7-4
何も見えない。
何も聞こえない。
目は開いているはずだった。耳も塞がってはいないだろう。なのに、それらの器官は光一の脳に何も届けてはくれない。
いや、おそらく器官は正しく仕事をしていた。ただそこに「何もない」という信号を正確に脳へと送ってくれていた。
そこにあるのは闇だった。
外側に何もないことがわかると、今度は光一の内側からあるものが唐突に湧き出てきた。黒い、冷たい、ふわふわしているが確かな質量を感じるもの。恐怖心だ。
一度恐怖を認識してしまえば、それはここぞとばかりに存在を増幅させる。死骸に集まる虫のように少しづつ少しづつ、じわじわと確実に光一の心を齧り取っていく。
一人は嫌だ。
光一は迫りくる恐怖から逃れようと、他人の存在を求めた。
光一は孤独が苦手だ。一人でなど戦えない。戦う意味がない。自分以外の誰かがいてくれるなら、そのために自分が傷つくのは構わないのだ。
だから光一はここへ来た。
側にいてくれる人を失った喪失感を抱きながら一人であの場に留まることを思えば、それを回避するために戦い、結果として命を落としたとしてもその方が幾分もマシだった。
孤独は光一にとって、死よりも怖かった。
「闇は嫌いか? 少年」
押し寄せてくる恐怖と焦燥に呑まれそうな光一の肩を叩いたのは、どこからともなく降ってくるカナタの声だった。
その声が光一の脳に届いたとき、光一はうっかり泣き出してしまいそうだった。あと数秒でも放置されていれば、自分の内側からの重圧に堪えきれず大声で叫んでいただろう。
それを情けないだとか恥ずかしいだとか、自分の中で見栄を張る余裕すら今の光一にはなかった。ただただ、自分以外の誰かがいてくれたことに安堵した。
少し気持ちを落ち着けてから、光一は意識をカナタとの会話へ向けた。
「これは……あんたの魔法か?」
「そうだね。正直すぐにでも試したいことがたくさんあるんだが……あいにく今は立て込んでいるから。少しだけここで大人しく待っていてくれ」
《闇魔法》というやつなのだろうか。イリアやヒカルの存在は一切感じられず、聞こえてくるのはカナタの声だけ。それも耳で聞いているというよりは脳に直接言葉が送られてくるような妙な感覚だった。
漫画やゲームでよく見る「あなたの脳内に直接……」というのはこういう感じなのだろうな、と光一は思った。
しかし、素直にこんなところで足止めをくっているわけにはいかない。孤独によるパニックから戻ってきた光一は、闇の中に入る前の出来事を思い出した。再び焦燥が顔を出す。
「ふざけんな! やっとここまで来たんや、早くしないと賢斗が……」
「だから待ってと言っているんだ。こうでもしないと君はせっかくの実験を台無しにしてしまうじゃないか」
あくまでも悠長な態度で話すカナタに、光一の焦りは全て怒りへと変換されていった。光一が声を発する前に、カナタの言葉がすべり込む。
「いや、それにしても君にはすこし驚かされたよ。あのイリアまで動かして、わざわざここまで来るなんてね。いったい気まぐれなあいつに、なんて言ってその気にさせたんだい?」
「イリアは自分からここに来たんや。友達のあんたを助けたくて。オレと同じや」
「……イリアがそう言ったのか?」
光一が肯定の言葉を返すと、少しの沈黙のあとにカナタはそれを鼻で笑った。
「イリアが? 私を、『友達』だと? 笑わせる」
「ちゃうんか?」
「……ひとつ良いことを教えてやろう少年。レベルの違う者同士では、対等な『友達』にはなり得ないんだよ」
「レベル? ……イリアが、あんたよりレベルが下ってことか?」
「逆だよ」
表情もわからず、暗闇で声のみを交換する。光一には、カナタの言いたいことがいまいち見えてこなかった。
「イリアは凄い奴さ。昔からずっと、凄い奴だった。私が努力してやっと目的地にたどり着けたと思った時には、あいつは涼しい顔でその遥か高みから私に笑顔を向けるんだ」
スイッチが入ったらしく、カナタは光一に反応も求めず続けた。
「優秀な奴が隣にいるとさ、どんどん自分を許せなくなる。がんばっているのに届かない。そのうちがんばらなきゃいけない状況にすら腹が立つ。スタート地点が違えば走り出した時のスピードも全然違う。……君だって、そういう風に思ったことがあるだろう、少年?」
そこで急に話を振られて、光一はどきりとした。会話というよりカナタの独白に近かったので油断していた。授業で突然当てられた時と同じ声色で光一は返す。
「え、オレが、何?」
「君もどちらかというと、私と同じ側の人間なんじゃないかと思った、ということさ。君の友人は優秀だ。まだ数日間しか見ていないが、素直にそう思うよ」
カナタのその言葉で、光一はやっと彼女が言いたいことを理解した。自分と賢斗のことを言っているのだろう。光一は少しだけ考えた。
「んー……まぁ、賢斗はたしかにすごい奴やけど。別にオレは上とか下とか、考えたことなかったなぁ」
「……あぁ。そうか」
光一の返答を聞いたカナタは、妙に納得のいった声を返した。
「そこまで考えられるほどのレベルにすら行きついてなかったのか、君は。失礼した。なるほど、幸せそうでなによりだ」
よくわからないが、とにかく馬鹿にされたらしい、と感じた光一は口をつぐんだ。やはりカナタの言うことは光一には理解できそうもない。
そろそろ黙ってカナタの話をきいているのも限界だと思ったとき、光一は胸のあたりに物理的な温度を感じた。
暗闇の中でじわじわと存在を主張するのは、この世界に来てから身につけることとなったネックレスだった。
手探りでそれに触れると、ひとつのアイディアが浮かぶ。
闇に抵抗するには、光だろう。
ひとりでに熱を帯びたペンダントトップを握りしめ、力任せに引きちぎる。握った手のひらの隙間から熱気が漏れ出て、それは目に見える形で炎へと変化した。
この世界で重要なのは筋力や腕力ではなく、思いの強さ。光一にはもうわかっていた。ここではきっと、自分が「こうしたい」と思うことが何より大切なのだ。
不規則にゆらめいていた炎は光一の意思に呼応するように形を整え始め、やがて剣のフォルムへとまとまる。柄の部分を握り、道を切り開くように剣を振った。
温度はやがて光へと変わり、徐々に広がるそれは闇を飲み込んでいく。煙のようにくすぶっていた最後の闇を光一の炎が食べつくすと、ひらけた視界に目を丸くしたヒカルとイリアが現れた。
「あ、戻ってきた」
「自力で出てきたのか。やるな」
二人の声は心底意外そうなものだった。闇の中で一人だったのはほんの数分だ。だが光一には仲間の顔がひどくなつかしいように思えて、帰ってこられたことに安堵した。それが表情に出ないように、いつもより意識して眉間に力を入れる。
光一の帰還に驚いていたのはカナタも同じようだった。切れ長の目を見開いた彼女がわずかに唇を震わせる。
「なぜ……闇魔法を自力で解けるはずは……」
「オレは暗いのキライやからな! 炎で全部燃やしたったわ」
得意げな光一に、カナタが苛立ちを孕ませた瞳を向けた。
「できるものか! 闇属性に炎属性が効くわけないだろう」
「炎じゃないよ」
ぽつりと声を上げたのはヒカルだった。カナタと光一は同時にヒカルに目を向ける。ヒカルは光一に視線を返した。
「あんたが使ったのは炎属性じゃない。《光属性》だ」
今度はイリアも表情に驚きを滲ませた。光一は首をかしげる。
「え、そーなん? いつもとおんなじようにやっただけなんやけど」
「なるほど。《共鳴》か……!」
カナタが、見開いた目をそのままに興奮を抑えきれない様子でつぶやいた。
「リバーシである《光の剣士》と本体である《緋山光一》が同じ場所にいることで、魔力が共鳴しているんだ! そうか、じゃあつまりこっちも……!」
しきりに唇付近を指で撫で、カナタはぎらついた瞳を光一に向けた。その場に、再び上方からの轟音がうなる。
立ちすくんでいた光一の腕を、ヒカルが力強く引っ張った。
「上。行くんでしょ」
その言葉にハッとし、光一は足に力を入れる。
うしろからカナタの「待て!」という叫びと衝撃音が聞こえたが、今度は闇の中に引きずり込まれることはなかった。少し前を軽やかに走るヒカルの後ろ姿を見ながら、光一は二段飛ばしで階段を駆け上がった。
空間に舞う砂埃に目を細め、カナタは階段の先を見つめていた。
「……相変わらず魔法が雑だな、イリア」
彼女の視線の先にあるのは階段だが、そこに続く道はもはやなくなっていた。たった今光一たちが登って行った段はごっそりと抉れていて、土で作ったものを上からシャベルで雑に崩したようになっていた。その場に漂っていた小さな竜巻が、空気に溶けるように静かに消えていった。
「寂しいじゃないか。久しぶりに顔を合わせてじっくり話ができるんだ、お互いの近況報告でもしよう」
イリアがそう言ってカナタに微笑む。カナタは少しの沈黙をとったが、息を吐いてイリアに向き直った。
「まぁいい。奴らはお前を沈めてからじっくり研究することにしよう」
「お前と喧嘩するのは初めてだったな」
イリアはまとっていた白衣を身体から剥がし放り投げた。それと同時に、左手首にかけていた革ひもでラフに髪をまとめ上げる。数回頭を振ると、それに合わせてしなやかに輝く彼女の髪が動物の尾のように美しく揺れた。
少し面倒そうな態度のカナタとは対照的に、イリアの表情は楽しげだった。それに気付いたカナタはいまいましげに鼻で笑う。
「すぐに終わらせる」
「ほう、随分な自信がついたようだな。なによりだ」
「……どこまでも人をコケにしやがって。自信なら元々あったさ。お前に会うまではな」
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