▼ vengeance:target orange 02
譜(つぐ)兄さんに散々押さえつけられ、毛が何本か抜けた気がする夕暮れのころ。
なんで押さえつけられたり、押し倒されたりしたのかはわからなかったけど、とりあえずあまり息苦しくなかったのは嬉しかったかな。
これが弦(ゆづる)兄さんだったら、圧迫死させようとしてるんじゃなかって思うくらい押さえつけてくるからね。
ほんと、譜兄さんだっただけマシだよね。まあ譜兄さんに押さえつけられたことで芝生の草が毛に巻き付いたけどね。
会議が終わった白狼父(おとうさん)たちが戻ってきて、押さえつけられてた私を助けてくれた。今度は白狼父(おとうさん)のお腹の下に入れられたけど、まあそれほど圧迫感もない。
泉で全身水洗いされ、そして全身を舐めつくされ、また水洗いされ、というのを繰り返して、やっと毛並みが乾いたころ優子さんがやってきた。
「遅くなってごめんね、うた」
「わんっ」
大丈夫だよ、優子さん。
ピンクのふわふわしたタオルを取り出した優子さんは、それをかぶせるように私の背中へともっていった。
私の毛並みは意外と繊細で、ちょっとブラッシングや手入れを間違えると傷ついてしまう。十円ハゲモドキができるかもしれない、と学園長が言ったときは血の気が引いた。
生前はともかく、可愛い子犬的な見た目になった今としては、自分の容姿は綺麗に保っていきたいものだ。……こういうと本当にナルシスみたいに聞こえるなぁ。
ぽんぽんとタッチするように私の毛並みを撫でる優子さんは、もう十分だと思ったのかタオルを鞄の中へとしまった。代わりに目の前に白いケースが置かれる。
ペットを旅行に連れていくときに使う、あのケースだ。
名前はよくわからないけど、そういえばテレビでよく見るな、と思った。
「ちょっと苦しいかもしれないけど、このケースに入ってらえる?」
「わふ」
はい、と返事を返す。
ケースの柵を開けた優子さんは、中身を指さして私に問いかけた。
もちろん、頷きつきで返した。ああ、後ろの譜兄さんからの視線が痛い。
「はい、よくできました。……響生さん、うた連れていきますね」
「ウォンッ」
白狼父(おとうさん)の威厳たっぷりな鳴き声と、そのあとから聞こえる鳴き声はたぶん白狼兄弟(にいさん)たちだ。
結局譜兄さんと燈下委員長の関係はわからなかった。でも仕方ないのかもしれない。だって、意志疎通ができないのだから。
「ごめんね、うた。本当はケースになんか入れたくないんだけど、寮に連れていくときにはどうしても……。一宮さんもこうしたくはないっていってたんだけどね。本当にごめんね」
「わぅぅん」
気にしないで、優子さん。
そりゃまあ学園の生徒にとっては憧れどころか、雲の上的な存在の白狼のがは寮に居たら騒ぎたてちゃうし。
白狼を目当てに優子さんに近づく不逞の輩もいるだろうからねぇ。学園長も、優子さんの身の安全や学園での生活を考慮してそうしたんだと思う。
今までは優子さんが先に寮に入ってから、寮室の奥につけられた窓から入ってたんだよね。まあさすがに、それじゃあリスクが高いからってことでケースの使用に至ったんだけど。
扉を開けて、玄関先に置かれる。優子さんは扉を閉めて靴を脱ぐと、私をケースから出した。
そして私を抱えると、そのままお風呂に直行だ。
「よし。それじゃあうた、このたらいに乗って。うん、そうそう。……水、入れるよ」
水色のたらいに乗って、蛇口の水を注ぐ優子さん。生ぬるく設定された水は、この時期にはちょっと冷たいけど、体温の高い白狼の仔にはちょうどいい。
イヌにも種類があって、水が苦手な犬や、逆に好きな犬もいる。ラブラドールレトリーバーなどの犬種は、凍て付くような水温下であっても長時間泳ぎ続けることができるらしいのだから、これはすごい。
それに、ラブラドールの特徴として注目されるのはその足だ。なんでも水かきのついているらしい。その足を使って、網にかかった魚や水の上に浮いた獲物を捕ることができるそうだ。
更にはその被毛は水をはじく、防水効果まであるらしくて、それがラブラドールの水中での行動に一役買ってるんだろう。
犬、ってことでひとくくりにされやすいけど、こうして犬にもそれぞれの特徴がある。親戚に間違えられやすいゴールデンレトリバーとラブラドールも、その先祖は違うもので、能力もまた異なる。
狼から犬という種族ができ、そこから多くの犬種が増えた今、その1種となった白狼もまたまったく異なる種族なのだ。
なって初めてわかったけど、白狼は幼い頃から泉で遊び、水に慣れ親しんだ生活を送る。
そのためなのか、白狼は水に対して全く恐怖心がなく、むしろ人間同様1日に1度は水浴びをしないと気が済まないのだ。
「うた、水浴び終わったら教えてね。その間にご飯作るからね」
「わんっ」
丁度良いところで止められた水は、体高約40pしかない私の半分以上まで注がれている。
胸よりちょっと上あたりまで注がれた水は生暖かくて、でも私にはちょうどいいのだ。
大きなたらいの中を寝転ぶように身体を動かした。水がダブルコートになっている毛並みに染み込んで、毛並みがしっとりと濡れていく。
頭も突っ込んで、生前の髪を洗うように何度かそれを繰り返す。白狼は普通は家族で一緒に水浴びするから、泉で水浴びしてた時は弦兄さんが舌で水をすくってかけてくれてた。
それで、そのまま毛繕いするように頭を舐められておしまい。だけどここでは私1匹しかいないから、こうして何度も水に頭を突っ込まなきゃいけないんだ。
ちょこっと息苦しいけど、そうしないと汚れが落ちない。外で遊んだら菌はつきものだ。ちゃんと洗わないと、優子さんに悪影響があっちゃいけない。
ずっと室内で過ごしてるんだったら過剰にすることは無いけど、夜寝るとき以外は外にいるせいか、身体が気になる。
そろそろいいかな、あと水からでると、ダブルコートになっている毛並みが重い。
下毛(アンダーコート)と上毛(トップコート)から落ちる水滴、というかもはや蛇口から流れる水のごとく溢れるそれが、浴場の床を濡らしていく。
それでも寒くないのは、えっとアンダーコートのおかげだったっけ。あれ、トップコートだったっけ。生前犬を飼っていたわけじゃないから詳しいことを知ってるわけでもなく、アンダーやらトップという単語も、犬好きの燈下委員長から教えてもらった。
燈下委員長は、大の犬好きだ。他の人には隠してるみたいだったけど、一緒に水やりや畑仕事をしているうちに教えてくれた。
委員長のお家は華道のお家、っていうのは知ってたけど、もともとそんなに大きな家じゃないんだ、と言っていた。私からしたら十分大きな家柄だと思うけど、委員長はいやいやと首を振っていた。
なんでも、委員長のお家が栄えていたのはずいぶんと前で、江戸時代には公家にお花を献上していたほどらしい。
それが委員長の言う”それほどじゃない”という風になったのは、単に明治に映ってから華族やら貴族やらの制度が廃止になり、お花の時代が廃れていったから。戦争の時代となり、花もまともに育てられなくなり、人々も花への興味を失くしていたそれからの時代で、委員長の家は影へと形(なり)を潜めたそうだ。
それからの委員長の家、燈下(とうのした)家は、戦争のため従軍せざるを得ない状況へなり、やがて華やかな花の道から、銃を手に持つ軍家へと変わった。それでも自然を大事にしてた燈下家は、密かに華道を続け、その傍らで軍での狩りのパートナーとなる犬を育ててきた。
現代の燈下家は、華道でも有名だが、ドッグブリーダーを多く輩出する動物病院としてテレビの動物特集だと必ず出てくる。
燈下動物病院は、全国の動物の為の病院では初のもっとも大きな病院だった。今までの動物病院は、繁華街の隅っこに小さく存在するだけの、そんな日陰の存在だった。
だけど燈下家が表舞台に出てきたことによって、動物の為の、ちゃんと設備が整えられた病院ができたわけだ。学園でペットを飼っている何人かは燈下にお世話になっていると思う。
更にいうと、白狼の健康診断をしているのは燈下家なのだ。私も、母譲りの病弱体のためか燈下委員長のお家に世話になっていた。
そんな燈下委員長から、生前は犬の話や動物の話を多く聞いていた。私自身、動物が好きだったこともあって委員長からの話はよく覚えている。
最後に聞いたのが、ゴールデンレトリバーの被毛の事だった。ダブルコートのこと、その上下の毛についての事は、また明日なという一言で終了して、そしてもう聞くことは無かった。
「わぅんっ!」
ぶるぶる、と身体を震わせて水しぶきを飛ばす。
殆ど水が落ちたかな、と思って白いカーペットの上に乗った。実はこれ、生前の私が置いてたヤツだったり。
私の鳴き声に気付いた優子さんが、タオル片手に私の方にやってきた。
真っ白なタオルで全身を拭かれると、優子さんのうしろについてリビングへと入った。
小さな暖色系のちゃぶ台の上にご飯が乗せられている。優子さんは料理上手だ。
敷かれたふかふかの黒いカーペットの上に優子さんが座って、同じようにお座りの状態で待っている私の前にドッグプレートが置かれた。
「はい、いただきます」
「わぅわんっ!」
いただきます、と一鳴きして、優子さんが箸を持ったところで私も食べ始めた。
今日の晩御飯は、人参などの野菜多めだ。ミルクは少な目でカリカリとしたドッグフード、下の方は星柄のヤツだったので、珍しいと優子さんに一鳴き。
優子さんはそれで何が言いたかったのか気づいたのか、ニコニコしながら気づいた? と一言。
「ふふ、今日ね、仲良くなったひとにもらったの。お家にいっぱい持ってるんだって」
ニコニコしながら、お友達が増えたよ、と私に伝える優子さん。
でも可笑しいなぁ、この学園はペットの持ち込み禁止なんだけどなぁ。もしかしたら、白狼兄(にいさん)たちのうちの誰かのパートナーなのかもしれない。
だけど誰だろう? 宇緑書記は、持っていたとしても家がいっぱい持っていたから、なんて言わないだろう。
多分率直に、私用、もしくはプレゼントだとでも言って渡すに違いない。宇緑書記は不器用だから、たぶん隠したりなんかしないのだ。
なら、誰なんだろう? そう首を傾げつつも、プレートに盛られたごはんを食べていく。ほんのり甘い星型のドッグフードは、何時だったか食べたことがある気がする。
そう、どこかで、優子さんじゃない別の人に食べさせてもらったような……。
一体誰なのかは、わからないままだけど。
プレートを下げられて、けふっと満足げな息を吐く。
ちらっと覗いた窓の外は、キラキラとした星が輝いていた。
翌日。
優子さんのベッドの隣に備え付けられた1m位のベッドもどきから、いつも通り起きる。
何時の間にか設置されていたこのベッドもどきは、優子さんのコーディネートによってほんわかとしたピンク色だ。
まあ、今は色彩の問題でピンク色じゃないかもしれないけど。
朝の毛繕いをして、そしてもう1度優子さんのブラッシングを受ける。
綺麗になった毛並みは、相変わらずの内巻き。だけど全身鏡で見た自分の姿は、クルッとした毛並みが綺麗に巻かれていた。
故意で巻いていたわけじゃあないけど、綺麗な感じになっているので満足。
昨日のケースにまた入ると、黒いカバーをつけられた。朝はひとが多くいるから、黒いカバーで隠すんだ。
優子さんが扉を閉めた音が、ケース越しに聞こえた。
そしてそのまま、優子さんは数歩動くと、ぴたりと歩みを止めた。その勢いでケースの中が揺れる。
痛いってわけじゃあないけど、ちょっとびっくりした。
「――― アンタ、いい加減にしなよね」
「な、なにが?」
「なにが、じゃないわよ! あたし、昨日見てたんだからね! この間の演之助(えんのすけ)のこととい、昨日は詩記(しき)までっ! アンタ、演之助や詩記になに吹き込んだの!?」
「ッなにも吹き込んでないよっ! ひ、姫島さんこそ、わたしなにもしてないのにっ」
「うるさい! うるさいうるさい! あの二人はあたしのなのよ! 顔のいい男は、全てあたしのなの! あたしがヒロインなの!! ……アンタ、今に見てないさよ? 絶対に許さないんだから!」
バンッ、という音と、ケースの中が一気に揺れたことで、優子さんが突き飛ばされたことが分かった。
ずる、と何かが壁にすれる音がして、浮遊感がしたことで優子さんが蹲ったことに気付いた。とん、とケースが床についたみたい。
もう揺れなくなったケースと、無くなった浮遊感が床にケースが置かれたことを教えてくれた。だけど、周りが黒いカバーに覆い隠されたケースのなかは、暗くて優子さんの様子が見えない。
どうして、という小さな声で、優子さんが泣いているということに気付いた。
「な、なんでっ、わた、わたし、なにもしてな、ッ」
うん、そうだね。何もしてないよ、優子さん。
優子さんは何も悪くなんてないんだよ。だから、泣いちゃ駄目だ。
苦しくても、辛くても、悲しくても、寂しくても、泣いちゃ駄目だよ、優子さん。
悪くないなら泣くな。
生前の私も昔は泣き虫で、何か言われるとすぐ泣いたよ。でもね、私の保護者は駄目だっていうんだよ。自分が悪くないことで泣いてるから、もっと言われちゃうんだって。
強く気を持って、前を見て、走ってって。だから優子さん、泣かないで。
きゅぅ、と一鳴きした。優子さんがグイッと涙を拭く姿が目に浮かぶ。
カラカラの小さな笑い声が聞こえた。優子さんは、強くなるよ。うんと、強く。
そのためのきっかけを作ろう。私の復讐はきっと、優子さんのきっかけになるだろうね。
そう、きっと、ぜったい、かくじつに。
再びきた浮遊感が、優子さんが歩き始めたことを知らせてくれた。
ワイワイ騒ぐ生徒たちの声が、遠くに聞こえる。
おはよう、と誰かが優子さんに声を掛けた。
「おはよう!」
張り上げたような、元気な優子さんの声が聴こえた。
そう、とても元気な、優子さんの声が。
「それじゃあ、またあとでね、うた」
「わんっ!」
ケースから出されて、やっと優子さんの顔を見た。
少し目の周りが赤かったけど、ふんわりと浮かべられた笑顔がまぶしい、太陽の様な笑顔だった。
優子さんはくるりと後ろを向いて、軽快なステップで駆けていった。
その後ろ姿を見送って、小さく息を零した。
ふつふつと燃え上がる炎を消すにはどうすればいいんだろう。寝転がった芝生は少し痛くて、見上げた空は曇天だった。
「ワゥゥ?」
ゴロゴロと寝転がる。
頭のなかではグルグルと、今朝の事だけが再生されていた。
そんな私の頭を、撫ぜるように誰かがなめた。――― 弦兄さんだ。
緑がかかったように見える目に、サラサラとした毛並み。弦兄さんの毛並みは白狼父(おとうさん)譲りで、まったく癖のないサラサラとした毛並みだった。
家族の中で内巻きの毛並みなのは、私と2番目の譜兄さんだけ。そのほかの兄弟たちは全員サラサラなんだ。
サラサラとした毛並みの頬を、すりすりと私の腹に押し付ける。少し痛くて、抗議のつもりで一鳴きした。
すっと引いた弦兄さんは、私の隣で同じく寝転がった。大きな図体で寝転がる様は、なかなか貫録がある。
もしも、もしも弦兄さんだったら、もしも私と同じ体験を弦兄さんがしたとしたら、そして私と同じように復讐をすると決めたなら、どうするんだろう。
大きく復讐するのかな。同じように怪我をさせるのかな。それとも、私のように彼女が手に入れたものを壊そうとするのかな。
もしくは、何もしないのかな。そう、見ることも、考えることも、意識することもなく、自分の中から彼女や他のひとをすべて消して、新しい自分になるのかな。
こんな時にいつも思う。意志疎通、会話ができたらよかったのにって。
同じ種族なのに、家族なのに、なんでできないんだろう。もしかしたら、私のなかみが釣り合ってないからかもしれない。中身が、まだ人間の頃を引きずっているから、だからできないのかもしれない。
だけどたぶん、この復讐が終わるまで、いや、終わった後も、人間の唄は消えないのかもしれない。だってそれは、どうなろうと私だったから。
今のうたを形成するものの、大事なパーツだから。
だからこそ考える。もしも弦兄さんだったら、譜兄さんだったら、他の兄さんだったら、なんて思うんだろう。どうするんだろう。
たまらなく、それが聞きたい。いや、それが、じゃなくて、きっと何かを聴きたいだけのかもしれない。聞いて、喋って、会話って言うものをしたいのかもしれない。
心は1匹ぼっちじゃないってわかってるけど、でも、とっても寂しいんだ。
寂しいな。だけど、その寂しさより、悲しさより、何より燃え上がるものがあるから。
苦しくて悔しくて、どうしてって思うんだ。どうして、私があんな目に合わなきゃいけなかったのって。どうして、彼女は平気でいられるんだろうって。
彼女がね、少しだけでも反省してて、私のことを弔ってくれてて、それだったらいいんだ。まだ、心に余裕ができるから。
だけど、彼女はそうじゃなかった。内面がどうかなんてしらない。けど、彼女のその顔には、私の事なんて忘れてるみたいな、私の事なんてまったく気にしてないようなそんな表情だったから。
だからこそ、一歩も引くことなんてできない。
終わらないんだ。この苦しみも、悔しさも、何もかもが。
誰かはきっと思うんだろう。なんて愚かで、なんて馬鹿らしいって。
復讐することが、どんなに馬鹿らしいことかも知らないでって。でもね、これしかないと思うんだ。だって所詮は綺麗事でしょう?
復讐なんてしても自分が苦しいだけなんだって、うん、知ってるよ。だけど、これはたぶん当事者にならないと駄目なんだよ。
実際にそんな気持ちにならなきゃ、復讐をしたいなんて思わないんだよ。そんな気持ちになってるからこそ、こうして復讐をしようとしてる。
――― かなしいね
心の奥の、知らない声が、そう囁いた。
知らない声のはずなのに、何故か聞きなれている気さえした。だって似てるんだ。
耳で感じ取る、うたの鳴き声に。
「ワンッ」
「……わぅ」
いきなり立ち上がった弦兄さんが、私の首根っこを掴んだ。
ぶらぶらと揺れる私はギュっと目を瞑った。強く吹いた風が、目を乾かしていく気がしたから。
弦兄さんが向かっている先はどこかなんてわからなくて、でも、不思議と悪くない予感がした。
ぽすん、と降ろされた。ふわふわとした感覚で、なんでか生暖かい。
芝生のうえ、のはずなのに、なんでだろう、と目を開ける。視界一面に、白い何かが映った。
「……ガゥ」
「……わぅん?」
低い鳴き声。私と同じ内巻きの毛。
弦兄さんと変わらない大きさで、だけど、弦兄さんとはやっぱり違う。
フン、と鼻で笑った弦兄さんは、私を1度咥えて芝生のうえに降ろした。
「グルルゥ……」
「グルァ」
――― 譜兄さん
内巻き気味の毛は灰色に近いけどやっぱり綺麗な白で、目の色は赤味を帯びた黒色。
どこか機嫌が悪いのか、目を細めている。
そんな譜兄さんは弦兄さんを睨み付けたままで、弦兄さんもにらみ返している。
大きな二人に挟まれたまま、私は芝生に寝転んだ。ただしくは、強風にあおられて寝転んだ。
兄さんたちは、そんな私をみて、どこか唖然とした表情をしている。あえて言うなら、まるでこれごときで倒れんのか、みたいな感じだ。
箸が使えない日本人並みの驚きだろう。え、こんな風ごときで、みたいなもの。
譜兄さんの方に転がった私は、暖かさを求めて譜兄さんの毛並みに前足を伸ばした。ぽふ、という感覚で、譜兄さんの胸あたりに手がつく。
それを見た譜兄さんは、私と弦兄さんを何度か見た後、私の身体をぐいっと引き寄せた。同じ内巻きの譜兄さんの毛並みは、他の白狼同様ダブルコートになっていて、長い毛に巻き付くようにすり寄った。
その暖かさに、少しだけ泣いてしまったのは、きっとバレてないと思う。
「ガルゥ……ッ」
「グル」
ハン、と譜兄さんが鼻で笑うように息を吐くと、そのまま私の首根っこを摘まんだ。
再びの浮遊感に、もう一度目を瞑った。冷たい風が毛並みを撫でるから、たぶん譜兄さんは全力で駆けてる。
少しだけ目を開けると、赤い紅葉が見えた。
ざわざわと揺れる葉がゆらゆらと落ちてくる。空は紅葉で見えなくて、だけどまるで泣きそうな夕空にも見えた。
もう一度目を瞑ると、そのまま揺れるリズムに身を任せた。
とん、と軽い音を立てて、たぶん譜兄さんが駆けるのをやめたんだと思う。あまり音を立てずに着地することが白狼の常識なんだって知ったのは、譜兄さんが何回も私の目の前でやるからだ。
あと私が音を立てて着地するとめちゃくちゃ吠えるからだ。それで、音を立てることなく着地するのが最もいいことで、常識なんだってことを覚えた。意思疎通ができないから、何が正しいのかわからなかったんだよね。
だからこそ譜兄さんは、私にとっては先生みたいな感じ。おかげ様で、他の白狼から目をつけられることもないわけだし。……あったことないけど。
「グルルァ」
「わぅ」
一鳴きしてから歩き始めた譜兄さんの後ろを、覚束ない足取りでついて行く。
地面に落ちた葉もすっかり赤くなっている今日この頃、降り注ぐ椛の葉が毛並みに絡まるのはもう、慣れてしまった。
「わぷっ」
「……グルゥ」
ハーッと鼻で息を吐いた譜兄さん。心なしか呆れているようにも見えた。
そんな譜兄さんに、申し訳なさ気に私は鳴いた。
「……ッハハ、っくぅ、ははははは! なん、なんだお前らっ、ははは! コントか、よ、っくく……ッ」
突き抜けるような大きな笑い声。
木に止まっていた鳥さえも飛びだってしまうほどの大声に、耳の良い私は頭が痛くなった。
だけど譜兄さんは慣れているのか、不機嫌そうに一鳴きすると、笑い声の主に向かって跳びついた。
それは見事な跳び付きで、立っていた声の主は後ろに押し倒される形になった。
「イテッ、痛ぇよ譜! やめ、ヤメロ! イテテッ、悪かったから! 笑って悪かったかよ!」
「グルルァ!」
「ちょ、ちび! ちびもなんか言ってくれ! コイツいうコト聞かねぇんだよ!」
「……わぅ?」
譜兄さんの白い毛並みの隙間から、ハニーブラウンの髪の毛が見えた。
そして、なんか言え、と言いつつも楽しそうな声質に、雰囲気。
譜兄さんがじゃれつく、というかまるで狩りのように跳び付いているその人物は、間違いなく燈下委員長だった。
「昨日ぶりだなァ、ちび。約束、守ったじゃねェの」
にしし、と白い歯を見せて笑う燈下委員長。
黄色いに赤に茶色に、いろいろ混ぜた紅葉はオレンジ色に見えた。
そんな紅葉と、燈下委員長のハニーブラウンの髪色が合わさって綺麗に見えた。
そう、暖かなオレンジ色の優しい光が、彼にかかっているようにも見えたのだ。
譜兄さんが一鳴きする。
手招きをする燈下委員長のもとへと、走っていった。
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