Not satisfied yet.
育った孤児院がなくなってからのミチルは行くあてもなく、生きるために盗みをして日々を繋いでいた。街の路地裏、使われなくなった倉庫や廃墟、そんな場所を転々として幾月。偶然見つけたのが、管理人の城だった。
造りは立派なのに、警備兵がまるでいない。かと言って廃れたような雰囲気はなく、伸びきったツタが絡まっているだとか剥がれた壁のがれきが散乱しているだとか、そういったほころびは一切見当たらなかった。はずれの丘にそびえるその城は、あまりに不自然で不気味だった。
罠が仕掛けられているのではないか、とはミチルも当然思ったが、これほどの城ならば高く売れる調度品があるはずだという期待の方が勝った。もう最後にパンを口にしたのが何日前だったか覚えていない。空腹はミチルの警戒心すらも食い尽くしてしまった。とにかくお金か食べ物が欲しい。ふらふらと吸い寄せられるように、ミチルは城の入口へと近づいていった。
警備が飛んでくることも魔法で弾かれることもなく、すんなり城内に入ることができた。もうここまで来たら行くしかない。罠だったとしても、その時はその時だ。半ば投げやりな気持ちで、ミチルは辺りを見回す。
ひらけた空間に、中心と左右にいくつかの階段。城らしい造りが広がっていたが、ミチルは大きな違和感を感じた。黄金で作られた像や有名な人物が描いたであろう絵画、よくわからないが高く売れそうな壺。ミチルはそういうものがあるだろうと当然のように想像していたのだが、何もなかった。値の付きそうなものはおろか、持ち歩けるような装飾品のひとつでさえ、この城にはなかった。だだっ広い空間があるだけだ。警備が一切なかった理由が分かり、ミチルは肩を落とした。
あまり期待はできないが、希望を捨てきれないミチルは城内の散策を続けた。長い廊下を進む。ここにも歩くのに必要な最低限の明かりがついているだけで、一切の飾り気がない。
しばらく行くと、開いている扉を見つけた。すっかりゆるんでいた緊張が戻ってくる。前後左右を確認したのち、扉の中に顔だけを滑り込ませ息を殺して様子を探る。
はずだった。
「……なんだこれ」
ミチルは目に飛び込んできた光景に、思わず声を漏らしてしまった。今まで歩いてきた質素な廊下とは別世界のような空間が、そこには広がっていた。
食べたままの食器、乾燥しかけた果物の皮、脱ぎっぱなしの衣類。これまで微塵も感じなかった「生活感」が、この部屋に集約されていた。
荒れ果てた部屋を見てしばらく唖然としていたミチルだが、ふいにイライラした感情が強く込み上げてきた。ミチルの育ちは決して良いものではなかった。だからこそ、これほどの立派な城に住んでいながら暮らしぶりが美しくないことに対して、深い憤りを感じた。美しい場所での生活は、美しくなければならない。ミチルはそう考えていた。
足を踏み入れると砂埃がジャリ、と音を立てた。この部屋に入った瞬間から、ミチルの頭から「窃盗」という言葉はすっかり抜け落ちていた。何かにとり憑かれるように、ミチルは部屋の掃除を始めた。こんな部屋は、この城に相応しくない。
まずは目につくごみを大きな袋にまとめて投げ入れていく。脱ぎ捨ててあった衣類を手近なかごにまとめ、放置されている食器類は重ねてシンクへ。食洗器を見つけたので、軽く汚れをすすぎ落し大量の皿をそこへ並べていく。洗濯機は見当たらないので後回し、かごの中からやわらかそうな素材のシャツを一枚取り出し水を含ませ、ドロドロのテーブルを磨いていく。立てかけてあったほうきとちりとりで床が見えるまで細かいごみを除去したら、濡らしたシャツで床も磨く。やっと全体が見えた床を見て、ミチルは前髪を上げ満足そうに息を吐く。干す場所はたくさんあるし、あとは洗濯機を探そうと振り向いた、その時。
視界に、透き通るような銀色が飛び込んだ。少し青みがかった冷たい印象の、透明感のある儚いシルバー。それは今まで見たこともないほど美しい輝きだった。
「……お前、そこで何をしている?」
少し低めの、落ち着いた女性の声が降ってくる。銀色は、女性の長い髪だった。
これまで幾度も盗みをしてきたこともあり、ミチルは人の気配を察知するのが得意だった。こんなに接近されるまで気づけないほど掃除に熱中していたのだろうか。ミチルは違う、とすぐに自分の考えを否定した。
見ただけで分かった、この女性は普通ではない。上手く言い表すことができないが、ミチルは間違いなくこの女性に勝てない。それだけははっきりとわかった。
警戒するべき場面だっただろうが、ミチルはそうすることができなかった。腰までまっすぐ伸びた艶やかな銀髪、白い肌、グレーがかったブルーの瞳。目の前に突如現れた女性は、この世のものとは思えないほどあまりにも、なにもかもが綺麗だった。
──美しい。
その言葉が頭に浮かんだきり、それ以外の何も考えられなかった。すべてがどうでもよくなり、ミチルは女性から目を離すことができなかった。
女性は軽くあたりを見回し、視線をミチルに戻した。
「片付けてくれたのか」
「え? あ……はい」
予想しなかった言葉に、ミチルは思わず敬語で返す。声を出したことにより、ミチルの脳がゆるやかに動き始めた。
彼女はこの城の主なのだろうか。相当な実力者であることは間違いない。この城がなんの目的でこんな辺境に建てられたのか分からないが、機密性の高い場所であることは確かだろう。もしかしたら自分はこの場で殺されてしまうかもしれない。
そこまで考えて、ミチルは「それでもいいか」と思った。居場所がないから盗みを続け生き長らえてきたが、もともとこんな見苦しい人生に執着はない。無様な醜態をさらし続けるくらいなら、いっそ終わってしまった方がいいのかもしれない。散るときはせめて美しくありたい。こんなに美しい人に殺されるならむしろ本望ではないか。
恍惚な目線を向けるミチルに、女性は口の端を薄く上げてみせた。
「そうか、ありがとう。なんだか知らんが助かった。仕事は嫌いじゃないんだが、少し熱中すると生活の方が疎かになるので困っていたところなんだ」
ミチルは目をしばたたかせた。女性が何を言っているのか、脳が処理するまでに時間がかかった。
他人に感謝されるのなんていつぶり、いや、これまでにそんなことがあっただろうか。
再び、女性の完璧な造形の唇が動く。
「お前、どこから来たんだ」
ミチルは言葉に詰まった。どこ、と聞かれても、答えられるような場所なんてない。
「ここは転移禁止区域だ。わざわざこんな辺境まで、掃除をしに来たわけじゃないだろう」
あぁ、尋問が始まったのか。ミチルは特に偽りの言葉も思い浮かばず、思ったことをそのまま口に出すことにした。
「ええと、その。住む場所が、なくて。しばらく城下町で盗みをしていたんですけど、いよいよ追い出されまして」
「ほう」
女性は首をかしげてミチルの言葉に耳をかたむける。人とまともな会話をしたのもいつぶりだったかな、とミチルはぼんやり思った。
「次の町を探そうと思って、歩いてました。転移の魔法なんて教わったこともないですし。その途中でこの城を見つけて。もう、お腹が空いて限界だったので、その」
「何か盗んでやろうと思ったわけだな。……それがなんで掃除になったんだ?」
「いやぁ、それは……自分でもわかりません。汚いの、見るとだめなんです。こんなことしている場合じゃないって、わかっているんですけど……はは」
「……ふふ」
女性は目を細め、口元を抑えた。それから身体をくの字に曲げ、豪快に笑い始める。
「あっはっは! お前、変な奴だなぁ。そして正直だ」
現実のものとは思えないほど美しい女性が、普通の人間のように腹を抱えて大笑いしている。そのアンバランスな完璧さに、ミチルは女性から目を離すことができなかった。
やがて女性は一息ついて、落ち着いた声で呟いた。
「うーん、でも、そうか。やはりバランス調整が上手くいっていないようだ。出力をもう少し抑えるか……?」
ミチルは呆然と女性を眺めていた。しかしどうやらこの様子だと、殺されることはなさそうだ。盗みに入ったと言われても、気にするそぶりすらない。いや、最初から、自分ごときがこの女性から何かを盗めるはずがなかったのだ。あまりにも愚かで浅はかだった。途端にミチルは、自分の矮小さが恥ずかしくなった。
同時に、命の危険がなさそうだという安心感からだろうか。しばらく動いていなかったミチルの胃が空腹を思い出し、急激に訴え始めた。静かな城内に、内臓が動くまぬけな音が響き渡る。
「あぁすまん、腹が減っているんだったな」
ミチルの顔がぼ、と熱くなる。お腹が鳴ったことも恥ずかしいが、一番はそこじゃない。つい先ほどまで、殺されてもいいと思っていたはずなのに。結局は今生きていることに安心しているのだ。その浅ましさにミチルは耐え難い恥を感じた。美しく散るよりも、醜く生きることを選んでしまうのだ。何をそんなに執着するのか。生きていたって、自分には何もないというのに。
女性は棚に手を伸ばし、袋をひとつ取り出した。一度開封したものらしい。覗き込んで中身が入っているのを確認すると、袋ごとミチルに投げた。ミチルが慌てて受け取ると、中には厚みのあるクッキーのようなものがごろごろと入っていた。
「そんなものしかなくて悪いな。お前の腹が減っているのは私の責任だ。こっちでは、そうならないはずなんだ。悪かった。まぁ、とりあえず食え」
女性の言葉の意味は相変わらず解らなかったが、もう考えるのに使うエネルギーも尽きていた。ミチルは袋からひとつクッキーを取り出し、おそるおそるかじった。甘かった。じわ、と乾燥していた口内に唾液が分泌される。久しぶりに固形物を受け入れた胃が痛いほど暴れる。ミチルは次々と口に放り込んだ。
いつのまにか涙も流れていたらしい。口内の水分が足りなくてむせる。女性がお茶を持ってきてくれたので一気に流し込み、またクッキーを口に放り込む。もう味はわからない。それでも満たされない命を少しでも埋めたくて、食べる。
袋が空っぽになったころ、女性が口を開いた。
「お前、もし行く場所がないならここにいないか?」
今まで遠くから聞いていたような女性の声が鮮明に聞こえる。ミチルは手に持った袋を強く握りしめた。
「いいんですか!?」
「補佐はいらないと思っていたんだがな。身の回りのことをしてくれる奴がいるのは助かる」
この人は、いったい自分にどれだけ与えれば気が済むのだろうか。ミチルは考えるより早く身を乗り出していた。
「ぜ、ぜひ、よろしくお願いします! あの……!」
「まぁ落ち着け」
女性になだめられるが、ミチルは興奮していた。誰かに必要とされることも、ミチルにとっては初めてだった。抱いたことのない感情が胸の中で渦巻いて暴れる。捨てるものすらない下らない人生だったが、今この瞬間から、そのすべてをこの女性に捧げよう。自分はきっと、この人に出会うためにこれまで生きてきたのだとさえ思った。そのために、醜くともここまで命を繋いできたのだ。
「お前、名前は」
「ミチルです。
「ミチルか。いい名前だな」
女性は笑みを深めた。
「私はイリアだ。よろしく頼むな」
「は、はい!」
その日からミチルにとってイリアが全てで、イリアが世界となった。
こうしてミチルが鏡界の副管理人という肩書きを得たのは、ミチルとイリアが光一を連れてくる六年ほど前の話だった。
[もくじ]
[しおりを挟む]