十八の夜


 ふと参考書から顔を上げて時計を見ると、深夜一時を回っていた。
 土方は今まさに手をつけようとしていた文章題にチラリと目をやって、シャーペンを置いた。そろそろ頭の回転も鈍ってきている。続きは学校で、休み時間にでもやればいい。
 硬直していた背中を伸ばすと関節が鳴った。首筋を揉みながら立ち上がったその時、マナーモードにしてある携帯電話がメールの受信を告げた。誰だこんな時間に。震えるそれを取り上げて見ると、ディスプレイには『メール受信 坂田』の文字が浮かんでいた。
 あからさまに舌打ちしながらも、律儀に受信ボックスを開いた。件名は無く、本文には『起きてる?』とだけある。土方は返信ボタンを押し、『寝てる』と打った。妙な時間に要らんメールするなという気持ちを込めて。送信。
 携帯を充電器に戻し、何か飲もうと部屋を出かけたが、再びのバイブレーションに阻まれた。しかも今度は電話だ。しまった、無視するべきだった。起きている事が向こうに知られてしまった以上、何らかのリアクションを返さない限り電話なりメールなりの攻勢は多分止まない。土方は諦めて電話に出た。
 「んだよテメー、こんな時間に」
 既に寝入っている家族を慮って、自然と抑えた声になった。
 『おおっ?出た!』
 電波が伝えてくる声は興奮気味だが、流石に音量自体は控えめだった。
 「出ちゃ悪ィかよ。つーか何の用だホントに。下らねー話だったら明日ぶっ飛ばす」
 『いや、用っつかさ……今、お前ン家の前なんだけど』
 「ハア?!」
 思わず頓狂な声が出た。慌てて声を低くする。
 「何時だと思ってんだよ。この時期に補導なんかされたらどうする気だ、お前ただでさえ卒業ヤベーのに」
 『誰もいやしねーって。それよりさ、ちょっと降りて来いよ』
 「なんでだよ。俺を巻き込むな」
 『いーじゃん。ちょっとさ、散歩行こうぜ。真夜中の散歩』
 土方は僅かに返事に詰まった。真夜中の散歩。健全な高校生男子にしてみれば、なんともスリリングな魅力溢れる響きだ。大いに心惹かれる。
 「……つーか、なんで俺を誘うんだよ」
 『一人ってのも味気ねーじゃん?なァ行こうぜ。散歩デート』
 なんちゃって、と妙に楽しそうな坂田に、アホか、と返しながらも、土方はベッドに置きっ放しのパーカーを手に取った。深夜の徘徊は男のロマンだ。十五の夜的な。もう十八だけど。たとえ明日――もう今日か――寝坊して遅刻しようが、痛くもなんともない。今までの模範的素行(表向きは)の賜物だ。坂田はそうはいかないだろうが。ざまあ見ろ。
 「――今、降りっから。待ってろ」
 返事は聞かずに通話を切った。携帯をポケットに突っ込み、部屋着のスウェットとTシャツにパーカーを羽織っただけの格好で部屋を出た。足音を忍ばせて階下へ降り、素早く履き古したズックを突っ掛ける。そーっと鍵を回してドアを押し開けると、似たような格好の坂田がそこにいた。
 「やっぱ来るんじゃん。最初のカタクナな態度はどこへやらだねー。土方ってばツンデレー」
 「うっせ、息抜きだ息抜き。アホなこと言ってると戻るぞ」
 「へえへえ。――行こうぜ」
 そう言うと土方に背中を向けて歩き出した。そのすぐ後ろ、横顔が見えるくらいの位置を追った。


 坂田の歩調は普段の倍、遅かった。時々左右にフラフラと乱れながら、ゆっくりあちこちを見回したり、空を見上げたりなんかする。土方も真似して空を仰いだ。雲の重い灰色と晴れ間の濃紺が斑模様になっていて、太った半月が姿を見せていた。
 坂田がちょっと立ち止まった。さっきから猫一匹通らない道路にずいーっと眼を走らせ、土方に向ってひそひそ言う。
 「俺さ、一回道路のど真ん中歩いてみたかったんだよね」
 「……やるんだろ?」
 土方がニヤッと笑って見せると、下らないことを思いついた小学生みたいな笑顔が返ってくる。そして、やはりフラフラした足取りで道路の中心、白線の上に乗った。土方も続く。のろのろと歩きながら、坂田はちょくちょく背後を振り返る。つられて土方も振り返り、車が来ないのを確かめてはまた前を向いた。
 「なんか、来ねえって分かってんのに緊張するよな」
 「分かる、ソレ」
 「俺ちょっとドキドキしてるもん、心臓が」
 ドキドキ。ソワソワ。しんと静まり返った住宅街を二人は歩く。風はそよとも泳がない。聞こえるのは二人の靴がアスファルトを擦る乾いた音だけだ。


 そうしてちょっとしたスリルと一緒に歩き続け、十分近くも経ったろうか。行く手に公園があった。坂田は迷わずその入り口を通った。
 滑り台の階段を、坂田は一段飛ばしで上がった。天辺で向きを変え、スロープの縁を掴んで後ろ歩きに降りる。土方は坂田のやった通りに追いかけた。次は高さの違う鉄棒を互い違いに潜る。次はジャングルジム。坂田の足跡をそっくりそのまま辿っていく。背中しか見えなかったが、声を出さずに笑っているのが分かった。土方の顔もつられて緩む。二人して忍び笑いを漏らしながら、最後にやってきたのはブランコだった。
 ほとんど同時に、隣り合ったそれに腰掛けた。ブランコに乗るなんてそれこそ何年ぶりかの事だったが、身体はちゃんと漕ぎ方を覚えていた。
 前後する度に、耳元で空気が音を立てる。独特の浮遊感と、頬を撫でられる冷たい感触が心地良い。隣の坂田は、首をカクンと折って頭上の一点を見つめていた。揺れに合わせて銀髪がふわ、ふわと泳ぐ様が目に楽しい。
 視線に気付いたらしい坂田と眼が合った。坂田は見てみ、と天を指差す。
 「一番前来た時にさ、木の枝の間から月が見えんの」
 「へえ」
 土方も真上を向いた。なるほど確かに、木の葉の間に月が見え隠れする。だが坂田のいる位置とは角度が違うせいか、その姿は僅かしか望めない。少し見ただけで視線を戻してしまった。だって坂田の髪の揺らぎの方が面白い。
 「何、見惚れちゃってんの?」
 「見惚れるか、バカ」
 「だってさっきからメッチャ見てんじゃん」
 「お前に用はねーよ。お前の頭に用があんだよ」
 「なんかすげえパラドックス感じんですけど」
 「うっせ、黙ってろ」
 もー照れ屋サンなんだから、と言ったきり坂田は黙って、また月を見上げた。


 しばらく無言で漕ぎ続ける。ずっとそのままでも良かったのだが、聞きそびれていた事を思い出した。
 「なあ」
 「んー?」
 「お前、よくこんなことしてんのか?」
 「こんな、って?深夜の散歩?」
 「ん」
 「これが初めて」
 「……何してんだよ」
 「なんとなくー。ちょっとさ、憧れんじゃん。誰もいない時間に外歩くの。世界俺のモノ」
 「シアワセな奴」
 「そりゃどーも」
 「俺さー、恋人にすんならこーゆー変なのに付き合ってくれる子がいい」
 「唐突だな。つーかこんなん付き合う女いねーよ。その前にお前に恋人とか一生無理」
 「ひっで。いいよそん時は。土方誘うから」
 「行かねーよ。一人でフラフラしてろ」
 「ついてきてんじゃん。今まさに」
 「……なんで俺誘ったんだよ」
 「なんとなくー」
 「オイ」
 「ホントだって。なんとなく。土方一緒だったら面白いかなー、って」
 「……あっそ」
 「聞いといてそのリアクションかよ」
 あっそ。別に二人は一番の親友とかそういうのじゃない。互いにもっと仲のいい連中はいる。中学一緒だった奴らとか。でも坂田はそいつらじゃなくて、土方を誘った。ホント、何で俺なんだよ。他の奴でもいいのに。
 そりゃ、今同じクラスなのいないから、一番よくつるんでんのは俺だけど。家、近いけど。徒歩十五分。徒歩十五分?
 なんだ、家近いからかよ。そりゃ当たり前だ。深夜だし。
 土方は唐突に納得した。唐突過ぎて、その理由が無かった時に浮かび上がろうとスタンバイしていた諸々は、再び意識の底に潜ってしまった。


 二人して無心にブランコに身を任せていたが、やがて坂田がそろそろ帰るかと言った。来た時と同じ道を、同じようにフラフラしながら無言で帰った。坂田といる時は、遠慮なく軽口を叩けて気が楽だと思っていたが、こんな風に黙っていてもそうなのだと知った。
 土方の家の前で二人は別れた。物音を立てないように部屋に戻り、なんとなく気になって窓の外に眼をやった。歩いていく坂田の背中が見えた。
 見ていると、坂田が突然スキップし始めた。そのままくるくる自転したり、万歳に似た何かをしながら遠ざかっていった。気持ち悪い奴。わけわかんね。
 土方は電気を消してベッドに潜り込み、携帯を見た。10月10日2時9分。明日――今日の一時間目は睡眠に決定。


 明けて朝、坂田は遅刻した。担任にこってり絞られていたが、その日一日上機嫌だった。変な奴。


fin.

2009/10/10初出
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