オルフェの契約


 住まいとしている郊外の家から花火は見えない。だから綱吉はわざわざ、パレルモ新市街にある高級ホテルの、新年にかけての景観のために価格が跳ね上がるスイートルームを押さえた。どうしても花火が見たいわけではなかった。見たかったとしても、人で溢れかえる広場に繰り出せばそれで済む。ホテルを取ったのは安全とプライバシーのためだ。ついでに、困難な要求を可能にする力と、それを行使した結果の贅沢とを一度楽しんでみたいという、無邪気な好奇心を満たす目的があったことは否めない。ともかくこの空間を確保したことが重要だった。出費は嵩んだものの、日頃奢侈を好まないので懐は充分暖かかった。
 室内もまた暖かいが、冷気の染みるバルコニーの窓際に綱吉はいた。年と日付けが同時に変わってしばらく経つ。ミニ・ライブも花火もカウントダウンも済んでしまって、人でごった返していた広場も今は閑散としている。その移り変わりを綱吉は、椅子にだらしなく凭れ、コーラのボトルを片手に一人で見下ろしていた。
 率直に言って相当眠かった。いつもの就寝時間はとうに過ぎ、年越しの非日常感がもたらしたアドレナリンも切れた。更には部屋にあったビールが多少作用している。額を窓ガラスに預けると、冷たさのためにいっとき意識が冴えたが、ガラスはじきに体温に馴染んで、ただのなめらかな板になる。
 重く、乾いて、痒みを覚え始めた瞼のきわが気怠げに上下する。今この瞬間、広いベッドに身を投げ出したらどんなに快いだろう。コーヒーに落とした角砂糖のように素早く、何の妨げもなく眠りに沈み溶けていってしまうだろう。ところが綱吉はそうしなかった。睡眠を欲する身体を自覚していながら、長時間座り続けるにはやや硬い椅子から動かなかった。
 綱吉の視線は窓の外に固定されていたが、特に何かに注目していたわけではなかった。何故そうしているのか分からないまま、ただ目がそちらを向いていたし、ただ起きていなくてはならなかった。もしかしたら知っているのかもしれない理由は、眠気と微かな酔いのために思い出すこともできずにいる。



 綱吉は突然覚醒した。ベッドの上で温まった布団に包まれていることを知り、遅れて、目覚めたのは窓から差し込む光のためであることに気付いた。しばらく考え、こうなる前の最後の記憶は、若い男たちが覚束ない足取りで踊るのを窓越しに眺め下ろしながらコーラを口に含んだ辺りだ、と結論づけた。それもベッドルームではなく居間で。弾みをつけて身体を起こすと、微かに漂い来る匂いを嗅ぎ取った。
 日本にいた頃から愛用しているクタクタのスウェット姿のまま、かろうじてスリッパを引っ掛けて寝室を出る。唐突に開けた空間の中の、広い窓越しの快晴、上品な壁紙、華美なつくりの家具、テーブルの上で湯気を立てる食事、そしてコーヒーを注ぐリボーン、という景色が一幅の絵のように綱吉の目に焼きついた。
 リボーンが顔も上げずに言った。
「今、起こしに行こうと思ってた」
 戻したポットの底とテーブルが触れ合って立てた音さえ完璧に洗練されている。
「……何時?」
「十時半」
「そ」
 一方の綱吉は、クシャクシャの髪をして、尋ねる声もあくび交じりという有様だった。リボーンは一時期、身嗜みについて執拗に小言を寄越し続けたことがある。しかし今は、ただ僅かに目を細めただけで、たいして気にしていないように見えた。座るように目線で促されたので、綱吉は素直に従った。
 遅い朝食は静かに進んだ。時折、ホテルが提供するサービスの質への賛嘆が漏れる他は、これといった会話もない。綱吉は気の向いたものから口に入れつつ、ひたすら向かいに座る元家庭教師を眺めた。
 間違いなく視線には気付いているだろうに、リボーンは咎めも応えもせず、取り澄ましていた。本当は少し彼を責めたい気持ちもあったし、詰ってもみたかった。だがもう甘えた振る舞いはしないと決めているのだ。綱吉はリボーンと対等でありたかった。それに、今まさに彼と同じ時を過ごしていて、確かに喜びがあった。
 小さな恨み、喜び、諦めと期待、悲しみ、ときめき。リボーンの存在は呆れるほど多くの感情を綱吉から引き出し、同時に閉じ込める。
 食べ物が綺麗になくなって、綱吉が物憂いシャワーから戻ると、テーブルは魔法のように片付いていた。大型テレビが長閑な旅番組の再放送を流し、リボーンはカフェ・ラ・テを用意していた。リボーンが一人掛けの、綱吉が二人掛けの、ローテーブルの角を囲うそれぞれのソファに陣取り、マグカップから飲みながら二人はまたしても沈黙に浸った。旬を過ぎた俳優が呑気に喋り続け、綱吉の喉元からは、言いたいことが湧き上がっては萎んでいった。
 しかしついに、ようやく、リボーンが意味のある言葉を発した。
「高かったろ」
 このスイートの話だとすぐに分かった。
「まあね、手が出ないほどじゃなかったけど」
「……いい部屋だ」
「うん。眺めが良い」
 良かった。
「ああ」
「……花火なんか、日本で見る方が、ずっと凝ってるけどさ」
「ああ。そうだな」
「でも良かった。結構楽しかったな。また予約してもいいかも」
 リボーンは黙っている。
「うん……毎年でもいいな。そうしよう」
 リボーンは答えない。しかし綱吉を見る彼の顔が、取り澄ました無表情から、ほんの僅か揺らいで、優しさと慈愛と、苦悩を滲ませた。それを認めた綱吉の心臓にはどっと波が押し寄せて、静寂の蓋はますます強く、その下はますます荒ぶる。
 お前を待ってた。お前といたかった。何ものも妨げないほど静かに、何ものも防げないほど熱く。お前の高くはない体温を感じて、凍えるような窓際で寄り添っていたかった。全ての歪みを覆い隠す幸福の海に浸っていたかった。綱吉は昨晩の情動と、もうひとつ確かな身体の記憶を呼び覚ました。温かくも柔らかくもない手に引かれて、ふらつきながらも確実に歩いたこと。全身を温かく包まれ、顔に柔らかなものが触れたこと。
 綱吉の海は荒れ、勢いのままに走り出してしまいたかった。言葉が幾度も寄せては返した。しかしリボーンが、全てを受け入れた上で、拒むように、ほんの微かに唇を開いていたので、自分の足場から動くことはできなかった。
 二人はひたすら、少しずつ、甘いカフェ・ラ・テを飲み下した。言葉や思いと共に。部屋の三分の一を満たす陽光が不自然なほど明るい。マグが空になってしまうと、リボーンはぐずぐずと時を浪費していたことが嘘のように立ち上がった。もう昼近くなっていて、実のところチェックアウトの時間が迫っていた。彼は淀みなくハンガーからコートとマフラーを、帽子掛けからボルサリーノを取った。
「じゃあな」
 身支度を整えたリボーンが言った。綱吉は、今日――昨日のためにしたような約束を求める言葉を、何ひとつ口にできなかった。たとえ言ってしまったところでどうにもできない。リボーンの訪れをただ待っていなければならないという点で、綱吉は彼の愛人たちと何ら変わらないが、親密な接触を許されないという意味では彼女たちにも劣る。しかし、たとえ触れ合わなくとも綱吉にはリボーンの思いが分かるし、リボーンもまた綱吉を知っている。ならばこの上望むことなどあるだろうか?
 綱吉はただ頷いた。それから掠れがちな声で囁いた。
「じゃあ」
 愛おしさと寂しさが際限なく育つ。綱吉は心臓の辺りをそっと撫でつけた。そうすることで、膨れ上がる感情を宥め、弾けてしまうのを抑えておけるというように。痛みは和らいだと思ったが、背を向けるリボーンの手が同じように胸元を撫でたのを見て、またひどく疼いた。ドアの閉まる音が完全に終息して、綱吉は取り残された。立ち去らねばならない、素晴らしい部屋を見回して、そして疼きを閉じ込めにかかった。



fin.

2016/01/04
きりはらさんへ、HAPPY BIRTHDAY!
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