにあっていた。
ベッドの大きさも、棚の高さも、趣味も、丁度良すぎて前の主と1度話してみたいという気持ちが大きくなる。
よく手入れされているベッドから降りて着替えた。
朝のごはんは食堂が普通みたいだけど、朝食の有無は自由だから、今日はこの部屋で食べようと思う。
実はこっそり隠し持っていたカップラーメンを取り出して、ポットに水を入れた。
もちろん、埃をかぶっていたポットはちゃんと洗ってある。
お湯を沸かしてカップラーメンに注いであと3分。
その3分の間に、着替えをさっさと済ませておく。髪の毛がうまく梳けなくてもたもたしていると、何時の間にか5分経過。
ちょっと伸びてしまったカップラーメンを食べながら、ちらりと腕時計をみた。
学園の生徒1人ひとりに配られるという腕時計は、授業の時間を知らせるチャイムがタイマーとして組み込まれている。
学園側が日程を変えると、電子式になっている時計が電波を受信して、自動でタイマーが変わるのだ。
聞いたときは驚いたけど、こんな広大な敷地内などチャイムが聞こえにくく、時間が解り辛いから来た配慮だった。
わたしはカップラーメンを食べ終えると、少し緩んだリボンを結んで部屋を出た。
先生に渡された地図はちゃんと、この手に持っている。迷子はしない、だろうな。
たぶん、だけど。
だってここの敷地内、とてつもなく広いんだから。
昨日きた職員室棟、というところに到着すると、職員室を覗きに行く。
教室に行く前に職員室に寄るように、と先生に言われていたからだ。
二度目の職員室前は慌ただしく、先生たちに挨拶する暇もなくあれよこれよと端に追いやられてしまった。
人見知り、といわけではないけれど、大人が少し苦手になっていたわたしは、職員室に入れなくて困っていた。
どうしよう、と迷っていると、それを見かねたのか、女性の先生がわたしに近寄ってきた。
とても優しそうな先生だ。その先生はわたしを見て、転入生の日向さんだね? と声を掛けてくれた。
「はい、あの、」
「うん! 初授業の日だもんねぇ! そりゃあ緊張もするよ!! だいじょうぶ、だいじょうぶ。ここの先生、いい人ばかりだからさ」
私は栗芝(くりしば)って言います! 栗に芝で栗芝だよ!! と女の先生、栗芝先生はわたしに笑いかけた。
キラキラした笑顔の似合う、美人さんだ。
わたしは思い切って栗芝先生に事情を話した。栗芝先生は、ちょっと苦笑しながらわたしの頭を撫でた。
「ごめんよ。ちょーっと、朝は忙しくてねぇ」
ちょい、今呼んであげるからね。
栗芝先生はそういうと、もう一度わたしの頭を撫でて、職員室の中へと1歩入る。
そして勢いよく息を吸った。
「茶宮(さみや)せんせぇぇええ! 生徒さんがお待ちですよーっ!!」
「えっ、ちょ、ちょっと……!」
まさか大声で呼ぶとは思わなかったわたしは、周りから視線を向けられてたじろいだ。
どうしよう、と思っていると、先生が振り返った。
そして五月蠅いとばかりに耳を塞いでいる。栗芝先生の頭を1度たたくと、わたしのほうに向き合った。
「わりぃな、気づかなくて」
「え、あ、いいえ!」
「茶宮せんせー、HRまであとちょっとですよ」
「やべ。……んじゃ、そろそろ行くか」
「はいっ」
先生は、茶宮先生は何か言いたげに口を開いたり閉めたりしていたけど、栗芝先生の言葉で諦めたようだ。
軽く頭を掻くと、わたしに背を向けて歩きだした。
わたしはそれを追いながら、茶宮先生の背中を眺める。あの人といい、学園長といい、どうしてこうも身長が高いのか。
不思議に思いながらも、茶宮先生の背中を眺め続けた。
「で、以上だ。ああ、知らせた通り、転入生来るからな」
「はぁい! ねぇねぇ風吹(ふぶき)先生、転入生カッコいい?」
「あン? あー、男じゃなくて女だっつったろ。……日向、入れ」
「はいっ」
ドキドキして、先生の声以外は何も聞こえなかった。
転入なんて初めてだし、田舎だったから人数少なかったし、こんな大都会の大人数教室で授業なんて、初めてなんだよ。
ドキドキするの、仕方ないんじゃないかって思うよ。
深呼吸を繰り返してから、音をたてないように扉を開けた。
開けてすぐ、茶宮先生が見えた。心配そうな目をして、でもわたしの姿を目に映すと、1度軽く頷いた。
口パクで、お前ならできると言われる。無理、って答えたい。
わたしこんなの無理だって、怖いよって、だけど我儘は嫌だから。深呼吸をもう一度した。
「初めまして、日向優子です。右も左もよくわからないので、良かったら教えてくだひゃいッ! っあ、」
噛んだ。
噛んでしまった。
茶宮先生が笑いをこらえるように口元に手を当てた。
男子生徒は机の上に伏せている。女子生徒はわたしをみながら、どこかほっとしたような顔をした。
噛んでしまったことで恥ずかしさが湧き上がってくるけど、なんだか受け入れモードになってきたように思えて嬉しくなった。
友達いっぱいできるなか、なんて小学生みたいにわくわくする。
小さな拍手が大きくなっていくなか、わたしは無意識に笑みを浮かべていたらしい。
隣の茶宮先生から、ちゃんと笑えるじゃねぇか、と囁かれた。
昨日は緊張のあまり笑えなかっただけなんです、って言ったら先生にいじめられそうなのでできない。
恥ずかし気に下を向いた。なんだかいつも以上にむず痒い。
そう思いながら、ほっと胸をなでおろすわたしの晴れた気持ちも、とたんに暗雲が立ち込めるようになった。
「なんで!? ありえない! ありえない! あたしが主人公なのに! あたしがヒロインなのに! なんでアンタ(デフォルト)がいるわけぇ?!」
ある1人の女子生徒が、勢いよく立ち上がって私にそう告げた。
なんて言っているのか、わたしにはよくわからなかった。
ただ主人公とか、ヒロインとか、しまいにはデフォルトときた。
わたしは意味が解らなかったけど、大きくなった今は少しだけわかる。
まるでゲームのようにこの世界を語る女子生徒。先生は、うるせェと呟きながら、わたしの横に立った。
「HR中だぞ。席を立つな。……日向、お前の席はあそこだ。隣の高橋、学園の案内や説明をしてやれ」
「りょーかい。タカティンも見る目あるよねー」
「うるせぇよあとタカティンって呼ぶな!」
茶宮先生が指名した生徒は、活発そうな印象をうかがわせるショートカットの女子生徒だった。
高橋さんと呼ばれたその人は、元気よく手をあげると、わたしを小さく手招きした。
先生に促されて、高橋さんの前まで行くと、彼女は宜しくねとわたしの手を握ってくれた。
硬くて厚い。スポーツをしてる子の手だ。
高橋さんはニッと笑うと、わたしに教科書を見せてくれた。
「今日から3年間、ヨロシクね!」
わたしが頷くと、さらに笑顔を深めた高橋さん。
だけど彼女の目の奥にも、わたしじゃない別の誰かが映っていた。
休憩時間になると、わたしはトイレに行くために席を立った。
トイレの場所はチェック済みだ。高橋さんに行ってくるね、というと、彼女は手を振ってくれた。
教室の右側の奥を行けば、女子トイレはすぐそこだ。
すれ違う先生に挨拶をしながら、たどりついた女子トイレ。
なんだか晴れやかな気持ち。不安なことも起きたけど、でも優しい子が隣になって、いいスタートって気がした。
用を終えて手を洗う。自分で作ったハンカチで手を拭きながら、誰もいない廊下へと出た。
女子トイレ周辺には誰もいないのだ。姿は見えないだけで、大きな話し声は聞こえるけれど。
教室へと戻ろうと足を1歩踏み出したところで、強い力に手を掴まれた。
「ちょっと来なさいよ」
不思議な髪の色をした、さっきのおかしな女子生徒。
ゲームのようにこの世界を語った女の子。彼女は怒りを前面に押し出した形相をしながら、強い力でわたしの手を掴みながら歩き出した。
わたしの制止も聞かず、ひたすら無言で階段を下りて外に出た。
歩き続けていくとどんどん力が強くなっていって、腕がとても痛かった。
ドンッ、と彼女は私を壁へと押した。壁に激突した肩が痛い。
わたしは肩をさすりながら、彼女のほうを向いた。
「アンタ、なんなの?」
それからは、彼女が何を言っているのか意味が解らなかった。
早口でまくし立てられたから、っていうのもあるかもしれないけど、それよりも言葉の意味が解らなかったのだ。
まるでゲームのように世界を語る彼女は、自らを『ヒロイン』と呼び、他の生徒を『モブ』と呼び、知らない名前のおそらく男子生徒を『攻略キャラ』と呼んだ。
本当に意味不明だ。ここはゲーム世界じゃない。だって私たちはちゃんと息をしていて、生きている。
自らの意志で選んで、立って、喋って。ゲームのような選択肢なんて見えない。そんなものそもそもない。
茫然と彼女を見た。彼女は確かに美少女だ。
恋愛シミュレーションゲームの文字通りヒロインのような、そんな可憐さを兼ね備えている。そう、容姿だけは。
だけどだから、なに? だって、だって、ここはゲーム世界じゃないから。
選択肢を選べばそれに沿って動くゲームとは違って、わたしたちは些細な言動で物事が変わることもあり、小さな思い付きが生かされることもある、生きた人間なのだ。
あらかた言いたいことが言えたのか、彼女はわたしの髪を掴んで壁に叩きつけた。
いたい。だけど、声は出なかった。
「あたしがヒロイン。あたしがヒロインなんだから。だから ―――」
わたしには言われたくない言葉がある。
知られたくない物事が1つはあるように、言われたくない言葉だってあるだろう。
殆どのひとが、「死」を使う言葉は嫌だろう。いわれて気分が良くなる人なんて、ごくまれだとわたしは思った。
そんなわたしの言われたくない言葉が、今1番理解しがたい人の口から飛び出た。
身体が震える。記憶が乱れる。
いらない。いらない。
ごめんなさい、とシスターに謝った。でもシスターは逆に謝る。わたしが悪いのに。
いらない。いらない。
ごめんなさい、と神父さんに謝った。でも神父さんは困った様な顔をするだけで、わたしを責めはしない。
いつかかなえたいことがあった。
ごめんなさい、じゃなくて、その代わりにありがとうが言える人になりたい。
シスターも神父さんも、みんな聞いて笑った。貴方ならできると言って。
でも心を突き刺す剣は、思った以上に重くて深くて。
溢れる熱い水を止めるのはまだ、慣れていなかった。
ごめんなさい、じゃなくて、ありがとうが言える人になりたい。
あの人にも同じことを言った。そしてあの人は言う。
”じゃあなりなさい。君が正しいと思う方向に向かって”
ペンダントを強く握りしめた。両親の形見の品はわたしを守って、いつもそこにあった。
「大丈夫か?」
低く広がる声がした。
つつむような、宥めるような、そんな声が。
わたしは、静かに目を開けた。
視界の端に、白い何かが映った。雲のようで、ううん、違う。
それはわからない何かだった。
涙で揺れる視界は、いつだって歪んだ世界しか見せてくれなかった。
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