オリーブ


「ああ、良かった。会えないまま帰んなきゃいけねーかと」
 獄寺は一瞬こちらに流し目をくれて、それからふうっと煙を吐き出した。壁に凭れたまま動く様子もない。特に用があってここにいるのではないことを示唆しているつもりらしい。もしも自分がこのまま去って行けば、その場でゆっくり煙草を灰にして、それから元いたところへ帰ってしまうのだろう。山本はしかしそうせずに、拳ひとつかふたつ分の小さな隙間を空けて同じように壁に背を預けた。

 低く掠れた声が言う。
「……手」
「ん?」
「右手。見せろ」
 要求通りにしてやると、獄寺は短くなった煙草を地面に落とし、そっと触れてきた。2人の男の手はどちらもごつごつと骨張って、皮は厚く硬い。しかしよく日に焼けた山本の肌の上で、獄寺の指は殊更白かった。山本は、獄寺が自分の手を慎重に裏返して掌に触れ、指の一本一本を検分するようにしているのを、その眉根を寄せた横顔を黙って眺めた。
 山本の掌は肉刺だらけで、指には胼胝ができているが、ささくれひとつ、ひっかき傷のひとつもない。獄寺はそのことをよく知っているだろうに、ざらりとした指の腹を何度も、丁寧に確かめるように撫でる。擦れ合う微かな感触にはむず痒さ以上の何かがあった。

「帰るんだな」
「ああ」
 それは断定だった。そしてそれ以上だった。2人の間には距離だけでない隔たりがあって、天地がひっくり返りでもしない限り無くなりはしないのだ。出会って以来初めて、そんなにも遠くへ行こうとしている。
「お前は……それでいい」
「ツナもそう言ってくれた」
「他には?」
「特に。何も」
「……十代目は」
 獄寺は顔を上げた。目を細めてどこか遠くを見ている。山本の右手を掴む力は忘れ去られたように弱くなり、辛うじて引っ掛かっているような格好だった。
「お優しいから。お前を……大切に思っていらっしゃるから」
「お前もそうだって、俺は信じたいんだけど」
 ひゅ、と小さく息を飲む音がして、恐る恐るの二呼吸の後、ほとんど囁くように獄寺は言った。
「俺は違う。俺は優しくなんかない」
 山本は端正な横顔をじっと見つめていた。少年の日の面影も濃く、しかしその頃には見られなかった深みのある苦悩を刻んだ顔は、常に記憶にあるより美しいように思われた。
「優しいよ、お前は」
「優しくなんかない。だから言わせろ」
 鈍い痛みが走る。落ちかかった手を強く握り締め、ほとんど爪まで立てながら、獄寺はその眼差しでとうとう山本を貫いた。山本は何度も瞬いてようやくそれを受けとめる。
「馬鹿野郎」
「……うん」

 自由な左手で頬をさする。きつく寄せられた眉間はそのまま眉尻が下がって、今にも泣きだしそうに見えた。額を寄せて瞳を覗き込む。少しくすんだ深い緑色という以上にどんな表現が相応しいかは分からないが、頼りなげに揺れるそれの本当の姿を知っている。泰然とした冷たさの奥で激しく吹き荒れる闘志があるのを知っている。
「馬鹿」
「そうだな」
 確かに優しさの欠片もないらしい。彼の思いの丈が容赦なく苛烈に心臓を突き刺す。永の別れというわけでもない、しかし世界は分かたれる。引き寄せて口づけると獄寺の手の力は更に強くなった。煙草の味は、昔とは違う。
「……お前の」
 柔らかいがかさついた唇に息を吹き込むようにすると、瞼が僅かに上がり、暗がりの中に瞳が覗く。
「こんな風にすげえ近くで、真っ直ぐ見てると……見てる時って……」
「……なんなんだ」
「いや」
 蜘蛛の糸のようなか細い睫毛が素早く瞬き、緑色を霞ませる。山本は小さく首を振った。試しに目を閉じても、大丈夫、鮮やかに思い描ける。
「いいんだ。昔の話」
 今日を限りに。善い側のものたちで胸を満たしたその瞳は。



fin.

2013/4/16
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