D-break


 とても疲れていて、頭が重かった。眠りたいと訴える身体の欲求は聞こえるのに、目元は引き攣れたようになって閉じる気も起こらない。きっと明かりのせいだ、そう思って照明を落とす。ただ窓際のランプだけが残って、その鬱々とした柔らかさにほっと嘆息した。
 カーテンがほんの少し開いている。磨き抜かれたガラス越しに臨む空は、どこまでも深く、広く、覆い被さるように迫る蒼。深夜のそれより更に研ぎ澄まされた静寂を、生きとし生けるものの押し殺した息遣いを思い至らしめる暁闇。世界はじっと蹲ってエオスを待っていた。この時間のこの空は、綱吉を最も委縮させ、同時に奥深くの情動を解き放つ。止める者も、もう休めと言う者もない――誰もいなかった。
 綱吉は急に踵を返して、椅子の背に投げかけてあった上着に袖を通した。机の右側、一番上の引き出しにはリボルバーが入っている。必ず武器を持ち歩け、と嫌というほど聞かされた。誰もいないけれど、綱吉はきちんと言いつけを守って、それを内ポケットに突っ込んだ。ようやく――今更――いい生徒になれそうな気がした。
 静かに部屋を出た。鼓動がひとつひとつを打つごとに、冷たい鉄の塊を叩く。そのせいで少し、痛い。



 生家を広いと思ったことはなかったが、長い間母と2人きりで、やはり持て余し気味だったのかもしれないと回顧する。なぜならリボーンが扉を叩いて以来なし崩しのうちに手狭とさえ感じるようになった、それより前の暮らしを朧げにしか覚えていない。
 この、綱吉一人には大きすぎる屋敷は、重々しく閑寂とした空気に満ちている。誰にも咎められる心配はないのに、つい足音を忍ばせるのは染み付いた習慣のせいだけではなかった。夜明け前の均衡はとても壊れやすくて、ごく自然に緊張を強いるのだ。
 玄関のところで2人の若衆に引き止められた。こうして夜通し警戒を要する、今の情勢とはつまりそういうものだった。伴をしようと申し出る彼らに、敷地の外へは出ないからと首を振る。ご苦労様、あとで一緒に朝食にしよう。労いの言葉に部下たちは小さく笑みを零した。
 僅かな時間に空は随分その蒼を薄めていた。こうして眺めている間にも夜は足早に去って行き、微かに残り香を留めるだけになっている。今日はよく晴れそうだ。世界の目覚めまでいくばくもなかった。しかし太陽は未だその恵みのひとすじさえも寄越さずにいる。源の見えない明るさは同じだけ茫漠とした不安を呼んだ。
 屋敷の裏手に横たわる丘に、踏み固められただけの道が細く伸びている。浮足立ちそうになる己を鎮めながら綱吉は歩きだした。風はない。冷え冷えとした外気が身を包み、生い茂る丈高い雑草はかさりともしない。緩やかな傾斜を、綱吉は一歩一歩、巡礼者として登って行った。ひと足ごとに内から外から、鉄塊の硬さが胸に響いた。神はいなくとも祈ることを欲していたのかもしれない。



***



 気付いた時にはもう遅すぎたのだろう。マーモンが訴えていた異変と恐怖とを、当の本人の訃報と共に知った日から、綱吉はリボーンを屋敷に留めて外出を許さなかった。彼は次第に弱っていった。それは身に科せられた二重の呪いのためでもあったし、自ら死に向かって歩いて行くのではなくその訪れを待たねばならぬ屈辱のためでもあった。彼の苛立ちと怒りを、哀願を、声にならぬ声として受け取った綱吉は、しかし敢えて耳を塞いだ。ひしと囲った腕の力を強め、だが見えざる脅威の侵入を阻むことはできなかった。
 彼を救うためならどんなことでもしただろう。しかしあの恐ろしい、永遠とも感じられる冬の夜の如き日々、か細い呼吸を繰り返す彼の傍らにあって、綱吉はかつてなく無力な子どもだった。
 その日綱吉は、ベッドの脇でただ時をやり過ごしていた。リボーンは眠らなかったらしく、時折目を開けたり閉じたりしながら黙って横たわっていた。数時間に渡る沈黙は、外に出たいというごく微かな声が破った。はっとして、すぐに駄目だよと頭を振った。リボーンはゆっくりと瞬きながら何度も乞うた。綱吉は頑なに拒み続け、では窓を開けてくれという譲歩もやはり聞き入れなかった。すると声が途切れて、脳髄を締め上げるような静寂に悩まされた。それは随分と長いこと続いたように思われた。それからとうとうリボーンは、窓のところへ連れて行ってくれ、と囁いた。
 悔しさと情けなさが喉元に凝って熱くなるのを感じながら、綱吉は立ち上がってカーテンを引いた。青灰色の淡い明るみが、冷ややかな礼儀正しさでもって部屋を満たした。毛布で包んだ子どもの身体を抱き上げ、窓際の椅子に腰かけて膝に乗せても、文句は出なかった。2人はそうして静かに座っていた。停滞した空気を乱すことを怖れるように、疲れを知らぬ追跡者の足音から逃れるように、じっと息を潜めていた。
 東の空に、掠れる絵筆を走らせたかに見えていた薄雲が、次々と色を変えていった。夜の衣をはぎ取りながら踏み出す朝を、2人はただ眺めた。綱吉は己の胸に鈍く伝わる温もりを強くかき抱いた。腕にかかった細い指の、あまりにも軽い感触を、ひどく頼りなく思って目蓋が震えた。
 差し込む明かりが温もりを伴い始めた頃、リボーンは低く寝息を立てていた。連れ出した時の倍も慎重にベッドに入れてやり、さらさらと乾いた頬や髪を撫でた。離しがたい指先をようやく握り込んでその場を後にした。
 それが最後の朝だった。



***



 夜明けだ。
 黄金の箭が空を裂き大地を駆ける。最も小さく蹲るひと時を越え、全ては急速に息を吹き返していく。やがて光は綱吉のいるところまで届いて、足許の緑を彩なした。ほんの数歩先の、そこだけ色の濃い剥き出しの土と、ただ無造作に置かれた石碑さえ、陽光に染まって温かみを増して見えた。
 近頃平穏と均衡はますますその土台を危うくしている。どうにか支えようとする綱吉らの奮闘は虚しい努力となりつつあったが、投げ出すこともできず結局それに振り回される格好だ。かつてない緊張と不安が蔓延っていた。
 しかし綱吉の意識は頭上に浮いて、ガラスの壁に取り巻かれているかのように明瞭でいながら遠かった。夢でも見ているような――いや、これまでの10年こそが夢で、最近ようやく目覚めたばかりなのかもしれない。なぜならその間、綱吉の傍らには彼がいた。それより前にはただ漫然と、今は道標を亡くして彷徨っていた、おまけに負う荷は重かった。いずれにせよ綱吉にできることはもう何もない。夜毎現れては破れ去る面影を、せめて忘れてしまわないように描き直すことの他は。
 綱吉は跪いていた。陽に包まれた飾り気のない石碑はしかし、冷えた指先より尚冷たい。やがて立ち上がった時、胸元の冷徹な凶器が三度その存在を知らしめた。いよいよそれに貫かれる瞬間は、きっと遠くはないだろう。



fin.

2012/12/29初出
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