とわの幸福


 疲れ切った人々があちらこちらで吐く息は、淀んだ想いを抱えてこの密室を満たしていく。むっとした空気は時の経つにつれますます不快の度を上げた。もうこの常軌を逸した混雑具合にも、女性との接触の回避も――痴漢の疑いを掛けられたのは一度や二度ではない。不本意だ――だいぶ慣れたつもりだ。しかし嫌なことには変わりない。昼間ごっそり持って行かれたHPの多くはない残りを、ここで止めとばかりに削られるわけである。
 綱吉が倒れずにいられるのは、ひとえに彼の帰りを待つ家族というラストリーヴのお陰だった。いつもながら足が遅く感じられる電車からようやく逃れ出て、人波に流されるように歩き出した。

 彼は未だに生まれ育った一軒家に暮らしていた。学生時代、独り立ち紛いのことをしてみた経験もあるが、生活能力がないのと(誰にも言わなかったが)寂しかったのとで愉快な思い出は少ない。結局就職を機に出戻った息子を、母は呆れ笑いで受け入れた。
 今、おかえりを言ってくれるのは彼女ではない人――ともう一人。ドアを開けた途端、ただいまを言うより先に、綱吉は飛び込んできた弾丸を抱き止めなくてはならなかった。
「ちょ、あぶな……」
「ねえ、はやく!はやくごはん食べよ、あのね今日ハンバーグだよ!あとね――」
「分かった、わかったから……靴脱ぐからどいて、ほら」
「うん、あとね!今日ようちえんでね」
「こーら」
 キッチンからひょっこり妻が顔を出す。せいぜい怖そうな表情を作って、先におかえりなさいでしょ、と嗜める姿に、思わず笑い出しそうになったが踏み止まった。普段威厳のないことにかけて、綱吉は彼女の上を行く。
 ようよう食卓について、熱の入った「今日の報告」をいちいち頷きながら聞いてやった。一通り喋って満足すると、今度は大好物を口に運ぶのに忙しくしている。静かになった子どもの代わりに妻が話し始めて、綱吉はその内容よりも穏やかな声に耳を傾ける。平凡な家族の情景だった。彼が一日で一番、優しい気持ちになる時間だった。



 特に集中して見るわけでもないテレビは、ただ子どもが寝入った後の静けさを紛らわす程度のものだ。ちまちまとビール缶を口に運ぶ彼の向かいで、妻は小さな手提げかばんのアップリケを付け直している。彼女は昔から裁縫が上手かった。
「――そうそう、明日ね」
「うん?」
「花とハルちゃんとランチしてくる。主に花の愚痴を聞きに、だけど」
「ああ……そっか、お兄さん」
 2人してくすくす笑った。減量がどうので食事の用意がえらく面倒なのだと、笹川花は試合が近づく度に零していた。
「試合終ったらまたパーティーしようね」
「残念パーティーにならなきゃいいけど」
「ならないよ。もし負けてもね。だってお兄ちゃんだもん」
 大真面目に言われて綱吉はまた吹き出した。勝っても負けてもさぞかし盛り上がることだろう。それも本人が一番。
「そうだね、じゃ、早いうちに計画――」
 はたと口を噤んだ。
 急な沈黙を訝ったらしい視線を感じながら、ゆっくりと飲み残しの缶を置く。
「どうかした?」
「……ごめん。ちょっと出てきてもいいかな」
 ひどく真剣な顔になっている自覚はあった。見つめ合い、やがて妻はいつも通りの笑みを浮かべ、いってらっしゃい、と言った。



 まださほど遅い時間帯でもないが、住宅街だから人通りは疎らだった。綱吉は足の向くまま、でたらめに歩いていた。急ぎはしなかった。必要ないと思ったからだ。しかしやがて、夜を切り出したような人影が現れると、どうしてはじめから駆けて行かなかったのかとさえ感じた。それでもぐっと堪えて、アスファルトの硬さを確かめながら、ゆっくり歩み寄った。
「――直感は鈍ってねーらしいな」
「……うん」
 声の主の方へと更に近付いて、懐かしいその顔を見上げた。――初めて見上げた。
「4年ぶりかな。背、伸びた……つか、伸びすぎ」
 一番新しい記憶の彼は、綱吉の目線よりもずっと低いところにいて、頬はあどけなさを残して柔かった。もう、身体のどこにもふっくらしたまろみは見当たらず、あの赤ん坊の面影はほとんどない。
 けれど、リボーンだった。
「お前が伸びなかったのが悪い。……変わりなさそうだな」
「まあ、大方はね。……こないだザンザスが来たけど」
「まだ言ってくるのか、アイツ」
「いや、もうほとんど。嫌味とか皮肉くらいのもんかな」
 馬鹿にしたように鼻で笑って、あまり面白くもないからかリボーンはさっさと話題を変え、京子たちは、と促してくる。
「もちろん元気。……リボーンは?どう?」
「当然、相変わらずイケイケのモテモテのウハウハだぞ」
「あっそ……いつもそう言うよな、お前……」
 今彼がどうしているのか、もしも詳しく聞こうとすれば、全てではないにせよきっと教えてくれただろう。しかし綱吉はそうしなかった。そうしてはいけないと分かっていた。綱吉は自らそういう道を採ったのだ。
「まあいいや、元気なら。うち、寄ってくだろ?」
 返答は無言だった。綱吉は幾度か瞬いて、やがて目を伏せた。
「……そう。京子ちゃんが残念がるよ」
「悪いな、俺も暇じゃ……何してんだ」
「ん?もう行っちゃうなら、ちゃんと見とかなきゃと思って」
 冷たい印象さえ受ける白い面は、触れればちゃんと温かい。なぞる肌のきめ細やかさが彼の魂と不釣り合いな年齢を思わせる。リボーンは止めるでもなくただ黙っていた。その瞳をじっと覗き込む。刃物のように剛い眼光は、綱吉の中心に深く突き立って、今でも変わらずそこにあるのだった。
 この瞬間がいつまでも続くとも思えた日々は遠く愛おしい。そして時折切なかった。一片の疑いもなく彼と共に在り続けることを信じていた。話し掛ければ応えがあり、十色にも変わってツナと呼ぶ声があるものと。
「……リボーン」
「ああ」
「リボーン」
「なんだよ」
「……大きくなっちゃったな、リボーン」
 見送った小さな薄い背中をどれだけ頼ったことだろう。シチリアに行かないと決めたあの晩綱吉はこっそり泣いた。どうして引き止めて、しっかりこの腕に捕まえてはいけなかったのだろうと何度も問うた。だがどんなに理不尽だと自分自身を詰っても、出来ない相談だったのだ。
 もう泣くことはしない。代わりに綱吉は笑った。今、幸せだった。彼がいなければそれもなかったかもしれない。だからあの日々を思って、愛する人たちに寄り添って、この手にリボーンを感じるほんのひと時に浸って、綱吉は笑った。
「また来てくれて、嬉しいよ」
「……ああ」
 何の気なしに手を伸ばせばそこにいる距離は今となっては万金に値する。次はいつ会えるだろうとも言い出せなかった。一瞬を永久にも感じたくて、綱吉は手の中の温もりをただ慈しんでいた。


fin.

2012/11/12
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