7-5
全速力で階段を駆け上がり、光一は肩で息をしていた。
「なんかオレ、ここ来てから走ってしかいないような気ィすんな」
「戦いの場なんてそんなもんでしょ」
隣を走っていたヒカルが涼しい声でそう答えたが、見れば彼の首筋にも大粒の汗が伝っていた。そのことに気付いた光一は少し口角を上げる。
「なんやねん、お前もけっこう疲れとるんやろ」
「別に。人より代謝が良いだけだし」
「オレも暑がりなだけやし」
軽口を交わしてから、光一は改めて進む方向を見やる。階段は壁沿いにひたすらまっすぐ続いていて、いまだ終わりは見えない。背後から敵が追ってくる様子も今のところない。
光一は一度呼吸を落ち着け、少しだけスピードを落として歩を進めた。壁に触れると、ひんやりと無機質な冷たさが心を落ち着けてくれた。
この世界に来てから、光一がヒカルと二人きりになるのは今が初めてだった。ヒカルのそばには常にマロンがぴったりとくっついていたし、光一も大半の時間を修行にあてていたのでイリアの城の中では時々すれ違う程度の接点しかなかった。さらに言えば第一印象が最悪だったため、あまり光一からも積極的に話しかけようとは思えなかった。
だから、光一はまだヒカルのことを何も知らない。ただ聞きたいことなら山ほどあった。
「さっき……《光属性》って言ってたけど。それはオレがお前と、《融合》? するから使えるってことなんか?」
ヒカルは一瞬だけ光一を一瞥して、すぐに視線を外した。
「違う」
「……? でもさっきおりぴーのリバーシがそんなん言うてたやん。本体とリバーシがどうのって」
「《融合》って現象はあるよ。オレがこの目で見た。でもオレとアンタじゃそれはできない」
「え、なんで?」
眉根を寄せた光一がヒカルを見る。しばらく黙っていたヒカルだが、やがて苛立ちを吐き捨てるようにぶっきらぼうな声を返した。
「ここまで言ってわかんないかな。オレと、アンタは、リバーシじゃない」
「……え?」
強調するように、ゆっくりと発音するヒカル。
会話を交わしながらも動かしていた光一の足が、ここでついに止まった。自分のリバーシだと聞かされていたから色々と聞きたいことがあったのに、彼の言葉が本当であれば前提を覆されてしまう。
光一の中に浮かぶ疑問は、急速に新しいものへ変わっていった。
「そーなん!? え、でも《光の剣士》は? てかそんならオレのホンマのリバーシはどこにおんの?」
「本物のヒヤマコウイチは死んだ」
死、という強い単語に光一は言葉を飲む。
しかしその説明では、光一が持つ知識の範囲では矛盾が生じる。リバーシが死んでしまえば本体も死んでしまうのではなかったか。
「正しくは死ぬ直前に、父さんがアンタと《融合》させた。そしてオレがヒヤマコウイチの代わりに、アンタのリバーシとして生きてきた」
光一が聞く前にヒカルが補足した。ぐちゃぐちゃに混乱した光一の脳が、ひとつずつ事実を飲み込もうと回転し始めていた。
「えっと、じゃあさっきお前が『見た』っていう《融合》って……」
「アンタと、《光の剣士》である本物のヒヤマコウイチのことだよ」
ずっとヒカルに対して感じていた違和感。それがこの話を聞いて、光一の中で少し納得のいくものとなった。
同時に、また新たな疑問が降って湧く。
「オレのリバーシの代わりっちゅーのがよく分からんけど、じゃあヒカルの《本体》はどーなるん?」
「オレには生まれつき《本体》がいなかった。オモテがないのにウラだけの存在、みたいな感じかな。そもそもオレがこの世界にいること自体、不自然なことだったんだ。その証拠に、今までオレが偽物だってことなんて誰も気づかなかったしね」
光一は止めていた足をまた動かし始めた。
鏡界というこの世界のこと、リバーシや本体のこと。正直なことを言えばここにきてまだ、光一の中では壁一枚向こうの世界の話のように思っていて、本当の意味で実感しているわけではなかった。だからヒカルが自分のリバーシの代わりを務めていることも、そのヒカルには本体がいないということも、この世界にも例外があるのだという程度の認識にしかならない。
だが、ヒカル本人はどうだったろう。
光一にとっては本当の世界はここでいう人間界で、魔法だとかリバーシだとかは存在してもしなくても支障がない。今まで知らずにずっと生きてきた。それが当たり前だったからだ。
それと同じように、ヒカルにとってはこちらの世界が『当たり前』なのだ。それなのにみんなにいるはずの本体が存在せず、さらに他の誰かの代わりに生きなくてはならない状況になってしまった。彼はどんな思いでこの世界を生きてきたのだろう。光一には想像することすらかなわない想いだったが、しかしそれで終わりにしてはいけないと思った。
目の前に立つ、自分と同じ顔をした黒髪の少年は自分ではない。けれど他人でもなかったことを、光一は今知った。
「……ありがとうな」
「は?」
口をついて出た感謝の言葉にヒカルは呆けた声を出したが、少なからず驚いていたのは光一も同じだった。
ただ、自分のリバーシが既に死んでいて、その代わりをヒカルが引き受けてくれていた。なにも知らず光一が生きていた反対側でそういうことがあった。おそらくそのことは事実なのだろう。
「ようはお前がいてくれたからオレも、オレのリバーシも消えずに済んだんやろ? 細かいことはよう分からんけど、多分ずっとお前に助けられてた。せやからありがとう」
再度、今度はしっかり自覚を持って感謝を伝える。伝えたところで何が変わるわけでもないのは光一にもわかっていたが、知ってしまった以上は伝えなくてはならないとも思った。
しばらくヒカルからの返答はなかった。求めていたわけでもなかったのでそのままこの話は終わりにしようと光一は思ったが、ぽつりとヒカルがつぶやいた。
「オレはさ、アンタのリバーシ……コウイチのこと、兄さんみたいに思ってたんだ」
「そう……なんか」
「ずっと一緒に育ったんだ。オレと兄さんは性格も全然違うし、剣の才能があった兄さんに比べてオレにはなんにもなかったけど、そんなオレをいつも励ましてくれてたんだ」
少し前を歩くヒカルは振り返らずに、独り言のような音量でつぶやきを重ねる。自分の知らない「自分」を他人(と呼んでいいのかも最早わからないが)の口から語られる不思議な状況に奇妙なこそばゆさを感じながらも、光一は黙って耳を傾けた。
「オレ、一人じゃ駄目でさ。母さんも兄さんもいなくなって、いよいよ生きる意味とかよくわかんなくなっちゃって。……マロンと出会えたからなんとか自分のこと騙し騙しでやってきてたけど、アンタの顔見てたらなんか色んなこと思い出しちゃって。また弱い自分に戻っちゃいそうだったから必死だったんだ」
冷たいと感じた不可解なヒカルの態度は、彼自身を守るためのものだったのかもしれないと光一は思った。そういった弱さは、自分の中にもあると自覚していたからだ。
「アンタはこの戦いが終わったら向こうの世界に帰るんだろうし、ここでの記憶も全部なくなるんだろうけどさ。それでもオレ、アンタに会えて……良かったよ。兄さんがちゃんと、アンタの中で生きててくれたんだって思えたから」
内側からこぼれるようなヒカルの言葉は、自然と光一の心に落ちてきた。そしてそこで初めて、光一はヒカルのことがわかった気がした。
一緒だった。そんなに難しいことではない。きっとヒカルも孤独が怖いだけだった。キラキラあたたかいものを自ら遠ざけてしまう臆病さも、はねのけてなお寄り添ってくれるあたたかさにどれだけ救われるかも、光一は知っている。
すべて理解したとは到底言えないが、今はそれで充分だ。
光一もヒカルと話ができてよかったと感じた。たとえ忘れてしまうかもしれない記憶でも、もっとヒカルと話がしたいと思った。
ヒカルが光一のリバーシじゃなかったとしても、話したいことはたくさんある。コウイチのこと、ここでの生活のこと、両親のこと……。
そこでふと、光一は強烈な違和感を抱いて少し前にヒカルが言ったことを脳内で再生しなおした。
ーー『正しくは死ぬ直前に、父さんがアンタと《融合》させた。そしてオレがヒヤマコウイチの代わりに、アンタのリバーシとして生きてきた』
父さん。
コウイチと光一を融合させたのは父さんだと、ヒカルは言っていた。
父さんとは、誰のことだ? 光一の鼓動が早まる。
ヒカルの父ということなのだろうが、ヒカルはコウイチのことを兄のように思っていたと言った。ヒカルとコウイチは共に暮らしていたのではないのか。じゃあヒカルの口から出た父さんと母さんは、コウイチの両親、つまり光一の両親のリバーシなのではないのか。
光一は母から、父は自分が生まれてすぐに亡くなったと聞いていた。じゃあこの世界にいた父はいったい誰だ?
ヒカルに問おうと光一は口を開いた。しかしそれを遮るように、まったく別の声が前方から割り込んできた。
「はい、お疲れサマです。ここから先は、めんどくさいんで行かないでもらっていいですか?」
「お前……っ!」
陰気に伸びた群青の前髪から、片側だけ上がった口角の歪な唇がのぞく。この建物に来る前に振り払ってきたショウタという剣士が、ヒカルと光一を待ち構えるように通路の真ん中に立っていた。
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